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ああ、誰にも見られずにここまで辿りつけたなんて、まるで奇跡だ。
もし、誰かに見咎められていたらと想像して、堀河は思わず震えあがった。
もう二度とこんな思いをするのは御免だ。
堀河は帳台の中で寝ている男の方を睨んだ。
男はあいかわらず生きているのか死んでいるのかわからないほど、ぴくりとも動かない。
今夜は帳台を男に譲ったまま、この畳の座の上で眠るほかあるまい。
主からの呼び出しさえなければ、こんな厄介事に巻き込まれることもなく、今頃は里の娘の部屋で、帳台の中で一緒に臥し、安らかな若々しい寝息を聞きながら眠りにつけただろうに。
堀河は先程まで娘のことで里に戻っていたのだった。
堀河は十代の終わりに一度結婚したことがある。
父が決めた結婚相手は同じ村上源氏の血を引く人で、優しかったが身体が弱かった。
堀河の元へは月に何度か通ってくるだけで、後は自分の実家で臥せっていることが多かった。
しばらくして娘が生まれたが、夫の病は悪くなるばかりで、ますます会う機会は少なくなり、とうとう娘が三つにもならない頃に夫は身罷ってしまったのだった。
あれからもう、十五年以上も経つのか。
月日の経つのは早いものだ。
あのまだ頑是無くて父が死んだことすら理解できなかった幼子が、もう婿を取る年頃になったとは。
堀河の娘は今年十八歳になる。
夫が死んだ後、幼い子供を抱えて途方に暮れていた堀河に、前斎院令子内親王様の御所へ女房として出仕しないかという話を持ってきたのは父だった。
村上源氏のうちでも、堀河の生まれた家系は、代々歌の上手が多いことで広く名を知られていた。
特に堀河の父である神祇伯源顕仲は名高い歌詠みで、その血を受けた堀河たち兄弟姉妹は、当然のように幼い頃から自然と和歌に親しむようになった。
中でも堀河は自分から進んで和歌を学び、まだ少女の頃から非凡な才能を現した。
父は目を細めて、そんな堀河をことのほか可愛がってくれたものだ。
本当のことを言えば、姉妹の中で抜きん出た美貌を持つわけでもなく、性格も大人しく目立たない堀河にとって、多くの兄弟姉妹たちのうちで特に父に愛されるためには、父を喜ばせるような上手な歌を詠むしかなかったのだ。
もちろん、元々歌は好きであったが、あらゆる歌書に目を通し膨大な古今集をそらんじるまで、寝る間を惜しんで日々作歌の精進を続けて来たのも、多くは父に目を掛けられるためであった。
だが、そうであったとしても、やはり歌というものは、堀河にとって特別な何かを持っていたのだろう。
歌を詠むと、堀河の胸の内から憂さが薄れ、波立った心もやがて静まっていった。
和歌にすれば、目に移る春夏秋冬の景色はさらに鮮やかに彩られ、喜びも哀しみもいつしか美しい思い出へと変わっていく。
歌は堀河の生活を活き活きと輝かせ、心身ともに健やかにしてくれた。
そして、そのようにして長じていくうちに、父の愛を得るための道具であった歌は、いつしか堀河のかけがえのない生き甲斐になっていったのである。