恋しているのは誰?
今作は細やかな推理要素を含む、大まかに五つの大段落から成り立っています。
【4,真相】を読み進めます前に、ある程度の推理(ではもしかすると語弊があるかもしれませんが)を固めておくとより一層楽しめるのではないかと個人的には考えています。ので、是非ともそれを実践なさってくれたらなあとこっそり願ってます。
拙い文章ではありますが、どうか宜しくお願い致します。
【1,探り】
上履きと隣り合わせに暗がりで蹲っていたそれの正体は、長方形の小さな封筒だった。
うだるような猛暑日。七月も下旬。本場の夏季はまだまだこれからの頃、かんかん照りの通学路を気息奄々と踏破し、荘厳とした校門をまたぎ、N**高等学校の下駄箱へと到着した柴水甫が発見したそれである。
桜花色の包装紙が、習慣としてとうに見飽きていた箱の中でこのうえなく異彩を放っていて、ほんの少々摘まみ出すのに躊躇する。が、ひとたび手に入れてからは逸る情緒を圧しとどめ切れず、気が付けば手荒く袋を封切る彼がいた。
封筒には飾り気のない便箋が一枚だけ入っていた。
その紙には几帳面な字形で【柴水君へ】を文頭とした短文が綴られていた。
【どうしても打ち明けたい大切な話があります。恐縮ですが今日の放課後、きっと屋上までおいでください。では、また後ほど】
(まさかこれって……)
あれだけ体中から湧き出ていた脂汗が転じて引っ込んだ。刹那、蝉の耳障りな喧噪すら、病むに足らないちっぽけなそよぎに変換された。
放課後の屋上で、打ち明けたい大切な話――。そうだこれを、これこそをラブレターであると割り切るに差し支えはない。したがって、齢十六になる今年を迎えるまで異性と豊満な関係を築いた経験の皆無であった柴水に恋心を依せている女が、なんとこの学び舎には存していたらしいぞと、そんな夢みたいな現実が浮き彫りになる。
ともすれば舞い上がってしまいそうな幸福の発作を自粛し、ひとまず彼はローファーから内履きに履き替えると、其の場からさかろうとした。自粛するにしても限りはある、寝耳に水の自慢話は、教室で誰ぞ知己にでも吐露してやろうと決めたのであった。
ラブレターは四隅が屈曲しないように学生鞄へ丁重に片しておいて、彼は廊下を渡った。
「あっ、柴水君、おはようございます~」
するとすぐさま背後から、間延びした、別言させれば温柔な声を掛けられる。
振り向いてみると、通路の突き当りから制服姿で、柴水と同系の鞄を肩に携えた心恵七海がこちらへ小走りしていた。
「ああ……委員長。おはよう」と、片手をひょいと挙げる彼と立ち並んだ心恵は、愛敬良く微笑んで、「今日も今日とて暑いですねえ――おや?」柴水の顔を見遣るなり、小首をかしいだ。
「なにか喜ばしい出来事でも?」
「え、どうして」
「顔がすっごく嬉しそうでしたから……」
と、指摘されてようやく柴水は、自分の口許が綻んでいたことを自覚した。慌てて弛緩した筋肉を引き締めたが、よくよく内省してみると、談ずる相手が相手なだけに、何も誤魔化す必要はなかったなと考え直した。
「あぁーうん、まあな」
なるたけ、柴皆は笑みが零れないように答える。やっぱりねと云いたげにしたり顔をする心恵は物欲しそうに、「へえぇ、それはそれは。で、どんな?」と訊ねた。
「どんなって……まあ、そんなに壮大なドラマじゃないんだけど」
「はい」
「放課後、屋上に来てほしいって手紙が置かれてたんだ、俺の下駄箱に」
「へえぇ? 手紙、ですか。ほほぉう、それってつまり――」
「ラブレター……って話になってくるよな」
教室を目指し並んで歩むふたり。痩身長躯の紫水より頭ふたつぶんも背の低い心恵は、それでも彼の目へと視線を飛ばし続けている。けれども、そんなぱっちりとした二重瞼へ紫水は一瞥もくれないのは――説明の仕様のない謎の威圧から――クラスメイトであろうと美人であれば、たちまち正面切って会話するに困難を極めてしまうなんて傾向が、彼には根ざしていたためだ。これは生まれつきの悪癖である。
おまけに心恵は人懐こく快活で、どちらかと云えば内向的な柴皆にとっては苦手なタイプであった。こうして偶然、廊下で居合わせただけの人間へアプローチするのも心恵らしいと云えばらしい行動で、その人情は立派なのだが如何せん、さっぱり目を見て話せないので、実の感懐は複雑だった。
心恵七海が流行りの衣装と化粧とでめかしさえすれば、それ即ち非の打ち所がない絶世の美女の生誕を意味している。当然、そこに遭遇した憶えはないが、心恵の美貌から上々の成果はまず保障されていた。しかし、とうの心恵が“そっち方面”には無頓着なようで、残念ながら化粧のけの字も有りもしないのが現状である――。校外でも変わらず、質朴な生活を営んでいるのだろうか。勝手がましいことだが、せっかくの卓越した素質を生かし切れておらず勿体無いなと、内の奥底で柴皆は考えていたりいなかったり――であった。
ふたりは二階へと架かる階段の踊り場に達した。
「わあ~、純愛ですね。携帯やスマホの普及する近代に、あえての恋文……ラブレターだなんて! 羨ましいっ、妬いちゃいます」
心恵は拝むように手を合わせ、変声期の来していない少女じみた甲高い声を洩らす。
「これ秘密な、まだ皆には秘密だからな」
「了解です。紫水君の恋路に横槍なんて入れません、任せてください」
そう云うと、緘黙の約束に了承した心恵は生き生きと胸を叩いた。人柄の根幹がまっすぐな心恵は口約束だろうとも必ず守ってくれるので、こうして軽はずみに霞んだ心境を暴露してみても、とんだ艶聞が蔓延るかも等の懸念は無用であった。相談するにはまずもってこいの逸材だ。
「それで、差出人はどちら様なんですか?」
心恵の問いに、階段の段差へと目線を落とした紫水は、ゆるゆるかぶりを振った。
「どこにも書いてなかったよ、匿名希望みたい」
