月からの使者 ― その5
深夜の羅城門など、来たい所ではない。
まして、若い女の身で、たったひとりで……。
鬼が出る、とか、盗賊団の根城である、とか、疫病が流行った時は死体捨て場である、という噂まで流れている。
しかし、菅公、菅原道真の怨霊は、確かに、羅城門を宿りにしていると言った。
菅公が鬼というのは、それはその通りである。
羅城門は、朱雀大路の南の外れにある。
この内側が洛中、外側が洛外。
羅城門は、都の、内と外を分ける門なのだ。
同時にそれは、魔境との結界……。
そう言う者もいる。
満月の月が、大路を煌々と照らしていた。
丹塗りの柱が、何本も、太く聳えている。
沙醐が生まれる前に二度ほど、暴風雨で倒壊し、現在は完璧な姿ではないけれども、その威容は、充分に伝わってくる。
……胸が華やぐほどにあかい巨きな柱に、下からはよう見えぬが、な、緑青を噴いたような、それはそれは鮮やかな、碧の屋根……。
父がよく話してくれた、ありし日の羅城門の雄姿である。
決して近づいてはならぬと教えられた、都の外れの、魔境。
ふと、沙醐は、耳をそばだてた。
門の上階の楼から、笛の音が流れてくる。
沙醐の知らない曲であった。
それにしても、なんと哀切で、なんとしみじみと人の心に染みわたる曲であろう。
「沙醐」
至近距離で名を呼ばれ、沙醐は飛び上がった。
稲妻も見せずに現れた雷神、菅原道真が、両目をぎらぎらさせながら立っていた。
「ああ、びっくりした。いきなり現れないでくださいよう」
「すまなかった。って、お前は、わしに会いに来たんじゃなかったのか?」
「そうです。そうですけど」
沙醐は耳を済ませた。
笛の音は止んでいた。
「もう。菅公さまが驚かせるから、笛がやんでしまったではありませんか」
「ふん」
菅公は、太い鼻息を噴き出した。
「あのような素晴らしい笛の音、沙醐は、初めて聴きました。せめて、もう一曲、聴いていたかったのに」
「笛の主は、もうおらん」
菅公は、ぼそっと言った。
「あやつとお前を会わせるわけにはいかぬ。だから、わざわざ出向いてやったのだ」
「そのお方とは?」
「大変な美青年だ。管弦の技量も確か。人の心を奪い去る。あのような男にお前を近づけたら、蛍邸の連中に、何と言われることか」
そのような方なら、是非、お会いしてみたかった、と、先ほどの宴で、平安貴族というものに心底失望した沙醐は、しみじみと思った。
「女にとっては、男は、不器量で不器用な方が安全なのだ」
馬鹿にしきったように、菅公が言う。
「はあ」
「ところで、沙醐、何か用があるのだろう? わざわざこの時間に、この羅城門を訪れたからには」
「私は、」
沙醐は、ためらった。どこから話を切り出したらいいのか、わからなかった。
「菅公さまは、カワ姫や迦具夜姫とは、古いお付き合いだとお話しになっておられましたね」
梅屋敷の梅が、菅公は、怨霊になってから、迦具夜姫と一緒に京にやってきた、カワ姫は、そのもっと前から都にいる、と話していた。
「おう、やつらとは、古いつきあいだ」
鬼は、重々しく首肯した。
「菅公さまが亡くなられたのは、随分昔のことですよね」
婉曲な言い回しで、沙醐は言った。
菅原道真が、九州大宰府に左遷され、その地で失意のまま客死したのは、百年以上前のことだ。
「それがどうした」
「そして、菅公さまが、雷神となって、都に祟られましたのは、その直後のことと、噂されております」
「その通りだ。鉄は熱いうちに打て、と言うからな」
菅公は懐かしそうな顔をした。
「清涼殿に落ちてやった時の、あいつらの顔といったら!」
「ということは、菅公さまは、怨霊となって、百年以上前に、この都にお戻りになったということになります。」
沙醐は、背筋がぞくぞくとした。
「そして、同行された迦具夜さまも。カワ姫は、すでに都におられたとお聞きしました。つまり、迦具夜姫もカワ姫も、少なくとも、百歳を越える、と……」
それなのにあの美貌。まあ、カワ姫は美女ではないが、少なくとも、若い女に見える。
人間離れした言動が垣間見られる彼らだが、本当に、人間ではないのではなかろうか。
でも、だとしたら、何だというのだ?
