蛍邸 ― その6
ここ、空気が悪いわ。掃除の時に換気をしなくっちゃ。
そう思った時だった。光の透き入る、入り口の帷子を、誰かがぎゅっ、と抑えた。そのまま、でんと、立ちふさがっている。
出口を塞がれた?。
心に浮かんだ思いを、沙醐は打ち消した。主人が、使用人を局に閉じ込めるなどということが、考えられなかったからである。
それにしても、薄暗い部屋である。
それに、あちこちに、なにやら四角いものが積んである。几帳の下、文机の上、見渡す限り、角ばった箱のような物が、危なっかしく、積まれている。
「捕まえた?」
せっかちな迦具夜姫の声が聞こえてきた。
「いえ、あの、部屋の中が暗いものですから」
「光るものよ。白く光るものを探すの」
「あちこちに、箱のような物が積まれていて……。どこかの影に隠れているに相違ございません」
「箱に触ってはならぬ!」
ヒステリックな声で、按察使の姫が叫んだ。
「いいか、沙醐とやら、どの箱にも、指一本触れてはならぬぞ」
「はあ」
それで、どうやって探すのだと、沙醐は途方に暮れる思いだった。
光る玉なぞ恐くない。しかし、この薄暗がりの中で、陰に隠れたモノを、部屋の中の物に触れずに、どうやって探し出したらいい?
「沙醐、踊るのよ」
鈴を振るような、とでも形容したくなるくらい、麗しい声で、迦具夜が言い寄越してきた。
「古の物語にもあるでしょう? 自ら隠れたのを引き出すには、にぎにぎしく踊り狂うのに限るのよ」
「何のことをおっしゃっているのか……」
「おっぱいをちらちらさせて、股の間をすっかりさらして踊るんだよ。着物をぐっともちあげて」
無邪気なのか無知、否、無恥なのか、一睡がはしゃいだ声で言う。
冗談なのだと、沙醐は思う。
「ほら、マロが歌うから。
大荒木の 森の下草 老いぬれば」
変な節をつけて歌いだす。
「 大荒木ぃ~のぉ~ 森のぉ~下草ぁ~ あ~老いぬればぁ~
ねえ、踊ってる?」
「え?」
「え、ではない、踊りなさい」
ここから、迦具夜姫も唱和しだす。
「 駒もすさめず 刈る人もなし」
この世のものならぬ美しい声に、知らず知らず、沙醐の腕が持ち上がる。イマイチ、とはいえ、最低限の教養は、父がつけてくれた。母なき娘に、なんとか良縁を、という、悲願からである。
最低限の舞踊の心得もある。
「 あ~駒もぉ~すさめずぅ~ 刈るぅ~人ぉ~もぉ~、なぁしぃ~」
それにしても、迦具夜姫の、なんという美声であることか。
「なんじゃなんじゃ、辛気臭い」
蛮声とでも表現したくなるような、いがいがした声が割り込んだ。言わずとしれた按察使の姫の声だ。四角く角ばった顔が、くっきりと沙醐の瞼に浮かんだ。
「それは、どうした歌か、知っておるか」
「あなたの歌よ」
「なんじゃと」
「だから、カワ姫の歌だと、言ってるの」
「その歌のどこが、妾の歌じゃ」
「ああ、ものわかりの悪い。一睡、説明しておやり」
「だからぁ。森の下草が枯れちゃって、馬がこない、あ、馬ってのは、若い男のことね。つまり、この年になると、男なんて来っこないっていう……」
「そ・の・う・た・のぉー!」
「は?」
「その歌のぉー、いったいどこが、妾じゃ!」
「だから、全部」
「こらぁーーーー」
外廊下で、派手な音がする。
うぇーーん、という、一睡の泣き声。
この邸では、全ての揉め事は、一睡の泣き声を誘発するらしい。
その時、奥の文机に置かれた箱の影から、白い光が、僅かに漏れた。
「あっ!」
外からは相変わらず、二人の姫君のわめき合いと、一睡の泣き声が聞こえてくる。
箱の影から、覗くように、白く輝く球体が顔を出した。
「いた!」
外の騒ぎがぴたりとやんだ。
「いたのね」
「捕まえよ。決して逃すでないぞ」
「うぇーん!」
複数の指示が飛んで、沙醐は一歩を踏み出した。
「あ、痛っ!」
文机の角に思い切り、向うずねをぶつけた。こんなに暗ければ、無理もない。
乱暴な男でも泣き出しそうなほど、痛い。
「いた、は、わかっておる。はよ、捕らえるのじゃ」
「はっ、はいっ!」
主の命令は、神の声、痛みをこらえて、沙醐は、更なる一歩を踏み出した。
机の角にぶつけた右足を、こころもち、引きずったのは、仕方のないことといえよう。
上げきれなかった右足が、机の下に積まれていた箱の山の頂上を掠めたのは、これまた、仕方のないことといえよう。
箱の山が崩れたのは……これは、天の配剤というしかあるまい。
しかし、箱の中から出てきたものは……。
ぶーん、というこの羽音は?