と教えると、心恵は意外そうな顔つきになって続ける。
「あれ。じゃあ、その手紙がラブレターだとは云い切れないじゃないですか」
「うん? なんで?」
「――もしかすると、お友達が宛てたのかもしれませんよ。それも、男の友達から」
「はあぁ? 手のこんだドッキリってことお?」
真に受けて語勢を乱す彼に、心恵はおもわずクスッと噴き出す。所得顔で「冗談冗談、軽いジョークです」とうそぶいた。
「なんだ、驚かすなよ……。でも確かに、なんで名前を隠すんだろうな。うぅん……無性に気になってきちまったぞ」
「そうですねえ。ふむ、名前を隠すということは、書き手としては正体を明かすのは避けたかったということ……いや、あるいは気後れしたと酌むべきでしょうか」
「気後れ?」
どうして気後れするんだと云いたげに鸚鵡返しされ、心恵は喉で唸った。
根っこが真面目で、内緒事を他言しないどころかこうして一緒になって逐次に華やぐあたり、本人の知り得ぬ秘密裏で、一部の男子生徒ら監修による小規模ながらも確固たるファンクラブが組織されているのだから、学園のアイドルなる異名は伊達ではないなと、柴皆はひそかに納得する。
「思うに、書き手はこう危惧したのでしょう――その一」
学園のアイドルが指を一本立てる。
「“書き手が書き手自身の魅力に劣等感を抱いていた”可能性。その二、書き手がうっかり名前の記載を失念していた可能性。その三、下手に実在する関係者の名を騙るよりも、潔く無記入にする事によって、犯人はより万全なアリバイを確保しようとしていた可能性」
「……おいおい、三つ目が怖すぎるだろ。なんだよアリバイって。手紙の送り主は、俺を誘き出して殺すつもりだったのかよ」
斜め前へ視線を投げながら柴水が薄く笑うと、
「軽いジョークです。しかしまあ、その二、書き漏らしの線も個人的には薄いかなと」
心恵は親指の腹で頬をさすりながら、そう付け添えた。
「――てことは、残ったのはその一、“自身の魅力に劣等感を抱いていた”可能性?」
三階の踊り場で足を止め、紫水は自問する。近場にはちらほらと生徒の姿も多々あったが、耳をそばだてる、盗み聞きする物好きな輩は居そうになかったので、心恵との雑談はなかなかに長引いていた。
「えぇっと……なんだ、つまりどういう事なんだ?」
紫水は、意味を取りかねたように眉をひそめた。
「そうですねえ……。物知り顔で偉ぶる言い方になるかもですけど――うん、女の子特有の心理とでもまとめましょうか」
「女の子特有の心理?」
「はい。善かれ悪しかれ女の子ってのは、周りの同性と自らを天秤にかけ、手前勝手に各分野における優劣を定めてしまう心理が働きがちです。他人と自分とを、折に触れて比べたがるんですね。その際、あいつよりも私の方が優れている、勝っていると判断してくれたのならまだマシですけど――こちらのメンタリティは男の子に割りかた働きやすいそうです――女の子はガラス細工の壊れ物ですから、小さな傷一つが過敏なまでに鼻につき、それをコンプレックスとしたマイナスの様態に陥り易いんですよ。
謙遜とはまた違う、そこへ更にマイナスの要素を足した卑下って感じです」
「ふぅん、そんなもんなのか」
色眼鏡なしに紫水は嘆息する。
彼が続きを催促すると先読みしてか、心恵は、矢継ぎ早に朗々と報告した。
「手紙をしたためた差出人――恐らく女性でしょう――も心配していたんでしょうね。
私は魅力に欠けているのだから、こんなつまらない私の正体を明かしてしまったら、柴水君はついに、屋上に出向いてくれすらしないのではないか――。名前を紙面に載せたら、それだけで彼は、私を刎ねつけるんじゃないだろうか――。とまあ、そんなこんな繊細な乙女心は負へ負へと逡巡して、どうにか決断しようにも、しかしながら覚悟を決めあぐねたので、藁にもすがる心境で彼女は名を伏せた。だって、どれだけ紫水君を熱愛していようとも、その滾る欲情を紫水君に伝えられずにフラれてしまっては、諦めるに忍びないでしょうからね。どうせフラれるなら、そのみなぎる心情けまできっちり否定されたうえで、フラれたかったのでしょう。
――まあそれでも、申し出が受け止められカップルが成立するのなら、それに越した事はないのでしょうけど……」
ここで心恵は息をつき、横目でちらっと柴水の顔色を窺う。耳に掛かった黒髪を掻き上げ、どことなくもどかしそうに幾度も目を瞬かせた。
「どうした、俺の顔に何かついてるか」
その意味深なリアクションをどう解釈すべきか分からず、柴水は鼻白んでそっぽを向くと、
「やばいな、話し込んでたら大分遅くなった。はやく行こうぜ、こんなんで遅刻扱いにされたらひとたまりもないし――」
「……“かも、しれませんよ”」
空耳とも知れない呟きにはっとして振り返った。すると――。
階段を数段下った踊り場で、釘で刺されたように直立不動で佇む心恵が、わびしそうに影を差した顔でまんじりと紫水を見据えていて……。瞬間、心恵がてんで心恵ではない別人にすり替わった錯覚に見舞われ、どきっとした。
(なんだ、いきなり雰囲気が……)
反射的に柴皆はそれを死角へと追いやり、それから再び視野へと収めた時には、
「――存外、恋人志願者は“ちかく”に潜んでいるかもしれませんよ」
錯覚はしょせん錯覚か、心恵はいつも通りの、ねんごろで麗らかな体裁に戻っていた――。ように、彼の目には映っていた。
【2,喧嘩】
ローカルなこちら公立高校へと進学してから、はや三ヶ月強。中学生時代のあどけなさが垢抜けない、ちぐはぐとした学園生活を余儀なくされた一学期も、本日を以ってして終業式を迎えるのだ。明日からは待ちに待った長期の夏場休校とあって、朝っぱらからクラスの空気はざわざわと波打っている。
細事があるらしい心恵とは四階で別れ、紫水甫はようやく緊張のほぐれた解放感に浸りつつ、騒がしい室内の一角に集う仲間と合流していた。
