紅蓮 ― その3
昼飯を食べていけ。
百合根の姪の家ではしつこく誘われたが、沙醐は辞退して外へ出た。
蛍邸目ざして歩き出す。
気がせいて、途中から小走りになった。
なぜ、自分が、休暇の申し出を受け容れてしまったのか、不思議だった。
そもそも、この局面で休暇を取るなど、ありえない。
まるで何か、大きな力に頷かされたような気がする。
意志に反して、無理やり。
不吉な予感で、全身が震える。
北東の方角に、煙が立ち昇っているのが見えた。
ぎょっとして目をこらす。
煙ではない。虫の大群だ。
物凄い数の虫たちが、空を低くたれこめ、都を覆うように飛び広がっていた。
「ああ……」
風が、血なまぐさい匂いを運んでくる。
犬猫の死骸では足りない。
それも、一人二人の数ではない。
突然、ぴんと張り詰めた冬の空気を引き裂いて、女の哄笑が響き渡った。
貴族らの邸宅の上空に、十二単をまとい、あでやかな黒髪をなびかせた女の姿が浮かび上がった。
だが、一瞬のことだった。
次の瞬間、女の体は、信じられないくらいの速さで、地上めがけて突っ込んでいった。
目を覆う間もなく、地上から火炎が噴出した。
都の大火……。
ここ何日か、雨の降らない、乾いた冬晴れの日が続いていた。
火は、あっというまに、燃え広がっていく。
ぱちぱちと、木材のはぜる音が聞こえる。
どうん、ずうん、という地響きは、大きな邸宅の崩れ落ちる音だ。
あちこちで、人の悲鳴が聞こえる。
断末魔の、恐ろしげな悲鳴が長く尾を引き、突然途切れる。
まだ、沙醐のいるところまでは、火の手は来ていない。
沙醐は北東の空を睨んだ。
これは、漂の君の敵討ち……。
漂の君を死なせたのは、都の人の、無関心。
自分さえ安泰ならそれでいいという、冷たい、心。
門の内側は安泰で、外側は死という、それが許される、この都。
そんな都など、焼け落ちてしまえ……。
「お前も、暴れに行くかい?」
不意に、後ろから声をかけられた。
梅が、立っていた。
「漂の君を見殺しにした、あの、上品ぶった都の人々に、思い知らせてやったらどうじゃ?」
梅は、太刀を差し出した。
沙醐は手を伸ばす。
心が、もやもやしていた。
生まれた境遇から、どうあがいても、幸せになれなかった漂の君。
努力や心がけなど、何の得点にもならない、この、都。
先祖から伝えられたものが、土地や財産なら幸せに。
因縁や貧困を伝えられたなら、不幸に。
それは、一生、変わらない。
どうしようもない悔しさと、見通しのなさ。
ここで刀を振るいまわして暴れれば、全てを断ち切ってしまえれば、どんなにすっきりするだろう。
沙醐の手が、太刀の柄をつかんだ。
刀が、ふっと消えた。
梅が大声で、げたげたと笑った。
「神が許さないんだ。蛍邸に仕える沙醐であっても、神は、許さない」
沙醐は、夢から覚めたように、我に返った。
「み、皆さまは……。蛍邸の、皆さまは……」
「そろそろ、引き上げただろ」
梅は涼しい声でそう言った。
「清涼殿あたりの火も消えた。あちは様子を見にまいるが、お前も来るか?」
帝のお住まいになる清涼殿さえも、焼けた。
あってはならぬことだ。
とんでもない恐怖に、沙醐は震え、がくがくと頷いた。
梅は、人を小ばかにしたように頷くと、沙醐の体に手を回し、地面を蹴った。
二人の体が、ゆっくりと、大地を離れる。
「あちは、飛び梅だからの」
気持ちよさそうに、梅は言った。
空から見た都の中枢部は、完全に廃墟だった。
右京職、左京職などの行政の要、大学院、奨学院、勧学院などの学問の府、食料庫たる穀倉院。
皆、黒く焼け焦げ、元の姿は想像もできない。
何より恐ろしいことに、朱雀門の内側、内裏までもが、廃墟となっていた。