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澤の蛍  作者: せりもも
8/32

蛍邸 ― その8

 その時、松の枝の上で、白い玉がかすかに、みじろぎをした。


「あ、動いた!」

「沙醐、行け!」


 沙醐は慌てて、打ち合わせどおりに、白い糸にとびついた。

 背後で、百合根がひっくり返る気配がした。


「まだ、酉の刻にもならないのに。生命力の強い奴だ」

一睡がつぶやいた。

 

 沙醐はそれどころではなかった。ひもが、物凄い力で、上へ、上へと、引っ張られたのだ。


「あ、あー!」


叫んでいるうちに、足が地面を離れた。


「ちょっと、ちょっと、」


 驚きの余り、こんなまぬけな言葉しか出ない。

 続いて、ばしばしばしっ、と、木々の下枝の先が顔を打ち、凄まじい声をあげて飛び立つ鳥たちの羽が、耳元をかすめた。


 でも、この糸を放したら、私は、クビ。

 きっと、京を出ないうちに、野垂れ死に。

 遠く駿河の地で、父上が、さぞ、嘆き悲しむことだろう。


 命に替えても、イキスダマとやらを、逃すわけにはいかなかった。

 沙醐は、目をつぶって、必死の思いで糸にしがみついた。


 ごうごうと、風の音がする。


「いいぞ、沙醐、糸を放すな」


風をつんざいて一睡の声が聞こえた。

沙醐は薄く目を開けた。


「ひえぇー! 飛んでる」


蛍邸の、ぺんぺん草の生えた屋根が、はるか下に見えた。


「あ、こら、手を放すなと言ってるでしょ」


一睡の声に、我に返る。ここから落ちたら、命の保証はない。


「一睡さま、と、飛んでおります」

「それがどうした」


そういう一睡も……。


「い、一睡さまも、飛んでおります」

「だから、それがどうしたと、聞いてるのっ!」

「普通、人は、飛ばないものでは?」


全く、迦具夜姫といい、この、一睡といい……。


「百合根のようなことを、言うな!」


平安貴族は、空を飛ぶのもアリなのか?


 沙醐は混乱した頭で考えた。

何にしても、上空百メートルほどの地点で、まともに頭が働くわけがない。


 一睡は、空をつんざくように、一直線に、沙醐の横を滑っている。

 その手には、しっかりと、捕虫網と虫かごが握られていた。


 「手、手が痛い。肩が抜けそうです」


糸を握った両手が上に引っ張られているのだ。

てのひらに食い込む細い糸も痛ければ、腕だけで、自分の体重を支えることも、そろそろ限界に近い。


「大丈夫、抜けやしないから」

「もうダメです」

「落ちたら死ぬよ」

「一睡さま、下から支えて下さい」

「下から支えろって? (あるじ)に向かって?」

「だって……」

「もう少し頑張って! 高度が落ちてきたようだよ」


確かに、目の下の家並みが迫り、どうやら、下降しているようだ。

畏れ多くも、内裏の近くであるらしいことが、沙醐にもわかった。


 「生き須玉のやつ、家に帰るつもりだな」

「一睡さま、生き須玉って……」

「生霊のことだよ。この世の憂きことに耐えられなくなって、体を抜け出してしまった、魂魄のこと」

「それって、バケモノのことじゃあ……」

「あーっ、手をは・な・す・なー!」


一睡が叫んだのと、沙醐の体が、透垣(すいがい)に叩きつけられたのは、ほぼ同時だった。


凄まじい音をたてて、土ぼこりが舞い上がった。


 「あいてててて……」


 今日は、よくよく、ひどい目に遭う。

体に降り積もった椿の小枝や葉を、のろのろと払い除けながら、沙醐は思った。

 小さな擦り傷はたくさんできたが、大きな怪我を負っていなかったのは、奇跡だ。

 多分、沙醐が手を放した時点で、低空飛行になっていたせいだろう。


 「大丈夫?」


 さすがに心配そうに、一睡が、そばによってきた。

 このたびは、沙醐も、それが好意だと、誤解しなかった。

 できるわけがない。


「大層、痛うございました。それに、衣が台無しです」

「衣くらい、いくらでも、賜るぞ。迦具夜がなんとでもしてくれる」

「迦具夜さまの御衣(おんぞ)は、私にはハデ過ぎます」

「わかった。母上に頼んであげる」


母親がいたのか。ま、いるかもしれない。


「それで、生霊は?」

「体のところへ帰ったのだ。この家に住んでいるようだね」


どうやら、魂は垣根をすり抜けたのに、生身の沙醐の方はすり抜けることができず、垣根に叩きつけられたらしい。

 手を放してよかったのだ。

 ここが、土塀じゃなくて生垣で、本当によかった。


 「で、どうします?」

「決まっている。乗り込む」

「一睡さま、このお邸は、かなりの家柄のようでございますよ」


内裏(だいり)の近くであることといい、一睡たちの蛍邸とは比べ物にならぬほど手入れの行き届いた庭といい、とてもではないけれど、家人の承諾なしに、中に入り込むことができるとは思えない。


「それに私たち、生垣をこんなに壊しちゃったし」

「あの生き須玉は、マロのものだ。取り返さなくちゃ。マロが捕まえたんだ」

「生霊は本人のものでしょう」


呆れて、沙醐は言った。


「体の元に帰れて、よかったじゃないですか」

「よくない!」


 その時、邸の方から、郎党どもがぱらぱらと走り出てきて、二人は取り囲まれた。


「なにやつ!」


抜き身の刀を振りかざし、殺気立っている。

 昨今新興してきた武士たちは、気性も荒く、何をするかわからない。女子どもが相手でも、平気で乱暴を働くと聞く。

 沙醐は震え上がった。

 その時、緊迫した空気を引き裂いて、りんとした声があがった。


「わが名は、一睡。橘師直(たちばなのもろなお)中将殿にお会いしたい」

年端もいかぬ少年が、思いもかけず、大人顔向けの言上を述べたからか、武士たちがたじろいだ。

 一睡が、大きく息を吸った。


「橘師直中将殿、おわしますか! (ただす)の森のお約束、貴殿の苦しみを取り除きに参りましたぞ」


甲高い、少年の声が響き渡る。


 「は?」

頭領らしき、一際凶悪そうな武士が、首を傾げた。

手下どもは、大声を出す少年とその連れに、手を出しかねている。


 逃げるチャンスかもしれない。

沙醐は思った。

 どこまで逃げられるかわからないが、いざとなれば、一睡は、空を飛ぶことができる。

自分が、武士どもを、一瞬でも引き付けておくことができれば、大事な主人を逃がすことができるのではあるまいか。


 「糺の森の約束? ええい、わけのわからぬことを! われらが主人は、滅多なことでは邸の外へお出にはならぬわ」


ついに、頭領が太刀を高く振り上げた。


「邸に討ち入る怪しい奴、成敗してくれる」


 ……もはやこれまでか。


 いや、最後の最後まで諦めない。

 沙醐は、一睡の袖を引いた。走ろう、という合図である。

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