杜若将勝と滝沢忍の一見して異色なコンビは、蒸し暑い教室でもへこたれず、ましてその気温にも張り合うくらい汗水垂らして携帯型ゲーム機に熱中している。うち片割れ、杜若将勝は、ゲームのキャラクターを悪戯に真似して技名を叫んだり身を捩じらせたりするので、抜きん出て喧噪はなはだしい。莫迦丸出しだと陰口を叩かれているのを、以前より紫水は耳に挟んでいた。同じ熱中するでも、寡黙に操作へと没頭する滝沢忍とは正反対の、相当ご挨拶な風評である。
紫水はしかし、そんな杜若のさっぱりとした人間味が大好きであった。莫迦丸出し、大いに結構。断じて心恵七海をそしるつもりはないが、かの読心術に長けているであろう八方美人には苦手意識が作用するのに相反して、いっぽう単純で純真な杜若の言動には、居心地の良いものがあったのだ。
「ところで、甫よう」
杜若が、親しみと友愛を込めて柴水の名を呼んだ。
坊主頭の似合う、猿を想起させる風貌。歯並びの綺麗な健康そうな前歯、そこが殊更動物のようで無垢な感じが出ている。そんな彼はゲームの液晶画面に集注しているが、紫水もそれは同じであるので、特に窘める素振りもなく返事をした。
「はいよ」
「明日から、いよいよ夏休みじゃんか。えらく楽しみだよなあ」
ボタンを弾きながら、柴水は当たり前だろうと上唇を約めておどけた。
「どうせ予定も入れずに、甫も暇するんだろ?」
「さあ、どうかなあ」
「無理すんなって。そこで本題――。独り身には侘しい、涙なしには語れないしみったれた夏休み、それを少しでも和らげたいとは望まないかい?」
「はん。なにが言いたいのかさっぱりだぜカキツバ。もうちょっと努力して、簡潔にまとめてから話してくれ」
すると“カキツバ”こと杜若は、威勢盛んに鼻を鳴らして、
「俺は、皆で海に行きませんかと案出したかったのです!」
面をひょいと上げて、柴水、滝沢をじろじろと眺めまわした。目尻に皺を寄せ白い歯をこぼし、まさしく猿の顔そのもので笑っている。のだが――。
(いや、流石にそれは……)
しかし柴水は内心、舌打ちせずにはいられなかった。こっそりと、どこかびくびくと滝沢の反応を窺い見る――。と、滝沢は汗で濡れた開襟シャツに涼風を手でそよぎ送りながら、彼の一抹の不安を裏切るかたちで冷静に、杜若へと口を開いた。
「皆って、ここに居るさんにんで?」
「そうに決まってんだろう。なんだったら海水浴じゃなくてもいいぜ。市民プールじゃあ餓鬼臭いけど、登山ならばっち来いだ。夏を満喫しようじゃねえか」
「お、おいカキツバ。いくらなんでも……あんましはしゃぐなよ」
「あん? どうかしたのか」
口吻を訂正して、柴水は――滝沢が機嫌を損ねていないか盗み見ながら――杜若を落ち着かせようとした。
小学生からの腐れ縁である滝沢忍は、無口で、ぱっと見ただけでは無愛想な先入観を抱きやすいのだが、基本なんにでものっかるような交誼を重んじる人物ではある。どんな急な遊びの誘いにも、えがらい顔一つしない人間だ。
でもそれだけに――。
無口で交友を尊重する性格だけに、脳味噌の片隅ではなにか鬱蒼としたストレス――ないしはそれに準ずる不満――を沈殿させているケースも稀にあった。昔からそうだったように、である。頻繁にそれを爆発させていたのは、中学生も折返しの時期だったと記憶している。
柴水はいつからか、努めて滝沢と絡もうとはしなくなっていた。
幼馴染にカテゴライズされてはいるが、心恵七海とはまた別口に、軽度の苦手意識が発動する存在だったのだ。――今年の桜咲く春先で新規に知り合ったばかりの杜若が知る由もない、そう云った気まずい背景がそこにはあった。
「あっ、そうそう。訊いてくれよ」
下駄箱に手紙が据えられていた件をどう切り出そうか迷っていた柴水は、どうせだからこれを機に話題を転換させようと、拳で手の平をぽんと打って云った。友人と幼馴染の意識が同時に注がれる。
その実態はなんとラブレターであったこと。放課後、すなわち終業式了の後に屋上へ呼び出されたこと。差出人不明であること。心恵七海の思わせぶりな振舞い、思わせぶりな台詞……。役者を思わせる身振り手振りで、それらを天狗になって一頻り語った。
やもめの杜若はびっくり仰天し、しきりに「すげぇすげぇ」と喚き立てた。これに満悦した柴水の鼻はますます高くなる。天狗から象さんになる。で――。
むっつりと黙りこくっていた滝沢が口を利いたのは、柴水が気を良くし始めてからほどなくしてであった。ゲーム機の電源を落として、ちびっこい鼻頭を掻きながら、「なあ、柴水」
「なに?」
「目星はついてんのか、その、ラブレターの、差出人とやらの」
「さっぱりついてないんだなこれが」
柴水がきっぱりと云い張ると、滝沢は微弱に顔を曇むらせる。お調子者の杜若が「そういや、滝沢って心恵と最近よくつるむよな。まさか、付き合ってるなんてことはぁ……」と冗談を口にしようとも、それをにべもなく聞き流し、何故かしら滝沢は分かり易く憮然としていた。
「まるでついてないって事もないだろうに。ここ最近、会話する時間や接触するタイミングが増えたような奴とか、誰かしら当てがあるだろう」
「うぅん……」
と、いつまでたっても返しあぐねる柴皆へ、
「そこで熟考するってどんだけ鈍感なのさ。鮫脳ですか、お前は」
滝沢は仏頂面で、富士額を人差し指でとんとんと小突いた。
「――はあ?」
「いやほら、鮫って著しくちっぽけな脳味噌で生きてるじゃん? てっきり柴水も、鮫と同等の脳味噌しか機能していないんじゃないかなと思ってな。哀れなほどに鈍いもので、すまんな」
じゃっかん柴水は前屈みになる。
「おい、喧嘩売ってんのか」
「はん。ムキになるなよ、鈍感ってのは紛れもない事実だろうに。いや、眼光がお粗末なだけかな。実際問題、七海が露骨なヒントまで与えているのに、それに取り合おうともしないていたらくだ」
