蛍邸 ― その9
その時、鈴の音が、辺りの緊迫した空気を切り裂いて、りん、と鳴った。
武士達は、互いに顔を見合わせた。振り上げられた刀が下におろされる。一睡と沙醐を囲んだ輪が次第に広がっていった。
りん。
再び鈴の音がして、輪の一部が崩れ、立派な身なりの女房が進み出てきた。
焚き染められた香の匂いが、幽かに漂ってくる。
「お客人に無礼であろうぞ」
女にしては低い声ではあったが、威厳があった。長年、人に命令しなれている人の声だ。
武士達は、一斉に刀を鞘に納め、頭を下げた。
「下々の者が、失礼をば致しました。いざ、中へ」
否やを言わせぬ強い声である。沙醐は、催眠術をかけられでもしたように、ふらふらと前へ進み出た。
一睡が、沙醐を引き止めた。
「お前んとこは、客人をもてなすのに、白刃を以ってなすのか!」
一睡の唇の両端が、得意げにぴくぴくするのが見えた。
シャレを言っている場合じゃないのに。
せっかく命を救ってくれた人を怒らせてどうする、と、沙醐は気が気ではない。
女房は、ほほほ、といささかの華やぎもない乾いた声で笑った。
「これは申し訳ありませぬ。では、こちらも、壊れた生垣や、折れた立ち木のことは、不問に付しましょうぞ」
一睡が何か言おうと口を開きかけたのを、女房は制した。
「いずれも、都、随一の庭師の技、修復には、どれほどの費用がかかりましょう。何も、若い身空で、一生かけて償うことはございませんでしょうに」
一睡は歯噛みした。
女房はゆっくりときびすを返し、歩き出した。
長い裳裾が、ふわふわと広がっている。人ごとながら、これでは庭掃除ができてしまうではないか。高級そうな衣裳なのに。
その端を、一睡が、足を振り上げてふんずけようとしたのを、危ういところで、沙醐はおし留めた。
奥の間に着くと、女房は頭を下げ、退いた。
「こちらへ」
几帳の影から、弱々しい声がする。
「まるで、女のようだね」
「しっ、聞こえます」
沙醐は慌てて、一睡を黙らせた。
若く、青白い男が、脇息に寄り掛かっていた。
「橘師直です」
声まで弱々しい。
若い男は、なよなよと首を振り、沙醐に目を止めた。
「どこかでお会いしたような……」
しかし、沙醐には、覚えがない。
「この女人は?」
「わがハシタメじゃ」
一睡が短く答えた。
「ハシタメ……」
沙醐は、つくづくと我が身を見下ろした。破れた衣服、泥と細かな木の葉にまみれたこのかっこうでは、ハシタメと言われても仕方がない。
「私の苦しみを取り除いてくれると、のたもうておられたが……」
一睡に向き直り、おずおずと言う。
「生き苦しさを取り除いて進ぜましょう」
すまして、一睡が答える。
「頃はよし。さ、庭へ参りましょう」
そして、師直に手を差し延べた。
「なにをぼんやりしておる。肩をお貸しせぬか」
一睡の、沙醐に対する言葉遣いが変わっている。
沙醐は慌てて、師直の体を支えた。
師直の体は、ぐにゃぐにゃと、捕らえどころがなかった。全身を預けてくるので、小柄な沙醐には支えきれない。
「一睡さま、お手をお貸し下さい」
一歩先を歩いている一睡に懇願するのだが、耳も貸さない。最初に差し伸べた手も、とうに引っ込めてしまっている。
「一睡さま!」
「うるさい。マロは、箸より重いものは持ったことがないんだ!」
虫網は、箸より重いぞ。心の中で沙醐は突っ込んだ。
庭には、大きな池があった。
一睡が石を投げ込むと、静かに波紋が広がり、やがて消えた。
師直は、池に渡された橋の、朱塗りの欄干に身をもたせた。
沙醐は、ほっとして、肩を外した。身を離してもなお、全身に、師直の体臭がまとわりついてくるようで、気持ちが悪い。
「今宵は風もなく」
「水面も穏やかでござるな」
「水草にも風情がございます」
「猿沢の池の玉藻にも劣らず」
一睡と師直は、風流な会話を交わしている。
昔、まだ奈良に都があったころ、帝の寵愛を失ったと思い込んだ采女が、猿沢の池に身投げしたという。
玉藻というのは、その采女の乱れ髪を表現している。
さすが、平安貴族。腐っても鯛。今のこの場面さえも、物語の中の一場面のようではないか。
沙醐は、ちょっと感動した。
「鯉は、おりますかの?」
「大きい奴がおりますよ。うっかりすると、指を噛まれるそうです」
「かなり深い池なのでしょうな」
「わが悩みと同じくらい」
「それは理想的」
「は?」
「独り言です。時に、美しい月ですな」
つられて、沙醐も空を見上げた。
その時、まるで牛が鳴くような、モオーッ、という声が聞こえた。
物語世界をぶち壊すような、野太い声だった。
驚いて、沙醐は、池の面に目を映した。牛の声が、池の中から聞こえたような気がしたのだ。
しかし、師直はなお、うっとりと、月を見上げている。
「あの声は……」
問いかけて、ぎょっとした。
ひそかに師直の背後に廻り込んだ一睡が、かがみこんで、上を向いた師直の足をすくおうとしているのに気がついたからである。
こんな、橋の上で足をすくわれたら、欄干を飛び越えて、池の中にまっさかさまである。
池は深いし、水草が生い茂っているようである。
そうでなくても、師直のようなぼやっとした貴族が、池に突き落とされて無事でいられよう筈がない。
子どものいたずらにしても、悪質だ。
「一睡さま!」
思わず声が尖る。
一睡は、ちらっと沙醐を見ると、悪びれた様子もなく、もとの姿勢に戻った。
「ああ、あれは、ウシガエルですよ。牛の声で鳴く蛙です」
師直は何も気付いていない。