月からの使者 ― その2
満月の夜が近づいていた。
迦具夜姫は、月を見上げて、ため息をついてばかりいるようになった。
「どうなさいました、この頃。夜遊びにもおいでにならないで、月を見上げてばかり、おいでになります」
十五夜も間近のある晩、沙醐は、また、縁に出て、月を見ている迦具夜姫の側に座って、問いかけた。
「月の顔を見るのは、忌むべきこと、と申しますよ」
そんな言い伝えを聞いたことがある。
迦具夜姫は、深くため息をついた。
何か言いかけ、口をつぐんだ。
そしてもう一度、思い切ったように、口を開いた。
「沙醐や。今まで黙っていたのだけれども、実は私は、この地上の人間ではないのだよ」
「知っています」
「知ってるって……」
「姫さまが人間であろう筈がありません。カワ姫も一睡さまも人間離れしていらっしゃいますが、特に迦具夜さまは、怨霊、とまでは申しませんが、妖怪、に限りなく近いのでは、と、私、思っております」
「お前、それは、失礼じゃないかい?」
「むしろ、妖怪に失礼かと……」
「安心していいわ、私は妖怪などではないから。もちろん、怨霊でもないけど。聞いて驚くがいい、実は私は、月の世界の住人なのです」
「はあ」
「……驚かないの?」
「だって、お体が光ったり、消えたり、空を飛んだりするのを見てますからね」
「うーん、状況証拠をばら撒きすぎたのね」
迦具夜姫はため息をついた。
「とにかく、もうすぐ満月、非常にヤバイ事態です」
「なにをやらかされたので?」
「何にしても、もはや手遅れ」
「はあ?」
「私は、月の世界に帰らなければならなくなるやもしれません」
迦具夜姫は、再び月を見上げ、深いため息をつくのだった。
「カワ姫、カワ姫、大変です!」
「あ、これ、粗忽者め! そこな箱に触るな!」
「おっとっとッと」
沙醐は、踏みかけた白い箱の真上で、足を止めた。
「危ないところでした。このような足元に、大切な虫を、お置きなさるな」
「あわてふためいて侵入してくる馬鹿者がいなければ、何をどこに置こうと、妾の勝手」
「少しは、掃除する者の身にもなって下さいよ」
「だから、掃除はいいと言っているだろうが」
「そういうわけには参りません」
現に、この局に近づくだけで、妙に咳込む。
「それで、何をそんなに騒いでいるのだ」
「ああ、そうだ、迦具夜さまです。迦具夜さまが、月からの使者に連れ戻されてしまうかもしれない、と、こうおっしゃるのです」
「ああ、また、それか」
迦具夜姫と聞いて、何かを期待しているように見えなくもなかったカワ姫は、心底がっかりしたように、肩をすくめた。
「またそれか、って、前にもそんなことがあったのですか?」
「毎年のことよ。毎年、十五夜が近くなると、月に帰るの帰らないのと、大騒ぎをしとる」
「では……」
「もちろん、帰ったことなど、一度もござらぬ。現にこうして、この邸に暮らしておるのだからな」
「はあああああ」
一気に力が抜ける思いがした。
なんだ。
「お前、迦具夜に、月の世界に帰って欲しくはないのか?」
面白いものでも見るように、カワ姫は、沙醐の顔を覗き込んだ。
確かに、迦具夜姫は、エキセントリックだし、邪悪なところもある。そのうえ、非常に美しい。
同性として、これほどカンに触る存在もない。
しかし、だからと言って、姫が嫌いかというと、決して、そうではなかった。
突飛な言動は、純粋さの裏返しだし、邪悪さは、何かを面白がっているだけで、決して悪意からではない。
少なくとも、沙醐への悪意は、微塵もない。
むしろ、好意の片鱗めいたものを感じるのだが、それは、或いは、勘違いかもしれない。
「それは、帰ってほしくないのに決まっています」
沙醐にしては珍しく、きっぱりと言い切った。
「ほう」
カワ姫は目を細めた。
「迦具夜に言えば、喜ぶぞ」
「お願いです、黙っていて下さい」
迦具夜姫が聞いたら、本人は好意だと信じる、どんな裏返しの行為……単純に、仕返しと言っていい……が返ってくるかわからない。
「安心せい、月の世界でも、あやつは、持て余されておるのだから」
「……」