「ヒント? 恋人志願者が近くに潜んでるって、アレか」
「そう云われてるだろ」
「だったら、近くってどこだよ、どこからどこまでを枠として規定した“近く”なんだよ。クラスの一員なのか、もしくは委員会か、学校内か」
「疑問が残れば惜し気もなく質問攻めか。それが許されるのは無知な赤子か、惚けた老人だけだと思うんだがね」
(なんだコイツ? いちいち突っかかりやがって)
「いやに饒舌じゃねえの滝沢。調子が乱れてるぜ。そうか、暑さでイライラしてんのか? それともラブレターへの嫉妬か、どっちかな」
「はぁあ、誰がそんな――」
「ちょっとちょっと、ふたりともストップ。そこまで白熱すんなよ」
中腰ならぬ喧嘩腰で舌戦する若水と滝沢を、訊きかねた杜若が執りなそうと椅子から腰を浮かせた。
「ほら忍。血が昇ったらリラックスだ。肺の奥底まで酸素を供給するつもりで、鼻から大きく息を吸って、ほら」
「うるせえ、さがってろ」
「おお、恐ろしや恐ろしや」
融通の利きそうにない滝沢の説得は後回しにして、
「甫もだ、リラックス、からのクールダウン。――で、忍よぉ。いったいぜんたい、なにをそんな精悍に噛み付くんだよう。果報者のこいつに、祝辞の一つでも述べてやるのが幼馴染ってもんなんじゃねえの?」
杜若は、果報者とその幼馴染へ交互に目を馳せて云った。
すねたように顔を背ける滝沢に、学生鞄をがつがつと物色する柴水。そして取りあげた件の便箋を机上に叩きおいて、柴皆は相手を睨みつけた。
融通も歯止めも利かない――。柴皆はかなり切れていた。
酷暑の孕んだ、鬱陶しい夏の熱に茹で上がっていたのかもしれない。ないし次の日からは待ちに待った夏休みで、うきうきとしていて。そのくせ生涯で初のラブレターが生えて湧いたかのように下駄箱に収納されていて、柴水は欣喜雀躍として、気分が昂ぶっていたのかもしれない。
いずれにせよ、彼はそこで云わば泥沼、それも汚れすぎた深潭に縺れてしまっていって、気分の収拾がつかない精神状態にあって――歯止めが利かなくなっていて――。
(この野郎……)
(云わせておけば付け上がりやがって)
かつてより堆積していた幼馴染への苦手意識が、もはや苦手どころではなく、悶々とした怒りにかえっていたのだ。
「そうだったよ。滝沢、お前はむかしっからそうだったよ」
と柴皆は、桜花色の便りを滝沢の眼前に突きつける。
「……ふん、文句あるかよ」
微かに鼻白んだ滝沢も、対して負けじと凄んでみせた。
「むかしっから、いつもだ、いつもいつもいつも。小学、中学、そして高校――ゆかりあって何某と繋がろうとするたびに、お前はそれを妨害しようとする、毎度のことに。今だってそうだ……。
はあぁ。なんのつもりだよ、放っといてくれよ。それともなにか? 俺が手紙をひけらかしたのが悪いってのか? はん。だったら謝るよ。よもや、それっぽっちの自慢でへそを曲げるだなんて考えもしなかったものでね」
額に滲んだ汗を拭って、柴皆は、だんまりの滝沢が反論するより先に怒りを言語にして繰り出す。
「それでも、俺達は昔馴染みの間柄だったからこれまでも大目に見てきたんだ。ああそうさ、恋路を妨げられようとも、俺は瀬戸際で我慢してきた。あの時――小学生の時、お前が俺の初恋を邪魔したのにも我慢した。それ以降も、再三にわたる茶々にも、めげずにずうっと耐えてきた。――けど、許容ってのは有限じゃない。ものごとには限度ってもんが必ずある。俺の、その限界ラインを――容赦の一線を――お前は超えさせちまったんだ、ああ、ちくしょう。そこんところ、分かってるんだろうな」
「はっ、誰が」
「だよな、分かってねえよな! お前には分かんねえんだよな」
突然浴びせられた怒声に、滝沢は当惑したように身を退いた。成り行きを見守っていた杜若が唖然として柴水を見つめる。
おのずから、赤らびた柴水は教室のあちこちから注視された。その色は傍迷惑半分、好奇心半分であり、ひそひそと耳打ちし合う連中で大半を占めている。
「ふざけやがって」
注目の的になっているのを知ってか知らずか、獲物を刺殺しかねない鋭利な視線を滝沢にむけて、
「ふざけやがって……」
柴水は、怨恨を含めてぶつくさと吃る。
そこで杜若は再度、彼への訂正、謝罪を期待して滝沢を窺った。心の生傷を不必要に量産することはない――。ふたりには和解して欲しかった。
が、ぼろぼろ。ぼろぼろである――。
滝沢は、長い睫毛のくるりと仰いだ両眼にしんと翳りを落とし、喉の隙間に固形のなにかをつっかえさせたように「ぐっ」「ぐぐっ」と喘いでいるきり。そこからは憤怒の矛が見え隠れしていて、とてもじゃないが、手を取り合って仲直りだのは余りに楽観視した行末であった。
これだけどやされれば脅えて当たり前だ、と杜若はうんざりする。ゆっくりと椅子の背にしなだれ掛かり、嵐に巻き込まれないよう縮こまった。
「――どっちだよ」
滝沢は吐き捨てた。
「ふざけてるのは、どっちだよ」
「………」
禍々しくも、濃艶な色彩に塗りたくられた声質で吐き捨てたそれは、とてもしめやかな恫喝だった。
発作的な感情の爆発にかまけていた柴水もこれには怯んだ。と云うよりも。怯んだと云うよりも、それは我に返ったに近しいかもしれない。
つけ根に寄せた眉や、真一文字にかたく結んだ口許から、滝沢の、見栄とは確として異なる(……まてよ)、それでも強くあろうとする意志が垣間見えるその相好に(……まてよ、そんなまさか)――。滝沢の、寂寞とした“訴え”に突き動かされて――。
(そんな……)
(嘘だろ、まさか滝沢、それって……)
すると、罪悪感に酷似した冷や水がどこからかじんわりと涌出して。柴水の激昂を鎮める、掻き消す……。自我を取り戻させる。
(ふざけてるのはどっちかって?)
