蛍邸 ― その3
その時、几帳のかたびらが割られ、白く光るものが飛び込んできた。
「百合根さま、百合根さま」
一向に動ぜず、白湯のおかわりなどを継ぎ足している百合根の袖を、沙醐は強く引いた。
「ただいま、何かが几帳の内に……」
「え? 何が?」
おっとりと構えている。
「いえ、何か、光る白い玉のようなものが……」
「気のせいじゃないの?」
百合根の声に被さるように、ぱたぱたという軽い足音が渡殿を渡って、近づいてきた。
「マロの生き須玉はどこ!」
飛び込んできたのは、まだ年端もいかぬ、垂れ髪の童だった。完膚なきまでに着崩してはいるが、直衣と袴を着用し、ただならぬ身分であることを示している。
「うぬ、見慣れぬ奴。何者!」
沙醐の姿を認め、間髪を入れず、左手に持った補虫網を差し向ける。太刀でも差し向けるような、仰々しい物腰である。
振り上げられた棹の先から、目の細かい網が、だらんとたれ下がった。
よく見ると、右手には、虫かごも下げている。
「まあ、若さま。無粋でございますぞ」
落ち着き払った様子で、百合根がたしなめた。しかし、その百合根の手が、がたがた震えているのに、沙醐は気づいた。
「蛍に触られたら、御手をお洗いになりましたか」
「蛍じゃない、生き須玉だ。大きいかごに移そうとしたら、飛んで逃げちゃったんだ」
「お手は? お手は、おきれいですか?」
「……手は、まだ洗ってない」
「では、これで、お拭きなさいませ」
いつの間に用意したのか、濡らした手拭布を差し出だす。
子どもは素直に布を受け取り、両手を拭い始めた。
「こちらは、沙醐。新しい女房です」
「沙醐にございます。どうぞ、よろしゅう……」
沙醐は慌てて頭を下げた。それでは、この方が、若様……。邸には、他に、二人の姫君がいるはずだ。
「一睡じゃ。見知りおけ」
取り繕ったような尊大な態度で言うと、几帳のうちを、きょろきょろと見渡す。
「ここに、生き須玉が飛んできた筈だけど」
「生き須玉というのは、あの、白く光る玉のことでございますか?」
おずおずと、沙醐は尋ねた。
「お前、見えるじゃないか。百合根は、見えないと言うんだ」
「何をおたわむれを」
ゆったりとした口調で、しかし、その眼はどうにも落ち着きを欠いて、百合根が口を挟んだ。
「それより、甘いものでもいかがですかな? 干し柿がございます」
袂をごそごそと探っている。
「干し柿。うん、ちょうだい」
その時、几帳の隅から、白い光がぱっと飛び立った。
「あ、あそこに!」
沙醐が指差したのと、一睡と名乗った少年が飛び上がったのは、ほぼ同時だった。
「こら、生き須玉。待て!」
几帳から垂れた絹布を割って、白い玉が、続いて補虫網をふりかざした少年が、元気よく飛び出していった。
「百合根さま……」
振り返った沙醐は、びっくりした。百合根が、両手にしなびた干し柿をしっかり握り締め、口から泡を噴いて倒れていたのだ。
「百合根さま、百合根さま。誰か、誰かー!」
ここが平安貴族の邸宅だということも忘れて、沙醐は、力いっぱい叫んでいた。