蛍邸 ― その2
父が任地の駿河へ出立した日、沙醐は、蛍邸の前へ降り立った。
沙醐にはすでに母はない。
年頃の娘を、辺鄙な田舎へ連れて下ることは、娘を溺愛する、年老いた父には、どうしてもできなかった。
口をきいてくれる人がいて、沙醐は、二人の姫君と幼い若君のお世話係りとして、この蛍邸で使われることになったのだ。
蛍邸とは、なんとも優雅な名だと、沙醐が言うと、口をきいてくれた人は、微妙に言葉を濁した。ちょっと気にはなったが、仕事の内容が、主として姫たちの話し相手だと聞いて、父は、喜んだ。
身分のある姫君たちの身近にいれば、沙醐にも、しかるべき縁が舞い込むのではないかと、期待したのだ。
広大な敷地は下草など生い茂って、手入れが行き届いていない感じがする。下使いの者の気配もなく、なんだか寂れた感じだ。
想像していたのと、違う。
本当に、妙齢の姫君たちがいるのだろうか。
「もし。もし!」
声を掛けてみたが、返事はない。荒れ果てた庭園の奥から、こだまが返ってきそうで、不安が募る。
困り果て、誰か来はしないかと、大路の向こうを見やり、ふと視線を戻すと、何の気配もなく、女の童が立っていた。
びっくりして、声も出なかった。
垂れて削いだ前髪のかわいらしい子だった。とても白い顔色をしている。病的な感じではないのだが、子どもらしい無邪気さはなく、ひどく落ち着いている。
にっこり微笑んで、沙醐の手を引いた。唇を横に引き結んで、頬がひきつれたような笑いだった。
女の童は、丈長く生い茂った下草の間の、まるで踏み固められたケモノ道のような、一条のすきまを縫って歩いていった。
ケモノ道には、しかし、よく見ると石が敷いてある。気をつけないと、すべる。
大きな赤松の枝が見えたかと思うと、唐突に、寝殿造りのお邸が現れた。
女の童はためらうことなく、邸の中へと入っていく。まるで迷路のように入り組んだ廊下を、沙醐の手を引いたまま、進んでいく。
この子の手を離したら、迷子になってしまう。
不安になって、沙醐は、童の手をしっかり握りなおした。
小さな、冷たい手だ。沙醐は、自分の手が汗ばんでいるのを感じた。
邸の奥の、とある局の前で、童は、沙醐の手を離した。
「誰か?」
中から問う声がする。
「あ……」
沙醐は慌てた。
「す、駿河の国の国司の娘、沙醐にございます」
「ああ、新しい女房ね」
垂れた布が捲り上げられ、中から、細面の髪の薄い、年配の女が、ひょいと顔を出した。
「よく、この局がわかったわね」
「あ、女の童が来てくれて……」
振り返ると、女の童の姿はなかった。
「女の童?」
女の顔が一瞬歪んだような気がしたが、気のせいだったろうか。
彼女は首を振り、沙醐を中に招じ入れた。
「私の名は、百合根。あなたの先輩にあたる女房よ。よろしくね」
百合根は、きょときょとと視線をさ迷わせ、なぜか怯えて見えた。
沙醐に白湯など勧めながら、落ち着きなく、身体を揺り動かしている。
「あのう。私、管弦も習字も和歌も、いまいちなんです。こんなんでも、勤まるのでしょうか」
沙醐は、漢文だけは父から手ほどきを受けたが、母がいないせいか、和歌や音楽など、雅な道には、あまり縁がなかった。
大きな声ではいえないが、そのたった一つの漢文でさえ、覚えた内容は夢うつつの彼方にある。失望した父は、残りの時間を武芸を教えることに費やしたが、このことは、内緒である。
姫君たちのお相手と聞いて、教養がないという自覚が、ずっと、心にわだかまっていた。
「そんなこと。大丈夫よ、大丈夫。だって、あなたって、フツーですもの」
「は?」
「あなた、妙なものが見えたりしないでしょ?」
「妙なもの?」
百合根は、ぐんと身を寄せてきた。
「天から降りてくる牛車や、羽虫の大群、光る玉とか、青鬼よ」
「お話がよくわかりませんが」
「言葉どおりの意味よ」
百合根は白湯を飲み干した。筋張った喉が、くいと動く。
所在がなくて、沙醐も、碗の白湯を口にした。幽かに香木の匂いがしみつき、なんだか薬臭い。
「小式部には見えたのよ」
「小式部……私の前任の方ですね」
沙醐は身体を硬くした。前任者の女房は、身体を壊して、お邸を退いたと聞く。
「いろいろ、言ってたのよね。一の姫の局が毛虫でいっぱいだとか、二の姫が、空に舞い上がって、踊ってたとか。馬鹿げた冗談よ。そんなこと、ある筈がないでしょ。それが、先月の雷の日、お庭に青鬼が落ちたと叫んで、それっきり……」
「それっきり?」
「実家に逃げ帰っちゃったのよ」
「するとその、小式部という方は」
「頭が弱かったのね」
百合根はあっさりと言って、碗を下に置いた。
「男出入りも激しかったし。あなた、通ってくる殿方とか、いらっしゃる?」
「いえ、私は、そんな」
沙醐は顔を赤らめた。沙醐はまだ若い。いつかはそのような日がくると信じている、愚かといえば愚かな乙女に過ぎない。
「あら、残念」
トウの立ち切った百合根が、さらっと言った。
「あんまりたくさんの殿方との同時進行は困るけど、一人二人なら、いらした方がいいのに。このお邸は、マトモな殿方に縁がなくてね。ま、姫さまたちがあのようでは、仕方がないことなのかもしれないけど」
沙醐は、さっき見た、草ぼうぼうの庭を思い出した。あれでは、どんなに美人がいても、外から見えよう筈もない。
恋は、垣間見から始まるのに。
おこぼれでもよいから、娘に良縁を。
父のほのかな期待は、着いて早々に、ついえたような気がする。