蛍邸 ― その5
「この中に逃げ込んだのよ」
そう言った姫君は、これはまた、女の沙醐でさえ、息を飲むような美しさであった。
たとえではなく、本当に、光り輝いているのだ。
沙醐は何度も目をこすり、その、光り輝く姿に目をこらした。
人間離れして、美しい。
この方が、先ほど、按察使の姫君がおっしゃった、迦具夜姫であろう。まこと、かぐ(光る)というにふさわしい、美しい姫君であった。
「たわけたことを。妾の局に逃げ込んだだと?」
按察使の姫君が鼻をならした。
「踏み込むわよ」
美しい姫は、按察使の姫の憤慨には頓着していない。
「迦具夜、それは、まずいんじゃないの」
真赤に目を泣き腫らした一睡が、迦具夜姫の袖を引く。
「ぞろぞろ出てくるよ」
「それは……」
迦具夜姫は、腕を組んで、考え込んだ。
「そうね、この局の主が行くべきね。カワ姫、あなたが、捕まえてきて」
「いやじゃ。男なんて、身の毛もよだつ。ここは、この邸に持ち込んだ、一睡の出番じゃろう」
「確かに。妙なものを捕まえてきた、一睡が悪い。一睡、行きなさい」
「マロはいやだ!」
言下に一睡が答えた。
「カワ姫の局になぞ、誰が入るものか。マロは、絶対に、いやだ」
「確かに一理あるわ。カワ姫。あなたの局なのよ」
「厭だと、言っておるだろう。だいたい、男は、そちの専売特許であろう」
「失礼ね。男どもが、勝手についてくるだけよ。それに、私がいたぶって嬉しいのは、生身の男だけ。魂だけいたぶったっても、おもしろくもおかしくもないわ」
迦具夜姫が美しい顔をして、恐ろしいことを言う。
沙醐には、完璧には理解できなかったが、とにかく、一睡坊やが捕まえてきた、あの白く光る玉が、按察使の姫の局に逃げ込んでしまったことだけは、おぼろげながら把握できた。
「あのう」
沙醐は、恐る恐る、三人の主人に声をかけた。
三人は、今更ながら沙醐の存在に気がついたように、こちらを見た。
「迦具夜の姫さま、お初にお目にかかります。沙醐と申します。今日から、こちらのお邸でお世話になります。どうぞ、よろしゅうに」
身を折って、深々と一礼する。
「この人、見えるんだよ!」
手柄をあせるように、一睡が叫んだ。
「まあ!」
迦具夜姫が、輝くような顔に、邪悪な微笑を浮かべる。
「飛んで火に入る夏の虫、というか、雷の日の木登り、というか、なんというタイミング……」
「迦具夜、それはかわいそうだよ。カワ姫の局には……」
「なんじゃと。妾の局を侮辱する気か!」
「お黙り!」
迦具夜姫が一喝した。
そして、にわかに一変して、うっとりするような素敵な微笑をうかべて、沙醐に向き直った。
「沙醐、この邸に来て、さぞや嬉しいことでしょう。どう、初仕事をしてみない?」
「はい」
沙醐は張り切って、美しい女主人の顔を仰ぎ見た。
「さきほどあなたが見たという、白い玉、あれが、この、カワ姫の局に逃げ込んで、困っているの。ほら、貴族の娘には、似合わないものでしょ。体裁というものがあるし。それを、捕まえてきて欲しいの。いえね、噛み付いたり、襲い掛かったりということはありません。おとなしいものです。ただ、光るというだけで、みな、気味悪がって……。でもまさか、姫たちや御子が捕まえたりなんかできるわけがない。どう? 私たちを助けてくれない?」
「喜んで」
この世のものとも思われぬ、美しい女主人から、このように頼まれて、断れる使用人がどこにいようか。
喜んで、と、答えた沙醐の言葉に、嘘はなかった。
ただ、先ほどの、男がどうのこうの、という言葉には、ちょっと不安を感じた。
だが、沙醐だって、受領の娘、身近に全く男がいなかったわけではない。現に、泥だらけになって遊んだ幼友達の大半は、男だった。
それに、あの玉が人間の男であるわけがない。きっと、何か珍しい生き物のオスなのであろう。貴族の邸には、とかく、下々の者の予想もし得ないようなものがいるものだ。
「喜んで?」
迦具夜姫は、手を打って、喜んだ。
「頼もしいわ! 是非、あの玉を捕らえてきて。期待しているわよ」
「はい!」
張り切って、沙醐は答えた。噛み付きも襲い掛かりもしない、ただ光るだけの白い玉を捕らえるのに、何の困難があろう。おまけにこれは、初仕事だ。是非とも、主人らの気にいられなければならない。
「気をつけてね」
先ほどの横柄さが、影も形もない様子で、一睡が捕虫網を差し出した。
「マロのタモを貸してあげる」
「ありがとうございます」
沙醐は、この小さな少年に微笑んだ。よく見ると、愛らしい顔をしている。
「沙醐とやら。局の中の物には、決して、触らんで欲しい」
やや不安そうに、按察使の姫君が言った。沙醐は、絶対に、何にも触らないと請合った。
「では、しばしお待ちを」
大層な決意をすることもなく、軽い気持ちで、沙醐は、局の入口に垂らされた、帷子を上げた。
「早う!」
按察使の姫君が急かした。
「早う、入るのじゃ。しゃっ、と入らねばならぬ」
「はい」
沙醐は、衣擦れの音をたてて、何だか薄暗い局の中に踏み入った。