(そんなの……)
(………)
「――知らねえよ」
と、それでも彼が幼馴染へつっけんどんな姿勢を貫いたのは、他でもない、“訴え”の真意(……わけが分からない)を読みとったからこそであり、また等しく、その深意の“訴え”を受けとりあぐねた為である。
結局それからというもの、あれだけ騒がしかった教室の一角は無言によって圧され、朝のホームルーム開始までこれが解かれることはなかった。
体育館に移ろい、校長先生の演説を皮切りとしたN**高等学校の一学期修了式に参列するさなか、柴水は、霧たように、酔ったように朦朧とする頭で「存外“ちかく”に潜んでいるかもしれない」未来の恋人を空に描き――憑りつかれたように両肩を沈めて――ため息をついた。
【3,告白】
胃袋の底辺に錘がずんと沈殿したかの苦い心持ちで、屋上へとつながる階段を踏みしめていた。
時刻は、正午を多少うわまわった程合である。密会の申し出を呑んだのだ、まさか遅れるわけにもいかなかったし、すっぽかして反故にするのも有り得ない。幾許かの気の患いはあったが、ともかく彼は約束した定時に、口約束を交わした定位置へと赴こうとした次第であった。
通例では、みだりに屋上へと侵入するを良しとしない。校則でそう取決めされている。しかし警備が手薄というか、つめが甘いというか、外へと通じる扉は施錠されていないのが実際のところだった。
ノブを時計回りにひね扉を押し開くと、むわりとした熱気がこちらへと雪崩れた。眩しい。太陽光を遮るように、目の前に平手で傘をつくった。
手離すと、建てつけがなっていないのだろうか、ドアは勝手に閉じられた。
誤って関係者が落下しないためにと設置されたフェンスに包囲される屋上は、ぎんぎらな陽射しも相俟って、特別な胸の高鳴りを対象へと告白するにかなり適しているふうに感じられる。夕暮れの校舎、森閑とした無人の教室、その中央で突っ張った顔相を橙色に照らされるままに、いじらしくまみえる男女……と、そういった甘美な条件下では全然ないのだけれど、それでも空漠とそれらしく仕上がっているため、後ろめたさを断ち切れていない彼でもとかく一定の激をもよおした。
陳腐なレトリックだが、まさに甘酸っぱい青春冥利に尽きるもので――。
(“彼女”も、そう感じているのだろうか)
金網に指をかけ、下校する同年代の群衆を俯瞰する女学生の、制服の濡れた後姿を視察しながら、ぼんやりとそう推した。
開閉した扉へと彼女が振り返る。顔に見覚えはなかった。他クラスの女子だろう。眉毛へ微妙に接触するくらいで、きれいな長い髪をまっすぐに切り揃えている。秀でた特徴はないが、ふっくらとした頬があどけなさの抜けない少女のイメージを助長させていた。
彼を視認すると「あっ」と声を発して、女生徒はわだかまりを霧散させるよう唾をこくりと飲みこむ。彼女もまた知れたことに、大層あがっているのか。
「え、えっと、お初にお目にかかります、一年二組所属の由利、真中由利といいます。えっとえっと、その、お時間はとらせません。そそ、それで、お話というのは――え? あ、はい。すみません、落ち着きます、落ち着きます……。ふぅ。
そ、それで、先にお伝えした、そのぉ――例のお話なんですが――。
えっ、はあ。好きな食べ物ですか。なんでまた……あ、いやあ、そうですねえ……甘いお菓子、かなあ。――ええ、はい、甘党なんです。――趣味ですか? その、お菓子作りです、まあ、下手の横好きですけど。――うん、自分へのご褒美。つい焼きすぎちゃって――控えないとなあって――主に休日の午後を利用して――お母さんが料理教室の講師を――」
独り言ではない。日干しにされた彼女へ待たせたことを謝罪しながら詰め寄り、彼が、気さくに四方山話を始めたのだ。で、いきなりの話しぶりに彼女は、しかし戸惑いながらもそれに恭しく呼応したと、そう云った案配である。五分もすれば胸に閊えた重圧が幾許かほつれたのだろう、彼女の顔には柔らかい笑みが布かれていた。
それを見計らって――。彼は、女生徒の緊張の糸が弛緩したのを見計らって、「ごめんなさい。貴方とはお付き合い出来ません」と彼女が傷心しないようおもんぱかりながらも、だがしっかりと交際を辞した。
「ううっ……」
逆上こそしなかったが、もしかしたら女生徒は彼の生真面目な物腰に好感触なそれを感受していたのかもしれなく、あからさまに悄然として、がっくりと項垂れてしまう。
「どうしてですか」と泪ぐんで訊ねる彼女へ、率直に彼は「ほかに好きな人がいるんです――」申し訳なさそうに述べた。
「――そう。あっ、すいません。うん、そうですか、そうですよね。私みたいに冴えない女じゃ見栄えしないし。私、なにを舞い上がってたんだろう――すいません。忘れて下さい……」
自嘲な笑言を残して、屋内への扉へと彼女は駆け出した。「あ、待って」との彼の呼び止めを一度は振り切ろうとするものの、二度目の呼び掛けには思いとどまって、きまりが悪そうにもじもじと立ち竦んだ。そうして、ややあって「お友達として」携帯のメールアドレスを交換した女生徒は、そそくさと屋上を後にした。
彼は、ひとりぽつんと捨て置かれる。
ものの三十秒かそこら目蓋を下ろして、青の油絵具で幾重にも染め直された、セルリアンブルーさながらの雄大な天を仰いだ。たったそれだけで、着衣からはみ出た病的に白く木目細かな肌は確実に焦げてしまう。今朝食したフレンチトーストの気持ちであった。
(ふん。ほかに好きな人がいるんです――か)
だがそれにしても、軽度の日焼けと体内で狂おしいほどに焦がれた恋心とでは、その温度差を比ぶべくもなかったわけではるのだが。
ぼうっと佇む彼の死角で、金属とコンクリートのなすれる音がした。立ち退いた女生徒と入れ違う恰好でそこへ、痩躯の男が扉からやってきた。
「あっ、よう」
と、利き腕をひょいと上げて顎を突き出す男子学生に、ところが会釈された側の彼はあたふたと視線を彷徨わせて、
「…………」
てんから自分は屋上に居合わせませんでしたと云いたげに、男の脇を素通りしようとした。
下界から木魂する蝉の奏演が、鮮烈に芽吹き、儚く枯れたこの情熱を嘲笑っているかのようで、喩えようもなく惨めだった。小刻みに震える手でドアノブを掴み、嫉み任せに――そう、これは浅く下劣な嫉妬心だ――手前へと開ける。
じきに“彼女”も待ち合わせ場所に現れるのか。それで、この男子学生へと恋の告白をするのか。否、十中八九そうするに相違ない。告白をするに決まっている。
ああ……。こんな男に、こんな男に……。
この男は、“彼女”の差し出す手をとってやるのだろうか? とってしまうのだろうか……?
