蛍邸 ― その7
顔中が目のオバケが、ドアップで覗き込んでいる。
びっくりして、飛び起きた。
顔を覗き込んでいた一睡と、思いっきり、おでこを鉢合わせた。
「あたたたたた」
額に手をやる。なんだか膨らんでいる気がする。
「こぶが……」
「こらぁ。ご主人さまの心配をしろぉー!」
痛そうにおでこを抑えているわりには、元気いっぱいの声が、威張っている。
「あ! 一睡さま。」
沙醐は、廊下に寝かされていた。あのまま、ここに放置されていたのだろう。
「マロの柔らかなおでこにできた、コブの心配をしてよ」
「も、申し訳ございません」
思わず平伏してしまった。
それから、はっとした。
「姫様方は?」
「迦具夜は化粧でもしてるんじゃない? カワ姫は、メメズと一緒に、虫取りに出かけたし」
カワ姫と聞いた途端に、さきほどまでの記憶が、洪水のように、沙醐の頭に蘇ってきた。
何よりも、あの、壁をわしわしと這い回る、あまたの毛虫たちの映像が、鮮やかにフラッシュバックする。
ああ、思い出しても身の毛もよだつ。
あの、おぞましい、いぼいぼとげとげの、
あ、そういえば、さっき、百合根の局で一匹ふんづけたような……。
……あれは、カワ姫の体から落ちたものに相違ない。
いけない、私ったら。ご主人さまを「カワ姫」だなんて。身のほどをわきまえなくっちゃ。
なんだか、腕がかゆい。あああ、ケが、毛虫のケが、刺さってる……。
「カワ姫でいいんだよ」
気の毒そうに、沙醐の腕を覗き込みながら、まるで沙醐の心を読んだかのように、一睡が言った。
カワ……鳥毛虫とは、毛虫のことである。
「カブレてるね」
不意に、全ての記憶が蘇ってきた。
「私! 私、やっぱりクビになるんですか?」
「うーん。カワ姫の大事なペットどもの箱をひっくり返したからなあ。よくも、そんな大それたマネができたものだ。勇気あるね」
「わざとではございません」
「マロらは、触ることとて許されないと言うのに。ま、触りたいとも思わないけど」
「それは、私も……」
同じことである。
しかし、そんなことを言っている場合ではない。
「あの、私の処遇は……」
「うむ、それだ」
「クビ?」
もうどうにでもなれという気もする。
しかし、クビになったら、行くところがない。
一睡は、にたりと笑った。
「生き須玉を捕らえたら、許してあげる」
「生き須玉って、さっきの、あの、白い玉のことですか?」
「そう。奴らは、暗い夜でないと、満足に動けないんだ。ほら、まだ、そこの松の枝に……」
昼間の明るさで見にくくはあったが、確かに、赤松の高い枝の上に、白い塊が、ぼわんと鈍く光っている。
「あのような高みに……」
「そうだな。おーい、迦具夜ぁー!」
「呼んだぁ?」
間の抜けたような声と供に、ふわふわ現れた迦具夜姫を見て、沙醐は、腰を抜かしそうになった。
なんと迦具夜姫は、庭の、地上数メートルほどのところを浮揚しているのだ。
しかし、按察使の姫君の、あの虫攻撃の後では、どのようなことでも受け容れることができるほどに、沙醐の神経は参っていた。
浮遊する迦具夜姫に、一睡が言う。
「あの生き須玉、な、ちょっと、高すぎる」
「はあ。それで?」
「沙醐には、届かないだろ」
「そうねえ。沙醐、木登りは得意?」
「苦手です」
「仕様が無いわねえ」
迦具夜姫は、袂から何かを取り出すと、ふわりふわりと、なおも地上高く、生き須玉のそばまで舞い上がった。
「沙醐、糸をつけてあげたわよ」
「糸?」
見ると、確かに、玉から白い糸が下に垂れ下がっている。
「私は、あなたを気に入ったわ。クビにしたくないもの」
そう言うと、高らかに笑いながら、西の方角へ飛び去っていった。
大変な美女だけに、なんだか凄く、妖怪じみていた。
ついでに捕まえてくれればよかったのに、と、沙醐は思う。
「カワ姫だってな、お前をクビになど、したくないのだ。見かけは怖いが、本当は、優しい女なんだ」
一睡が言う。
「……」
もじゃもじゃ眉に、きららかに光る歯。
「だから、お前に最後のチャンスを与えて、自分は新しい虫を探しに行ったんだ。ここで、お前が、生き須玉さえ捕まえれば、全ては丸く納まる」
「しかし、私にできましょうか?」
「カンタン至極」
一睡は力をこめた。
「暗くなって、奴が飛び始めたら、な、あの糸に飛びつけばいい」
「今ではいけませんか? 今、引きずりおろすというのは?」
「生き須玉は明るい昼は弱っている。そのような時に戦いを挑むのは、卑怯というもの」
「はあ」
「心配するな。マロが見守っててやるから。最後までつきあってやるぞ」
「一睡さま……」
思わず沙醐は、目がうるむのを感じた。
一睡は、鷹揚にうなずいた。気分よさげだった。
「あらあら、まあまあ」
百合根が現れ、二人の額にできたこぶを見た途端、走り去った。
すぐに、氷の入った桶を持って戻ってきた。大きく膨らみ、熱を持ったこぶに、氷の塊は気持ちよかった。
沙醐には、初めての冷たさだ。
腕の、毛虫にかぶれた所も、毛抜きで丁寧に棘を抜き、よく洗って、軟膏を塗りつけてくれた。
「下手な薬師より、よっぽど役に立つ」
一睡が自慢げに言った。
「ときに百合根、あれ、松のてっぺんの、生き須玉が見える?」
意地悪そうな口調だった。
「生き須玉」と聞いた途端に、百合根の顔が歪んだ。
「見えませぬ。そのような、あらざりしもの、この身には、何も見えませぬ」
「沙醐、お前は見えるよな」
「はい」
一睡の片棒をかついで、百合根をいじめるような結果になりかねなかったが、見えるものは仕方がない。
沙醐には嘘はつけない。
「不思議だねえ。沙醐には見えて、百合根は見えないと言う。なぜだろうねえ」
「見えぬものは見えませぬ」
「百合根の目は、おかしいのかねえ」
「百合根の目には、あらざりし物は映らぬのでございます。それが、憂き世を生きる、知恵というもの」
「あのう、イキスダマとは、何ですか?」
沙醐はおずおずと口を出した。
「生き須玉、知らなかったの?」
一睡があきれたように言った。
「一般常識が欠如しているねえ」
「まっとうな生活をしていればね、そんなもの、知らなくて当然なんです」
百合根がきっぱりと言い切った。