委細構わず、沙醐は、白く光るものに向けて、捕虫網を突き出した。なんとか、そやつを救い上げようとする。
この邸にきての初仕事だもの、失敗するわけにはいかない。
ふわり。白い玉は浮き上がった。
部屋の上まで舞い上がり、馬鹿にしたように、ぽこぽこ上下する。
「おのれ」
沙醐は頭に血が上った。
網をふりまわす。長い袖が邪魔になる。袖をまるめ、袂に突っ込んで、しゃにむに、白い玉を追い回す。
タモの先が、部屋の隅に高く積んであった、箱を振り払った。
滑り落ちた箱は、その隣の箱の山に雪崩落ち、そのまた隣の……。
がらがらがら。
凄まじい音がした。
「なんじゃなんじゃ。まさか……」
悲鳴のような按察使の姫の声。
「箱が落ちましてございます」
「だから、あれほど……」
「東の箱だけでございます」
「ああ……」
「全然、一向に、構わないわよ」
涼やかな迦具夜姫の声。
「いや、構う。沙醐、お前はクビじゃ」
「玉を捕らえたら、許す!」
すかさず、迦具夜姫が言う。
沙醐は、あせった。
あの玉を捕まえねば、もう、今日から、行くところはない。
玉は、部屋の上で、次第に光を強くしていく。
「あっ!」
「いかがいたした!」
「壁が、壁が動いておりまする!」
箱の上に僅かに除く部屋の壁が、なにやら、もぞもぞ動いて見える。
「壁が動くわけがなかろう」
「そうですよね。影かしら……」
再び捕虫網をふりあげたその時、光は一層強く輝いた。
まるで、昼間の陽の光のように。
そして、沙醐は見た。
何千、何万という虫たちが、壁一面を、ところせましと、這い回っているのを。
くすんだ茶、鮮やかな黄緑、黒に毒々しい赤い斑点。
棘のあるもの、ないもの、つるんとしたもの、節くれだったもの……。
ありとあらゆる、想像の限りを尽くした毛虫たちが、壁一面に這い回っていた。
ぶーん。
近づいてくる羽音。
沙醐は息を飲んだ。恐怖の余り、身体が凝り固まって動かない。
大量の蛾(蝶とは、とても思えない)たちが、燐粉をふりまきながら、沙醐めがけて襲い掛かってきたのだ。
「ぎぃ、ゃーーーーー!」
悲鳴が、沙醐の喉の塊を押し出してあふれ出た。
沙醐は、外から押さえられていた帷子を突き破るようにして、局の外へとまろび出た。
「ひぃぃぃぃぃーーー」
唱和したのは、一睡の悲鳴だったと思うが、さだかではない。
沙醐を追うようにして、あたり一面、燐粉を撒き散らしながら、蛾の大群が、大量に、局から飛び出してきた。小さなものでも雀くらいの大きさのそいつらは、そのまま、黒いつむじ風のように、外へと飛び出していった。