ああ……。“彼女”の手を、唇を、こんな男に盗られてしまうなんて……。
震える両腕が総立つ。彼は、嫉視とも侮蔑とも分別し難い混沌とした情欲に、華奢な心身を引き裂かれようとしていた。
と、その時。
「あのさあ」
さかろうとする彼を目で追う気は毛頭ないようで、何処ともなく視線を迷走させながら、男は背中合わせに口を開いた。
「ひとつ質問。まあ、これあくまで俺の勘だから、間違ってたらすいませんね」
「………」
だがしかし、彼は構わず歩幅の均一な足取りで校舎へと踏み入った。独りでに閉扉しようとするドアが床板となすれる。そんな中、その妨害音の網目を縫うように男の質問は彼の耳へと届いて――。
「朝一番、俺の下駄箱へ俺宛てのラブレターを仕込んでおくよう“アイツ”を煽ったのって、“お前”なの?」
と触れられたくない核心を衝かれ、ほとんど彼は無意識に、階段を転げるようにくだった。
男に合わせる顔がなかったのである。逃げた、ただ逃げた。
ちょうど敗走兵を追討する矢の如く、いまだ立て続けに発せられる男の尋問は次々に逃亡する彼の傷をえぐった。
「なんでそんな辻褄の合わねえ真似したんだよ。俺と“アイツ”をくっつけても“お前”は得しないだろう、それどころか損ですらあるはずだろう。だって――だって“お前”は――“お前”は、俺なんかよりも“アイツ”のことを――」
不自然にぶっつりと、そこで男の発声は途絶える。
内と外、すなわち逃げた彼と残った男子学生とを、斟酌を持ち合わせない鉄扉が遮断してしまったのである。
【4,真相】
N**高等学校は五階を最上階とする造りであり、そこから屋上へと数段しかない短い階段が設備されていた。五階には空き教室か、もっぱら選択授業に限定して利用される使用頻度のなだらかな過疎教室しか配置されていないために、不気味に廊下は綺麗だったし、生気を感じられないフロアであった。
屋上と連結した階段を降りた付近の壁に、心恵七海は結んだ両手を背後にまわし、背中を預けていた。
しきりにぱちぱちと瞬きしながら、左右に首を振る。心臓がいかれたポンプのように激しく張縮しっ放しだった。居ても立ってもいられなく、平額にしだれ掛かって蒸れる前髪を荒く掻き上げた。
それ相応の腹は決めたはずだった。決意は、揺るぎなき強固な盤へと根茎を張ったはずだった。
なのに――。
(我ながら、救いようのない小心者だよ)
“彼女へと積もる特別といえばあまりに特別な感情”は、自分が予期していたよりも遥かに強大で、嫉妬深くて、貪欲で、我侭な本性を携えていたようなのだ。
(『女々しい』よりも、『女の腐ったような』って刻印がお似合いなんだろうな――)
(“僕”みたいな人って)
無限に憚ってどうしようもない焦燥感と、さしてそれを打ち消そうだとか、乗り越えようだとかの努力もしない腐った己とを照合し、心恵七海は――“彼”は、“彼”自身をあざけ力無く笑った。
時に、それは明らさまな倨傲であるとバッシングされるのを承知の上で明記してしまえば、心恵七海は、自らの端整な顔の造形を“いらぬ足枷”と疎んでいる面があった。
女性顔負けのぱっちりとした二重瞼。小振りな鼻。清潔感に富んだ口唇。それらが顔面の中心線を折り目として左右対称に添えてある、生まれつきの顔、両親から遺伝したこの顔――。と、そんな自分自身の“美人――何もこれは女性のみを褒める熟語ではない――”に分類されるであろう顔は重石と化し、心恵自身を執拗に追い詰めているのだ。
彼は美男子である。故に、初対面の面々からは概ね世代に関係なく、謂われなく君は好青年だなと褒めちぎられる。あるいは謙虚な性格が一役買っているのかもしれなかった、心恵は単に、引っ込み思案で臆病ないっぱしの小心者であるだけなのに。にこにこと歯を見せて笑っているだけで絵になると、そういうことなのだろうか。
(違う。僕はもっと醜い、どろどろと爛れた餓鬼なんだ)
周りの大人が幻視するほど彼は大人じゃない。父さんが値踏みするほど彼は利口じゃない。母さんが偲ぶほど彼は清純じゃない。
(ちょっと整った顔だからって、大人しいからって、よしてくれ、僕を買い被らないでくれ)
事ある毎に学校をサボりたいと揺れ動く。ゲームセンターや娯楽施設にも興味はある。それに、そうだ、異性への肉欲も人並み並みにある。つまり“彼女”のことも、さもしくも“そういう目”で常日頃から見澄ましていたのが隠しようのない事実であり、本性だ。
(なのに……)
“いらぬ足枷”がくるぶしを拘束する。
愛しい他人へ直向きに歩み寄ろうとしても、害悪でしかない足枷がそれを是が非でも許してはくれない。
(なのに“彼女”は……)
(僕を、周りの大人や、クラスメイト同様に誤認している)
凡そ四ヶ月遡った、中学校での卒業式。忘れもしないあの日――。
当時、心恵と交際していた女児が二人きりで話がしたいと珍しくも萎らしく懇願したので、授与された卒業証書を父母に預け、夕闇の、最寄りの公園へと単身足を運んだ。
横幅のある複数人掛け用のベンチで、彼を警戒するように、心恵と遠巻きに腰掛けた当時の彼女が緩やかに口火を切った話――それは「別れ話」だった。
(『頼り甲斐がない』か)
悠然と物語った彼女の一通りを想起し、要約した文を口には出さず反唱する。
かたえくぼを浮かべ、「ふふっ」と脱力気味に笑った。
(見抜かれていたんだな。――好青年の仮面で包み隠したつもりだった、僕のみみっちい餓鬼根性)
その晩、どころか自宅までの帰路の記憶は都合の良い脳が抹消したのだろう、微塵も心当たりがない。ただ、最悪まで消沈して高校の入学式に出席した記憶がおぼろに残存するだけだ。で――。
……僕は、“彼女”に出逢った。
……いっこうに報われない、可憐な“彼女”に出逢った。
クラスが新編されてからしばらくして、心恵の興味はおのずと一点(可憐な彼女……)に絞られる。その引き金となった理由は数あれどもまちまちで――“彼女”のプロポーション、心恵の嗜好、魅力的な言動、学業成績に少しばかり恵まれないという弱点、笑った顔、寝不足な顔、澄ました顔、まちまちである――今となっては霞んでしまっている。