そして、平安京に住む目的は?
「理屈を言う女は、嫌われるぞ」
菅公は、目をぎょろりとむきだした。
「しかし、ものを考える女は、嫌いではない。個人的には、な」
「私は、恐ろしいのです」
菅公に訴えながら、怨霊相手に、恐ろしいもないものだと、頭のどこかで考えていた。
梅婆さんに叱られ、頭を抱えていた菅公は、どこか憎めない。真の恐ろしさとは無縁の存在のように感じられた。
「蛍邸のみなさまは、奇人変人の方ばかりではございますが、情に厚い方たちとお見受け致しました。少なくとも、私は、そう信じております」
信じなければ、やっていけない。
「それなのに、今、沙醐の心には、疑念がきざしております……」
沙醐は、堰を切ったように、胸のうちを吐き出し始めた。
カワ姫は、虫を飼っている。気味の悪い趣味だが、それは個人の自由だ。
問題は、カワ姫が、虫が、人を操ることができると考えていることだ。
虫は、人の内臓に巣くって、人を操ることができる……カワ姫は、確かにそう言った。
実際そんなことができるか否かは別にして、虫が内臓に入り込むと考えるだけで、ぞっとする。それは、皮膚がかぶれるどころの比ではなかろう。
迦具夜姫は、月の世界から来た天女だ。だから空を飛ぶ。
驚くべきことだが、そういう変人は、遠く唐や天竺にもいると聞く。
しかし、迦具夜姫は、人を不幸にしようと画策している。不幸に落としてやることが、即ち、幸福になることと、考えているらしい。
それって、あり?
現に、権少尉という人が、迦具夜姫に入れ込んだ挙句、肥後の国へ左遷されたと話していた。
一睡に至っては、生霊救済の為なら、自殺幇助から殺人までやりかねない。
蛍邸の人々について、沙醐には理解できない点が、多すぎる。
「そもそも、あの方たちは、どうした方たちのなのですか?」
怨霊・菅公に、そう、問わずにはいられなかった。
「昔、この国には、あまたよろずの神々がいた。……他に言葉がないから、神と言うが、人を救ったり願いを叶えたりする存在ではなく、なんていうか……ただ、人とともに在り、ともに喜び、ともに涙するだけの存在だった。
人々の心に寄り添っていただけだ。
人々も、彼らを身近な存在と思いこそすれ、何かを頼んだりしようなどということは、夢にも思わなかった。
なにせ、失敗の多い、そそっかしい奴らばかりだったからな」
菅公は静かに語り始めた。
「しかし、天の神の子孫であると自称する人々がやってきて、この国を支配し始めると、昔からいた神々の存在は、ジャマで仕方がなかった。
新しく来た人々には彼らの神があったからな。イザナギ・イザナミとか、アマテラス・スサノオとか。
そこで、彼らは、文字を発明した。隣の大国の漢字を借りて、大急ぎで作り上げた文字だ。
なぜだかわかるか?
文字で記された神話は、後の世に伝わるからだ。後の世に伝わって、神話は、真実になる。
一方、この国にもといた神々は、もちろん、文字などという高尚なものは持っていなかった」
沙醐は、驚いて目を見開いた。思いもかけない話が始まったからである。
「もといた神々……八百万の神々は、国中に追われ、迫害された。
神々の迫害……それは、彼らを信じ、かばう人々を迫害することだ。追い詰め、殺戮し、そして命乞いする人々を、奴隷にしてしまうこと」
菅公はため息をついた。
「そのたくらみは成功した。
『日本書紀』やら『万葉集』やらいう書が編まれ、いにしえの神々は、次第に人々からも忘れ去られ、死に絶えていった。
この国は、新しい神たち、その子孫の支配する国となった。
だが、一部、生き残った神たちもおったのじゃ」
「はい……」
「古い神は、歌い、踊る人々と一緒に都にやってくる。
なぜなら、神とは、楽しい、憂いのない存在だからだ。純粋で、まるで子どものような、わけのわからん振る舞いをする。
……カワ姫は、東国の、子ども好きな虫の神だった。
ほれ、疳の虫、とか、腹の虫、とかいうだろう。体の虫が騒ぐのは、カワ姫のちょっとしたいたずらだ。
カワ姫は、常世神と名乗って、都にやってきた」
「迦具夜さまは……?」
「迦具夜は月からきた神だ。
悪意のある女神で、関わった男どもを堕落させずにはおれない。
しかし、堕落させられた本人達は、本当に不幸だったのだろうか?
