月からの使者 ― その1
「沙醐さま」
都の大路で声を掛けられた。
都に知り合いはあまりいない。
迦具夜姫に命じられて、渡来ものの紅を買いに来た沙醐は、立ち止まった。
「……漂の君?」
漂の君の実体とは、あれから何度か会ったが、振り返って驚いた。
儚く、悲しげな、印象はない。
むしろ、さんさんと降り注ぐ昼間の太陽の下で、今を盛りと咲き誇る、八重咲きの花のような、そんな生命力を湛えていた。
「これはこれは。誰かと思いましたよ。何だか、一段とお美しくなられたよう」
よう、は失礼だったかな、と思った。
漂の君は、華やかに笑った。
「あなたは、笑顔の方が素敵ですよ」
「沙醐さまこそ、いつもいつも、笑ってらっしゃいます」
それは多分、無理無体を押し通す主人達に使われる者としての宿命であろう。
無理難題を押し付けられたら、笑うしかないではないか。
「蛍邸の皆さまは、お元気ですか?」
「あの人たちは、殺しても死なないから」
「その節は、大変お世話になりまして……」
それは、単に、皆が興味本位に動いただけだろうと沙醐は思ったが、曖昧に笑うに留めた。
「ほら、また、笑ってらっしゃる」
「だから、これは……」
「沙醐さまの、そんなところが、私は大好き!」
沙醐は、はっとした。
しぶしぶ仕事をこなしている日常で、人から好かれるような笑顔を身に着けるという、なんだかとてつもない奇跡を起こしたような気がした。
「からかってはいけません。お話を逸らせていらっしゃいますね。漂の君には、なにか、とても良いことがおありになったのでしょう?」
百合根の策が、功を奏したのだ、と沙醐は思った。
ありとあらゆる失敗を想定しては悲嘆に暮れる師直の尻をひっぱたき、なんとか和歌を贈らせたと聞いている。
もっとも、偵察していた一睡によると、和歌も文も、業を煮やした百合根の代作だということだったが。
漂の君は、くすりと笑みを漏らした。
「私、恋をしてみたくなりました」
「はあ」
「今まで、地味に、息を潜めるようにして生きてまいりましたけれども、ここへ来て、燃えるような熱い恋を経験してみたいと思うようになりました」
「それは、いいことですよ。何にしても、あなたは、まだ、お若いのですから」
「沙醐さまは、恋は、馬鹿げたことだとは、お思いにならない?」
「そんなこと……」
「母は、そう言ったのです」
「え?」
漂の君の口から、母の名が出たのは、初めてのことだった。
「恋は、馬鹿げたこと。女は、自分の力でしか幸せになることはできない。男君に頼ろうなんて、不潔な考え」
カワ姫と同じようなことを言っている。
しかし、カワ姫は、時代がなんとかだから、そうした生き方も許す、というような言い方をしていたような気がする。
「お前は一人で生きてゆけ。私の生みの母は、そう言いました」
「漂の君のお母様って……」
母娘で花山院の子を産んだ、その母の方だ。漂の君の姉が、その、娘になる。
母と姉が、父の子を産んだのだ。
さぞかし複雑な家庭環境であったことだろう。
「私、」
不意に、初めてあった時の、あの、内気そうな表情が蘇った。
「私、生みの母のことは殆ど知らないのです、多分。幼くして兵部の元へ里子へ出されましたから」
兵部というのは、宮中に仕えている女房の名だ。
「多分」という言葉が引っかかったが、家庭内のことをあまり聞き出すのは、ぶしつけと思われた。
「兵部の家では、うまくいっているの?」
つとめて、何気なさそうに尋ねてみた。
「ええ、それは、もう。ですが、兵部には兵部の子どもがおりますから。それに私はもう、一人で生きていかれますし」
「余計なことかもしれないけど……」
沙醐は、慎重に言葉を選んだ。
「時には誰かを頼りたくなるというのは、とても人間らしいことじゃないかしら。皆が皆、強い人ばかりじゃ、私なんか、疲れてしまうもの」
漂の君は、低い声で笑った。
「とても、沙醐さまらしいお考え」
「まあ、人生は一度きりだしね。親の考えで自分の生き方を決めるのは、どうかと思うのよ。自分で自分の人生を引き受ける為にも」