しかし唯一、忘却するわけもなく現時点に及ぶまで苦悩として引っ掛かっているそれ。興味の芽吹いたきっかけ。それは、“幼馴染”へ向けた、“彼女”の熱心な(……報われない)片思い。
傍観者であった心恵の同情心(……同情心?)をくすぐる、不器用な(……報われない)片思い、愛の形。それを“彼女”の中に見い出したのが全ての発端だった。
僕と同じだ。そう思えた。
周りの大人が、友達が、クラスメイトが心恵七海を好青年と評し、その評価を裏切らないよう、緻密に細工の行き届いた仮面を被って腐心する彼と――。
長年寄り添った“幼馴染”に“一人の異性”とは接してもらえず、あくまで“一人の幼馴染”風情としか認識されないが為に、そのバランスが決壊するのを恐れ、関係性が破綻しないよう惚れた腫れたとは敬遠の“一人の腐れ縁”の化粧でめかす“彼女”は――。
同類だ。そう思えてならなかった。
で、“彼女”の悲壮を共有、まして許されるならば力になってやりたい――。と彼の思惟が推移と一様にじわじわと発展するのに微々たる支障もきたさず、双方はぐんと接近し合い。息が合い。“一大作戦”を決行するまでに及んだのである。
一大作戦。それは言わずもがな、心恵が企画し、“彼女”が筆を執る名無しのラブレターを暗喩した云い方だ。
「――あ」
廊下の、下り階段へと左折する曲がり角に人影を見つけたのは、心恵が屋上から転がるように五階へ逃げてから幾許もない時であった。頭ごなしに説教されうんざりした幼子のように深々と項垂れて、ずるずると脚を引き摺っての登場である。「夏バテですか」とやんわり話し掛けてみたが、垂らした頭の天辺はぴくりとも動かず、彼へと真っ直ぐに旋毛を披露したきりでいる。
「告白する前からその調子じゃあ、ハートがもちませんよ」
壁へ凭れていた背筋を剥がしつつ、心恵は重ねて云った。すると、嘆息交じりに加え途切れ途切れだが、意気沮喪としたボーイッシュな髪型の“彼女”はそれへ確かに返答する。
「……分かってる。けど、どうしようもないじゃん」
スカートを中へと折った腰回りに触れていた手を心恵の鼻頭へと運び、立てた人差し指でちょんと突いた。照れ隠しからの所作だろう。彼のくりくりとした両眼へ、それらを射抜きかねないほど先鋭な目を投げ掛けながら、
「こんな粗野な私でも、いちおう女の子なんで……。やっぱ、どうしても固くなるっつうかさ。ほんのちょっぴり、後悔してるかも――」
そう“滝沢忍”は口籠り、そわそわしく揉み手をし、嬉しさと悔いとの混在した難しい表情を浮かべた。
【5,報われてはならない】
「後悔、ですか」
「うん」
顎を引いて眉目をくねらせ、滝沢は艶めかしい乙女の顔をつくって頷いた。自身の報われない事情を心得ている心恵だけに見せる、強がりを捨てた彼女の素っぴんである。
同性、異性からクールだと定評を博している滝沢ではあるが、来る日も来る日も“幼馴染”――色恋沙汰にうとい“柴皆甫”を欺いてばかりの身なのだ、日に日に嵩を増すしこりを吐き出す捌け口が欠かせなかった。で、その捌け口の任を我先に引き受けたのが報われない彼女に依った心恵自身だったと云うわけだ。
「ああ、またそうやって。面白くなさそうな顔しないで下さい。記念すべき告白なんですから、ねえ、せっかくの高尚な女性像が台無しですよ。
にこーって笑って、笑って」
「ちょ、ちょっと、急かすなよ」
「――で、後悔ですか。それってラブレターを書いたことを? それとも教室でのいざこざを」
「……手紙のこと。うぅん、両方なのかな。
傷つくのが怖いっつうかさ、嫌われるような気がして。やっぱ気持ち悪いじゃん、私が告白って。ギャップが甚だしいつうか、なんかこう、上手く云えねえんだけど」
心恵は、下駄箱へ前以て仕掛けていた手紙を手にした柴皆に偶然を装って接触し、それとなく滝沢が宛てたのだと匂わせ(この時点で柴皆が、心恵のヒントをどこまで活用したのかは不明だ)、四階から別行動をとり、朝礼の始まる五分前に教室へと舞い戻ってから、滝沢と幼馴染の彼が衝突したらしいとの件を友人から訊いた。
因みに心恵が、見知らぬ女生徒から「私の友達が貴方とお話したいんだって。かなり重要な話柄らしいよ、ひょっとしたら告白かも。いやいや、冗談抜きで。――放課後、屋上で待ってますってさ。下の名前が由利。で、友達っつか、そいつ私の親友ね。裏表のない愛い奴だよ、あいつ。由利のこと泣かしやがったらはっ倒すからな。じゃ、そういうことで」と頼まれたのも、柴皆と散開した矢先のことである。
心恵のどこかで悪魔めいた下心が最燃焼したのは、ふたりの喧嘩別れを聞き入れた瞬間であった。
あわよくば、この喧嘩で滝沢と柴皆を紡ぐ信頼感に亀裂が走ってくれないか――。心恵は僅かに邪望した。柴皆への愛想を尽かせてくれれば、滝沢の美しい眼は、恋心の相談役を担った自分自身へとその先端が向けられるのではないかと、そう目論んだのだ。
(なにを考えているんだ……)
(そんなのダメだ、ダメだダメだダメだ)
だが、雄大に膨らんだ彼の雑念も、時間の経過によって打ち払われる。
柴皆に嫌われる。そんな運び、顛末を、愛おしき彼女が所望しているとは到底思えなかったのだ。
ならば片一方、柴皆の様子はどうだったのか。
屋上でのぞんざいな遣り取りを思い返す限り、それなりに幼馴染とのいがみ合いを引き摺っていたようではあったが、ぷんぷん憤っているわけでもなさそうだった。それに彼の台詞からして(“お前”は、俺なんかよりも“アイツ”のことを――)、柴皆は、差出人の正体に思い当たっていたと断言できる。つまり彼は、名無しの手紙を、幼馴染からの徒ならぬ呼び出しであると念頭に置いたうえで、あの場所へと出向いたというわけだ。これは、滝沢への信頼が未だ現存しているという確たる証明になり得るだろう。
それにつけても、心恵は彼の台詞に面食らった。絶対にばれてはならない滝沢への愛情(……報われてはいけない)が露見していたとは。顔から火が出そうだ。ということは――。
こんな仮説が真実味を帯びてはこないか?
