糺の森で ― その3
やがて、改まった口調で、一睡が言った。
「伊勢にゆかりの者の内紛など、マロらの知ったことではない。しかるに、ここは、糺の森。この世の、現在・過去・未来、全てとつながっていると知っているか」
ごうっ、と、大きな風が、吹き渡る。
「過去を現出させる。嘘はないか」
菅公は、黙ったまま、腕を組んで仁王立ちしている。
「覚悟はよいな」
荒三位が、静かにうなずいた。
ごうーっ、と、再び強い風が吹き渡った。木々の葉が舞い落ち、あたり一面に渦巻いた。
風が鼻を、口を塞ぎ、息ができない。
凄まじい突風に、全てが舞い飛んだ気がした。
気がつくと、夜の都が見えた。
皓皓と月に照らされ、白く輝く大路。
木枯らしが小さく吹き渡る。
酷寒の月下に、下着姿の女が、一人。
赤い袴をはいている。
ふらふらと、心ここにあらずという風に歩いている。
まるで酔っ払いのように、心もとない。
右に左に、体が揺れる。
女の姿が、ふっと消えた。
しばらくして、道端の溝から、白い手が、ぬっと現れる。
渾身の力をこめて、体を持ち上げるのが見える。
ずぶぬれの女が、全身から滴をしたたらせて、溝から這い上がってきた。
冷たい風が吹き渡る。
女はしばらく、路に倒れ伏せていた。
盗賊はびこる夜の大路、人は、一人も通らない。
女が動いた。
何度か身じろぎをして、やっとのことで立ち上がる。
髪が、凍えて固まっている。
こおりつくほどの寒さなのだ。
数歩歩き、そこにあったお邸の門を叩く。
人の気配はあるが、返事はない。
門の内から、息を殺して、外の様子をうかがっている。
女はふらふらとよろめき、真っ直ぐ立っていることができない。
扉の向こうの、人の気配が消えた。
みすぼらしい下着姿に、扉を開けるまでもないと判断したようだ。
女は再び歩き出し、向かいの家の門を叩く。
こちらの家も、反応はない。
しかし、門の扉の向こうから、短い、人の呼吸が、はっはっ、と、聞こえる。
中の一人が、奥の主人の元へ駆けて行く。
再び走って戻ってきた彼は、静かに首を横に振る。
憐れな女を、門の内側に入れる許しは、出なかった。
扉は開かれない。
次の家。
そのまた、次の家。
どの家の門も、開くことはない。
暫くの間、じっと、女の様子をうかがっている。
主人のご意向を伺う者もいる。
そして、誰かが結論づける。
扉を開ける必要など、ない。
何軒目かの家で、静かに拒絶された後、女は、大路に倒れ伏す。
冷たい、師走の風が、その僅かな生命のともし火を、ふっ、と吹き消す。
腹をすかせた、最初のやせた犬が、その姿を現せたのは、女が骸となるやならずの時だった。
続いて二匹目の犬が、三匹目の犬が、いずれも、飢えた目をして、大路の果てから、音もなく集まってきた。
木の葉が激しく舞い散り、宙に渦巻く。
「漂よ。漂よ。このような仕打ちを一身に受けて、お前は、死んだのか。
つらく苦しいばかりの命を……、
妹よ、お前はなぜ、生まれてきてしまったのだ……」
悲痛な声が、糺の森に木霊した。