糺の森で ― その2
隆範の拷問を終えて迦具夜姫と別れた後、沙醐は、兵部の家を訪ねた。
兵部は、漂の君の育ての親となった、女房だ。
沙醐は、ずっと、娘に向かって、お前は一人で生きてゆけ、と言い放った漂の君の実母のことが気になっていた。
家庭が複雑なことは、わかる。
花山院という男を挟んで、実の娘と恋敵の関係になり、漂の君を産んだ。
とても恋愛を讃える気になど、なれないであろう。
しかし、だからといって、自分の娘に、一人で生きてゆけ、などと言い渡すものだろうか。
沙醐の耳には、「生みの母をほとんど知らない。多分」と漂の君が言った、その、「多分」という言葉が、繰り返し繰り返し、蘇った。
自分は、母のことは、わからないつもりでいるだけれども、本当は、心の奥底で、全て、理解しいるのだ。
……多分。
そういう意味ではなかろうか。
しかし、いかに娘といえども、別の人間である母親のことを、理解などできるのだろうか。
もし、漂の君が、母親のことを理解していると考えていたとしたら、それは、自分が母親の懊悩の原因であると、そう、思い込んでしまっているということではあるまいか。
自分が、親の苦しみとなる。
そんな風に思うことが、どれほど辛く、切ないことか。
だから、漂の君は、母という人を、知らないことにしたのだ。
私は、親さまにさえ愛されたことがない……。
漂の君がそういう「親さま」とは、父・花山院ではなく、母・中務のことだったのではあるまいか。
育ての親・兵部は、実母・中務には、娘・漂の君への愛情が、全くなかったことを認めた。
むしろ、憎んでさえいたと言う。それは、公然の事実だから、隠すまでもないという態度だった。
兵部の家で場所を聞き、沙醐がそのまま、右京にある中務の家へ行けたのは、迦具夜が貸してくれた羽衣のおかげである。
市が立つ右京は活気はあったが、貴族の邸の多い左京に比べて、物騒である点は否めない。
中務の家は、かつて天皇であった人の愛人だった者が住む家とは思えないほど、寂しく荒れ果てていた。
折悪しく外に出ていた中務は、空から舞い降りた沙醐を見て、度肝を抜かれた。
その上、すっかり過去の人となっていた、花山院の名を聞かされ、恐慌にかられた。
それが、冥界の亡霊の話なのだから、尚更である。
沙醐は、花山院の亡霊が、漂の君は自分の子ではないと言ったことを話した。
そして、漂の君の死を知らせた。
中務は怯え、錯乱した。
彼女が怯えたのは、空飛ぶ沙醐に対してでも、花山院の亡霊に対してでもなかった。
彼女が恐怖のあまり狂ったようになったのは、生まれてから一片の愛情も注いだことのなかった娘・漂の君に対して、だった。
……。
中務が、花山院を裏切ったのは、暴力ゆえだった。
相手は、藤原伊周。
荒三位・道雅の父親である。
藤原中関白家の長男、伊周と花山院の、女を巡る確執は、これが始めてではない。
女が原因で、伊周は、花山院に、弓を引いたことさえある。
最もこれは、花山院と伊周が、姉と妹の所へそれぞれ通っていただけのことで、伊周の早とちりだったらしいが。
しかし、この事件がきっかけで、伊周は共謀の弟・隆家とともに、一時、京の都を追われ、結果的に、藤原中関白家は、政治の表舞台から消え去ることになる。
罪を減じられ都に戻った伊周が、花山院の女・中務に手を出したのは、そういう過去からの因縁によるのだろう。
女を巡る、伊周との二度目の遭遇に、花山院は、表立って騒ぐような真似はしなかった。
黙って、中務の元から去っていった。
中務は、愛していた院に、捨てられた。
彼女自身には、何の罪もなかったというのに。
そして、藤原伊周との間に生まれた漂の君は、里子に出された。
漂の君は、生まれながらに、罪の子だった。
その出生がそもそも罪だった上に、母から愛人を奪った点でも、罪だった。
花山院は、こともあろうに、中務の上の娘、漂の君の姉にあたる女の元へと去っていったのだ。
……
中務は、それだけのことを話し終えると、狂ったように泣き始めた。
その泣き声の合間合間に、漂の君への呪詛が混じっているのを、沙醐は聞いた。
完全な狂女だった。
沙醐は、黙ってその場を立ち去った。
母の愛は、最後まで、語られなかった。娘の死を悼む言葉さえ、その口から漏れることはなかった。
それが、なにより、痛ましかった。
「そうだ」
それまで一言も口をきかなかった荒三位・藤原道雅が、ようやく口を開いた。
「私と漂は、同じ父親の血を引く、兄妹にあたる」
「伊勢ゆかりの者どもは、結束が固い。伊周と妹・定子、弟・隆家。その後を継ぐのが、ヌシら、伊周の子ども達なのだな」
菅公がゆっくりと言った。
「それにしても、沙醐、よく調べたな」
「黙っているなんて、ひどいよ」
一睡が不平を並べた。
「お許しください。私にも、それがどういうことなのか、わからなかったのです。もし、今回のことと何の関係もないのなら、亡くなった漂の君の一身上の事を、しゃべりまくるのは慎まねば、と思ったのです」
沙醐は正直に謝罪した。
「まあ、それは、いいよ。でも、それでも、荒三位、あんたへの疑いは晴れたわけじゃない」
一睡が、ぐい、と荒三位を睨む。
「私は、漂が、太皇太后の元で働いているのが、気の毒でならなったのだ。気の毒で、そして不快で、仕方がなかった」
全てを諦めたように、荒三位が言った。その様は、無念そうでもあり、悲しげでもあった。
「そうか。太皇太后・彰子の父、道長は、お前の父、伊周を追い落とした、憎っくき大叔父だ。それに、彰子自身は、お前の死んだ叔母・中宮定子のライバルだった。お前は、身内の、それも腹違いの妹が、自分たちの血族を表舞台から蹴散らした者……道長とその娘、彰子……の元で働くのが、我慢ならなかったわけだ」
「だから殺したの?」
自白を誘うように、一睡が尋ねた。
「妹が、太皇太后の元で働き続けたから? 自分の思い通りにならないから?」
「違う。私は、漂を殺してなぞいない」
「なら、なぜ、漂の君の死体が、都の大路で発見されたりしたの! しかも、犬に喰われて……」
犬に喰われて……そう聞くと、荒三位の生霊は、静かにすすり泣き始めた。
「私が兄であると名乗ると、あの子は、それなり二度と、私と会おうとしなくなった。私は、女房づとめをやめて、わが邸へ来るように申しやった。一族の仇の家で働く必要など、ないではないか。だが、あの子は、その申し出を断ってきた。太皇太后を裏切ることはできない、と言って……」
沙醐は、太皇太后彰子を深く敬っていた、漂の君のことを思い出した。
都の心ない噂話を匂わせても、頑として、太皇太后・彰子を擁護していた。
「そこで、隆範に、あの子をさらってくるよう、命じたのだ。わが血の流れを汲む者が、あの憎き道長の、娘の下で働かされているのは、我慢がならなかった。しかし、あの子は、途中で逃げ出してしまった。あの子があんまり暴れるので、乱れた上着を脱がせていたという話は、後から聞いた。しかし、まさか、そのままの姿で逃げてしまうとは……隆範にも、仲間の者にも、予想もつかなかったそうだ」
暗い夜のこと、逃げられたことに気づいて後を追ったのだが、闇にまみれて取り逃がしてしまったのだという。
菅公も一睡も、しばらく無言だった。