というのも柴皆は、心恵が滝沢に惚れていることを真実として捉え、一抹の疑いもなかったわけであって、交わす口数の多いことから、滝沢もまた、心恵に夢中なのだと結び付けていた。実の処、滝沢忍が虜になっているのは古馴染みの柴皆甫であり、心恵七海とは腹を割って話し合える性別の垣根を越えた男友達でしかなかったのだが、ともあれ柴皆からしてみれば、「いつの間にやら女気の貧相な幼馴染にどうやら彼氏ができたみたいだぞ」と、そんなふうに語釈したのではないだろうか。
有り得ない論説ではない。
なので、致命的な御門違いに支配された柴皆の滝沢を見る目は二重に曇り、横恋慕を企てる意気もなく、“幼馴染を恋愛の対象として把握しない”その心理に輪を掛けてしまっていたのだ、と心恵は漠然と類推した。
だとすれば、そこはかとなくアピールする滝沢へ、しかし鈍感のまま彼が常々対峙するのも至極当たり前な姿勢であったと云えよう。
だがしかし、現段階での柴皆は一皮剥けていなければ不自然だ。それが壮大な勘違いであったと、屋上で幼馴染を待ち続ける彼の頭をもたげたことだろう。
報われない滝沢へと献身的に奉じるほとり、柴皆のおこぼれで良い、柴皆にフラれ、百年の恋も冷めた彼女の恋草が自分へと揺らいでくれないものか――と仄かに期待していた心恵は(……なんてみみっちい餓鬼なんだろう)渾身の笑い仮面で表情を偽ると、彼女を勇気づけた。
「そんなことないですよ」
「そんなことあるんだよ、これが」
「卑下はよくないです。
滝沢さん、こんなタイミングで無粋ですけど、滝沢さんは非常に綺麗な女性だと感じられます。その一途な想いを赤裸々にぶつけてみて、百歩譲ってフラれたとしましょう。ですが、どこぞの厭世家じゃあるまいし、嫌われるかもってのは思い悩みすぎでしょうに」
「でもっ」
「あの僕、黙ってましたけど柴皆君にちょうど訊いてみたんです。いよいよ告白されようとしていて、どうですか、ドキドキしてますかと。すると彼、気付いてたみたいで――」
「はっ、気付くって?」
「ラブレターの書き手が滝沢さんだってことに気付いてたみたいでして。
そのような旨を話されてました」
そう云った途端、滝沢は両耳の端端まで真っ赤にして「えぇえっ」と裏返った悲鳴を上げた。
「そ、そんな、なんで、どうして。なんで特定されてるの」
「さあ。でもまあ、結果オーライじゃないですか。恥ずかしいからって匿名希望で妥協したのは、僕としてもどうかなと思ってましたし。これで万全の体制が整えられたと……」
「いやっ、むりっ、もう消えてしまいたい。出直してくる」
心恵の言の葉が終着するより先に、滝沢はわたわたと回れ右をした。「待って」と心恵がその右手首を捕らえ、「ということは――」とにこやかに、諭すように言を紡ぐ。
「柴皆君は、滝沢さんから告白されるのを前提として屋上に赴いたわけですよ。大丈夫、そうそう滅多な返しはされません」
「んん……」
「彼が好きなんでしょう? ねえ」
ダイレクトに物申す心恵へ何か云いたげに滝沢は口を開きかけたが、しかし真剣な彼への的確なコメントが思い浮かばず、決まりが悪そうにまたしても項垂れた。
ふたりは時間が止まったように硬直した。耳の深部と肉薄した胸の鼓動だけが、心恵の肉体が動きをつかさどる唯一無二の箇所であった。
どこからともなく、空気清浄機の稼働する音が連綿に押し流されてくる。ガラス窓を貫通した日射が廊下に日溜まりを出現させ、水を打ったようにしんとする男女が纏った陰を、多少なりとも晴らそうとしているように映えた。
秒に換算すれば十か二十か、心恵はつかの間、無視し難い感情の再沸騰に大きく動揺していた。
(滝沢さんを説得するのか……?)
(――いいや、まだ間に合う)
本人の意思とは裏腹に、彼の本能とも称呼可能な(……嫉妬深い本性)部分が、この期に及んであくどく食い下がるのだ。
(まだ間に合う――泣き寝入りなんて御免だ! 厭だ!)
(ここでどうか……どうにか滝沢さんが引き返すよう誘導すれば、告白なんて無かったことにできる)
(するとどうだろう、次に滝沢さんが惹かれる男は……僕以外に居ない)
(滝沢さんなら、きっと僕のことを理解してくれる、僕の癒しになってくれる)
心恵は微笑み、さながら聖母の顔形を滝沢へと向け、
「――むかしから、諦めが肝心とも云います」
次の瞬間、一転して聖母の衣をかなぐり捨てた表情で――口の肉を折り上げた、微笑みとは程遠い形相で――、
「よし、諦めましょう。柴皆君の代わりは僕が穴埋めします。ああいや、是非させて下さい、代わりを務めさせて下さい、お願いします、僕は貴方のことが好きで好きでどうにかなってしまいそうなんです、貴方に夢中なんです、付き合って下さい、付き合いましょう、お願いします、お願いします――」
と、喉まで出かかったそれら願望の羅列を押し殺し、
「いいかげん諦めましょうよ。腹を固めましょうよ。……そうやって逃げて、信の心を煙に巻いて、いつまで“腐れ縁ごっこ”をなさるつもりなんですか。ごっこ遊びなんかで、滝沢さんの心は満ち足りるんですか!」
「………」
心恵は、激しい声色で滝沢に当たった。
「柴皆君は、滝沢さんを待っているんです。滝沢さんが現れるのを、彼は待ち望んでいるんです。逃げ腰になる必要がどこにありますか」
「………」
「なんとか云い返して下さい」
すると、
「――うみ」
「はいぃ?」
「海。デートの場所」
滝沢はもう平気だと云うふうに心恵の腕をのけ、とつとつと呟いた。
「……アイツと二人でどっか遠出するとして、そのぉ、海ってどうなのかな」
「ああ――。初デートで海に行きたいって意味ですか」
「う、うん。デートっつうな、くすぐってえよ。――で、朝。杜若が海水浴がどうのこうのって喋ってて、それで私、アイツと行けたらなぁって思ったんだけど、いきなり水着って、やっぱし急すぎるのかなぁとかも思って。男子からしたらどうなの? それって」
「いいえそんな。夏真っ盛りですもの、妙案ですよそれ」
「そうかな……。うん、ありがとう」
心恵は虚勢を張って笑顔を振り撒いた。が、しかし彼女の靄掛かった容貌は晴れそうにない。ただ、今まで空虚であった二つの目には、しっかりとした灯火が宿っている。ちょっとやそっとでは吹き消されそうにない、滝沢の内側で謙虚に燃えていた恋の火力が増した証であろう。
(ああぁ……)
もはや後戻りは出来ない。屋上へと向かうきわ、彼女は「本当にありがとう」心恵へと謝辞をはっきりと述べ、片頬笑んだ。
ギイィ……
屋上に通じるドアが開かれ、閉じられる。
それを見届けると心恵はひとり廊下を進み、下り階段を伝った。
暑かった。それに、耳鳴りがした。
蝉のいきった合唱は衰えを知らないらしくて、相変わらずそれら集合体が鳴らす声はうるさかった。
「おっとと」
四階の踊り場で、不覚にも膝が崩れた。床に膝小僧をつけ、心恵は――。
ひとり立ち上がり、ズボンを軽く手で払ってから、何事もなかったかのように悠然と階段を下ろうとする。と――。そろそろと踵を返し“事”を始末してから、彼はまた歩き出した。
既に好青年の仮面を付け直した心恵である。踊り場のタイルに溢した泪を、靴裏でにじり消す作業を失念するわけがなかった。
――了
叙述トリック(でもやっぱり語弊があるのかなあ)を意識して手掛けてみました、如何だったでしょうか?
もし宜しければ感想、評価の方を下してやって欲しいです。
最後まで読んで頂きありがとうございました。