08:赤の扉
アルシア達が扉を開けて入った瞬間、突如漆黒の闇に包まれ、彼女達は驚きを隠せずにはいられなかったが、直ぐに視界が一変し光が見えてきた。
僅かな光を頼りに道を進めていくと見えた風景は意外なものだった。
「研究室……?」
先程入ってきた研究所と同じだったのだ。
棚の中には薬品が仕舞い込まれており、研究室独特の匂いがする。
唯一共通する事といえば、深夜なので誰も居ないという事ぐらいか。
クラウスは持っていた特製の通信機に僅かに魔力を込めるが全く反応を示さない事に気が付いた。
「駄目だ、通信機が使えない」
まさに敵のフィールドに来てしまったと言う事なのだろうか。
レイモンドにもフランツにも呼びかけていても全く応答がない。
「成る程、そういう事か……」
夜の研究室として不気味に映る部屋を見て、彼は何かに気が付いた様に目を大きくさせ、内部を見つめる。
隣に居た彼女も同じような表情を浮かべると小さく呟いた。
「鏡世界ですか。そうか……。此処なら何かをやっていても不便ありませんからね」
鏡世界とはその名の通り、もう一つの虚構世界の事を示す。
現実と同じ様に見せかけているが、実際にはただの合わせ鏡にしか過ぎない世界であり、三次元の現実世界とは別次元に存在する。
現実世界から、別次元に飛ぶという事は不可能な事ではない。
現に各魔法学校で利用されている模擬戦闘用空間はこの技術を応用して作られた物だ。
しかし、この空間は大きくなれば成る程、作成するのは難しいと言われており、建物全体をこの様な世界として創り上げるのは相当な力が無いと難しいだろう。
「こりゃ、裏の事情が現実味を帯びてきたな。とりあえず、何か残ってないか探してみよう」
そう言って、クラウスは注意深く右の方向を示し歩き出そうとした時。
隣に居た彼女は寒気の様なものを感じさせ、体を震わせると目の前にいた彼を後ろの方へ引っ張った。
勿論、彼女に引っ張られた彼は体勢を崩しそのまま後ろへ尻もちを付く。
何かを言おうとした彼だったが、彼女の強張った表情に気付いてそれ以上何も言わない。
先に進まないで下さい、と彼女は彼を制し、自らの前に結界魔法を張り出した瞬間、白く光る矢が結界の壁に突き刺さった。
暗闇の中で高速に迫った矢は防御壁から発せられる魔力との干渉を起こした後、アルシアの壁の力の方が強かったのか、そのまま黄金の粉となり空中で消え去ってしまう。
「……私の姿を魔力だけで感知するとは面白い子だね」
何もない空間から女の声が響き渡ると同時に瞬間移動の術で一人の女性が目の前に現れた。
体格に沿った黒のレザースーツを着込んだその姿は美しく、一つに束ねた栗色の髪がふわりと靡くが、目には大きなサングラスのような物が掛けられており、全ての表情を読み取ることは出来ない。
彼女の周りから溢れる殺気は明らかに対象者であるアルシアとクラウスの二人に向けられており、敵の出現に彼らは腰に装備していた魔法剣を取り出して彼女の方へと向けた。
「そんな陳腐な物で私に歯向かうとでも……?面白いじゃない」
それぞれの魔力色に染められた魔法剣を前に女は笑う。
まるでその様なものは無意味だと言わんばかりに冷徹な視線を向けると大きく右手を広げて魔力を込め始めた。
懐から柄の様な物を取り出して一振りするとそこからは等身大ほどの刃を持った赤い剣が現れ、二人が持っていた刃とせめぎ合ってぶつかる。
女は力の反動を使って後ろへと飛ぶと、呼吸をするかのようにもう一度、柄の部分を軽く振る。女の目の前からは複数の赤い刃のような物が現れ、アルシア達の元へと容赦なく向かっていった。
「くっ……!」
急いでアルシアは出ている結界を更に強めて範囲を広げて出現させるとそのまま呪文の詠唱へと入る。
側にいたクラウスは彼女よりも先に攻撃魔法を繰り出した。
「闇弾!」
暗闇の中では闇系の魔法の威力が増す。
手の内から大きく広がる黒い闇の電撃は彼の意思どおりに女の元へと届くが、彼女の体に当たる寸前、何かに弾かれるようにして消えてしまう。
予想外の出来事に彼ら二人は息を飲んで驚きを隠せなかった。
「うーん……。ぬるいねぇ……。じゃあ今度は私から行こうか。雷刃!」
アルシアは彼女の姿を見て、思わず、嘘でしょ!?と呟いた。
女からは一つたりとも呪文の詠唱が聞こえず、ただ、魔法名を言っただけで女の手からは高圧電流に満ちた刃が繰り広げられたからだ。
彼女から発せられた雷刃からは想像を絶する程の電力が巻き起こり、目の前にあった結界とぶつかり合い、耐え切れずに彼女の結界は相殺を行いながら消えてしまう。
「何処見てるの?よそ見してたら死んじゃうわよ?」