その時、邸の入り口の方が、にわかに騒がしくなった。
「吾が子、吾が子、ご無事でいるか?」
「ああ、竹取りのじいさんが来た」
カワ姫が露骨に眉をしかめた。
「毎年毎年……。絶対に、月に帰ることなどありえないのに」
「竹取のおじいさんって……」
「迦具夜の育ての親よ。光る竹の節で泣き喚いている迦具夜を見つけ出し、育て上げたのだ。もう、よほどいい年の筈だ」
「はあ」
「迦具夜がいつまでたっても結婚しないので、心配で心配で、死ぬことができないのだそうだ。……気の毒に」
話していると、ぱたぱたという軽い足音がして、御簾のすだれが、ぱっと捲り上がった。
「おお、カワ姫! 久しぶりだな」
「一年ぶりでございますね」
カワ姫が、冷静に返した。
「ふん」
答えた老人は、なるほど、梅ばあさんと張りそうなひどい年寄りではあったが、その小柄な体は鍛えぬかれ、動く足取りも敏捷であった。
「按察使の大納言殿からの言付けじゃ。虫ばかり愛でてないで、はよ、婿を取れ!」
「まったく、どこの親も……」
カワ姫は露骨に舌打ちをした。
その後に、どのように辛辣な罵詈雑言が続くかと、沙醐は首を竦めたが、意外なことに、カワ姫は、それ以上、何も言わなかった。
「あ、竹取の、お爺さま!」
心底嬉しげな声がして、一睡が顔をのぞかした。
「おお、一睡殿! さてもさても大きうなられましたな」
爺の相好が崩れた。
一睡が走りよってきて抱きつくと、竹取の翁は、その体を持ち上げ、高い高いをした。
老人と子どものそれは、まことに、心洗われる、麗しい情景だった。
不意に、爺の顔が歪んだ。
さては、一睡の体が重すぎたか。
腰の骨にヒビでも入ったかと、沙醐は、本気で心配になった。
「うっ」
一睡の体を下に下ろし、爺は、目を拭う。
「お爺さま、どうなされたの?」
天使のような純粋な声と言葉遣いを、一睡も使用できるものらしい。
「わしはいったい、いつになったら……。いつになったら、おまえ様のような、かわいいマゴを持つことができるのか……」
「それは永久にムリ」
氷にのように冷たく、巌のように厳かに、カワ姫が言い渡した。
十五夜の日がやってきた。
竹取の翁は、朝から大張りきりで、邸の周囲を見回っている。
竹の筒から大金が出てきたとかで、つわものを大勢雇い、警備に充てている。
中には、迦具夜姫目当ての貴族もいるらしい。
「ほれ、どこにどんな縁が転がっているやもしれぬからな」
皺だらけの瞼をひくひくさせて、不気味なウインクを沙醐に送ってきた。
「懲りぬヤツじゃ、あのジジイも」
入れ違いにカワ姫がやってきて、うんざりしたようにつぶやく。
「あれ、姫さま、お出かけですか?」
「うん、ここはうるさいからな。虫も寄り付きはせぬ。しばらく、メメらのところにでも世話になりにいこうかと思って」
「メメたちのところですって? いけません、そのような下賎の者の所へまかりなさっては!」
虫取りの名人と言ったって、近在の、下々の者の子らではないか。
「沙醐、口を慎め」
珍しくきつい口調でカワ姫が言う。
「人に貴賎はないわ。むしろ、額に汗して口を糊する糧を得る人々が、本当に尊いのだと思わぬか?」
「それは……」
「食べ物が一番の宝なのだよ。物や金になぞ、何の価値も無い。そんなことを言うのは、フジの世になってからだ」
理解しかねることをつぶやきながら、カワ姫は、引き寄せた牛車に、ひらりと飛び乗った。
「そういうわけで、二~三日帰らぬが、心配するな」
「はあ……」
「ああ、それから、これ」
カワ姫は、何やらかさかさとしたものを二枚、沙醐に手渡した。
「今夜はこれが必要になると思うぞ」
「なんですか、これ?」
「蝉の羽じゃ。光を遮ってくれる」
「蝉の羽?」
悲鳴を上げて投げ捨てなかったのは、沙醐にもある程度の馴れが生じていたからであろう。
カワ姫は、満足そうに頷いた。
「では、留守を頼む」
「……いってらっしゃいませ」
その時、牛の轡を抑えていた侍従が、こちらを向いて、にやりと笑った。
「あ、メメ……」
「俺らが、一番尊いんだよ。国の宝さ」
少年は、にやりと笑った。