真に美しいものに身を捧げた一途な生き方は、それは、不幸せな人生だったと、切って捨てられるだけなのだろうか。
世の為人の為にならぬから、嘲られ蔑まれていいのか」
「……」
「迦具夜は、志多羅神と名乗って、やはり歌い踊る人々と共に、この都へやってきた。西
国からの旅で、丁度、大宰府から京へ戻る途中だったわしと梅も、同行させてもらったのだ。な
んだか、とても楽しそうだったからな」
それから、百年以上の付き合いということになるのか。
「一睡は……一睡だけは、素性がはっきりしない。
だが、母親は、はっきりしている。眠り姫だ。この都で、ずっと、ぐーすか、眠っておった。
元々、忘れられた存在だったから、迫害されることもなかった。
そのまま眠り続け、つい先ごろ目を覚まし、どういうわけか、一睡を生んだ」
「はあぁ」
思わずため息が出た。
普通でないことはわかっていたが、まさか、「神さま」だったなんて。
「いや、だから、神さま、と言ってしまうのは、やはり抵抗があるな。
たとえば、沙醐、お前が凄く嬉しいことがあったとする……最近、何か嬉しいことはなかったか?」
「そうですね。この頃一番嬉しかったのは、ちょっと前のことになりますが、蛍邸に就職できたことでしょうか」
仕事が喜び? 我ながらいやになった。
「ふむ。そういう時、古の神々は、いつの間にかそばにいて、祝い酒を振舞ってもらい、赤飯などをご馳走になったりする。
そのうち、大声で笑い、うかれて踊り出す」
「はあ」
「逆に何か悲しいこと……たとえば、親しい人が死んでしまったりした時……古い神々は、そっと近寄ってきて、肩を抱き、一緒に泣いたりする。
……だが、それだけだ。
決して、慰めたり助けたりしてはくれない」
どさくさに紛れて人にたかるだけの、ほとんど役立たずの神ではないか。
「そう、古の神々……八百万といわれるほどたくさんいた神々は、そろいもそろって役立たずだった。
ただ、役立たずであるがゆえに、人々に愛されていた」
「それで、その、古の神々であったカワ姫や迦具夜姫は、なぜまた都へやってきたのですか?」
滅ぼされた神々や、信仰してくれていたがゆえに、虐げられた人々の復讐……。
答を聞くのが怖かった。
「わしは、わしを陥れた奴らが、憎い。菅氏を封じ込め、天下を握った藤原氏が。
……自分のことは、どんな醜い感情でも語れる。
だが、蛍邸のやつら……古い神々のことは、よく語れぬ。
なにしろ、人と同じ尺度で推し量ることなどできないのだから」
怨霊にも語れないとは。
「ただひとつ言えることは、あやつらは、都の人々が、窮屈で生きづらいのが、不思議で、不本意で、ならぬようだ。
古い神々の死や、滅ぼされた人々の犠牲の上に成り立った生活なのに」
古い神は、楽しみの神。
だから、都の人々の生きづらさが、我慢ならない。
どうして、もっと楽しまないのか。歌って踊って、人生を謳歌しないのか。
「時に、沙醐」
菅公は、トラ模様の腰巻を探っている。また、何かを出そうとしているのだ。
「花山院からの言付けだ。このあいだ、冥府へ行ってきたからな」
「花山院……」
漂の君の父親だ。だらしなくて女垂らしで、大いに問題アリの……。
でも、花山院は、もう死んだ筈。
ああ、そうか。菅公は、死者の国へ行ったんだ。怨霊だから、まあ、里帰りのようなものか。
あちこち探って、菅公は、よく磨いた水晶の塊のような透き通った四角い塊を取り出した。
月の光にかざす。
すると沙醐の眼前に、古めかしい衣裳を着けた、年配の男の姿が浮かんだ。
男は、視線の定まらない顔つきで、口を開いた。
「わしは、漂の君の父親ではない。本当の父親は……」
ふうーっ、とかき消えた。
「え? それだけ?」
「冥界でもまだ開発途上でな。これでも長い時間を収めることができるようになったんだ」
菅公は大事そうに澄んだ塊を仕舞い込んだ。
「漂の君の父親ではないって、それ、どういうこと?」
「花山院の伝言はこれだけだ。自分で考えるのだな」
菅公は、かはははは、と大声で笑った。
雷が唱和し、羅城門の辺りに、時ならぬ豪雨がしぶきはじめた。