彼女の援護に回っていたクラウスは咄嗟に持っていた魔法剣を取り出して防ごうとするが、それを上回る程の強い力が加わり、二人は大きく飛ばされる。
女はただ単に二人に向けて蹴りを入れられただけだったが、強化系の魔法の効果により、奥の方まで飛ばされるのもそうは掛からなかった。
地面に当たる寸前の所でクラウスが防御魔法を発動させた事により、かろうじて無傷ではあったが、余りの速さに彼らは避けるのが精一杯だった。
女は二人の意外な力に目を開きながらも小さく息を吐くと冷たい眼差しで彼らを見つめる。
「ネズミにしては結構力あるのね……。じゃあこれはどう?」
彼女の手からは複数の小さな氷の刃が浮かび上がり、氷の雨として降り注ぐ。
当然の事ながら、まだ、魔法を唱え終わってなかったアルシアは魔力の流れを読み取りながら避けるが、女のスピードは早く、攻撃魔法が追いつかない。
(まさか……そんな事って……)
彼女の脳裏にはある一つの仮説が浮かんでいた。
レイモンドが気になったと言っていた「人と魔力のプロセスについて」
個人情報の部分の情報を除いても成立しないほどデータがぼかして書かれているのにも関わらず、数値や結果ははっきりと書かれていたことに疑問を隠せなかったと言っていた。
彼女は目の前にいる敵対者に対して視線を向けた。もしかして、この研究所で行われていた実験というのは……。
「そう、貴方の思うとおりよ、黒髪のお嬢ちゃん……。いや、アルシア・ブレットちゃん?」
今の彼女の姿は別人であるのに、まるで自分の素顔を知っているかのように女は話しかける。
数メートル程離れていたはずなのに、背後に気配を感じたアルシアは直ぐに体勢を変えて、唱え終わっていた瞬間移動の魔法を発動させると部屋の入り口に移った。
危なかった、と思うと同時に背筋が凍る。
今、どうして私の考えた事が分かったのか?
「疑問に思っているようだけど……貴方も気が付いているんじゃないの?」
女に言われて、自分の仮説が正しい事を彼女は知る。
その答えは一つ。この女は全ての魔法を無発動で発動させているのだ。
今、彼女が使ったのはフランツが得意とする記憶操作系の魔法であり、それにより心を読んだのだろう。
一部の魔法と相性が良く、無発動で使える人間は実在するが、全ての魔法を詠唱なしで扱えるというのは過去の文献を漁っても存在しない。
もしその様な事が過去にあったとすれば、魔法の術式というものが大きく覆されてしまっているからだ。
「私は実験個体。まあ、平たく言えば、被験者ね。ある実験により、私は融合を果たしたのよ」
彼女の体から淡く光が発せられると同時にレザースーツの背中からはある文字が浮かび上がった。
それと反応を起こすように両腕には装置のような腕輪が取り付けられており、暗闇の中で赤く光り、彼女の魔力に応じてその光は強くなっていく。
背中に書いてある文字は現代の文字で書かれておらず、アルシアには鮮明には理解は出来なかったが、術式の力は大きく、その嫌悪感で己の体から冷たい汗が吹き出るほどだった。
目の前にいる女性が何をしようしているのか――それに気付いた時には彼女は即座にクラウスの体を引き上げ、強化系の魔法を使い、後ろへ飛ぼうとするが、敵対者からしてみればそれは十分過ぎるほどの隙だった。
「ねぇ、魔法が無発動で使えるってこんなに便利なのよ?」
アルシアは彼女から溢れ出る魔力に鳥肌が立つ。
強力な魔法を秘めており、心の底から危険と感じる程だった。
魔力が完全に溜まり、女が魔法を発動するのに数秒も掛からなかった。
その力は部屋全体に響き渡り、戸棚や机が一瞬の内にして消え去ると同時に全てが崩れ落ちた。
内側からも響き渡る力にアルシア達は耐え切れずに奥の壁の方まで飛ばされ、彼共々に意識を失った。
張り巡らせていた防御壁は粉々に砕け散り、固められていた魔力は散り散りとなり、消えていく。
女は持っていた魔法防止具を取り出すと二人に掛けて、逃亡防止の為、彼らを隅の方へと置いた。
「まあ、あれだけ消耗しておいて、あの攻撃を防ぎれるはずはない……。よくもまあこれだけ耐えたわね。これでネズミ処理は終了……」
いや、違うわね、と彼女は一言零す。
アルシア達が居る部屋とは他の部屋から感じる僅かな魔力反応に気が付いた。
量はこの二人程ではないが、恐らく、この件から見て彼らの仲間の一人なんだろう。
その魔力の質は彼らに劣らない程の力はあるらしく、彼女は小さく息を吐くと表情を引き締めた。
「今晩は処理に時間が掛かることね……。まあいい。私は私の仕事をやるだけだわ」
彼らに背を向けて、踵を返すと彼女は瞬間移動の術で散乱した部屋を後にしたのだった――。