漂の君は、一瞬、泣きそうな顔をした。
「太皇太后さまの所は、どう?」
根掘り葉掘り尋ねる、世話好きオバさんになったような気がした。
しかし、漂の君の生霊を見送りながら一睡が言い捨てた、「女のイジワル」が、ずっと気になっていたのだ。
百合根は優しいが、中には陰湿なイジメに走る女房もいる。
漂の君は、心外そうに、目を見張った。
「皆さん、とてもよくして下さいます。特に、太皇太后さまは、本当にお優しくて、人の心のわかるお方でいらっしゃいます」
「ふうん。なら、いいんだけど」
「太皇太后さまのことや、お仕えする人たちのことを、よく言わない人たちがいることは、私も聞き及んでいます……」
かつて、一条天皇の中宮として、藤原道隆の娘・定子と、道隆の弟である道長の娘・彰子の二人が、同時に立った。
定子と彰子。従姉妹同士にあたる、二人の中宮。
二人の中宮が、というより、中宮たちにお仕えする女房たちは、何事につけ、競い合っていた。
彼女達は、それぞれが仕える女主人の「格」をあげるべき存在だった。後宮は、いろいろな才能をもつ女房たちで、いっぱいだった。そこはさながら、中宮主催の、芸術サロンとでもいうべき場所になっていた。
いずれも、父親の道隆や道長が、競って集めてきた、才媛たちである。
プライドの高さは、想像に難くない。
結局、定子の父・道隆は早くに亡くなり、政治の実権は、道隆の息子達にではなく、弟・道長に移った。
少し遅れて、定子は産褥で死去。
女の戦いは、彰子側の勝利と終わった。
しかし都では、彰子や、その女房達の評判は、あまり良くない。
二度目の出産で亡くなった、中宮定子をいたむ声は、未だに、都にうずまいている。
定子の生んだ、第一皇子・敦康親王をさしおいて、彰子の生んだ後一条天皇が即位しているのだから、弱い者をかばう習性のある都の人々に、彰子の評判は、すこぶる悪い。
当然、彰子に仕える女房たちの噂話も、それはそれは、悪意に満ちている。
もちろん、大変な権力を持つ彰子太皇太后のことであるから、表だってと悪口を言ったりはしないのだが。
「でも、彰子さまは、亡くなられた定子さまの皇子・敦康親王さまを、引き取って育てられたのですよ。即位の件も、ご自分のお子さまがあられたにもかかわらず、ぜひ、敦康親王さまを、と、それはそれは熱心に、お父上を説き伏せていらっしゃいました。その願いが叶えられず、ご自身のお産みになった敦成親王が即位された時は、一時、お父上の道長さまと険悪な仲になられたくらいです」
漂の君としては珍しく、口を尖らせ、激しい口調で言ってのけた。
道長は、天下を取るための最後の布石、天皇の外祖父になりたかったのだ。
その為、どうしても実の娘・彰子の産んだ子を天皇として立てる必要がある。
定子の産んだ皇子が即位すれば、亡兄の孫が天皇になってしまう。
だから、半ば強引に、彰子の産んだ皇子を天皇に立てた。
それくらいの事情は、沙醐もわきまえていた。
そして、世の習いで、なんとなく、今は亡き中宮定子を気の毒に思っていた。
だから、生きて実権を握った太皇太后・彰子の元で働く漂の君の身の上を案じていたのだ。
しかし、漂の君が太皇太后を援護する口ぶりからすると、雇い主である太皇太后・彰子に、深く心酔しているのだろう。
それならそれでいい。
一睡の「女のイジワル」は、大事な生き須玉を手放すことを強要された、やっかみだったのだろう。
沙醐は頷いて、歩き出した。
しばらくは、二人とも、無言だった。
「沙醐さまは、恋をしたことがおあり?」
不意に、漂の君が尋ねてきた。
「……」
恋、ねえ。
咄嗟に、答えられなかった。
「私は、確かに、生きていると感じたいのです」
そういう漂の君の声は、はっとするほど真っ直ぐだった。
「そう思うようになったのは、沙醐さま、あなたのお陰です。あなたと、蛍邸の皆さま……生霊となったおぞましいこの身を、疎むことなく、まるごと受け容れて下さった、みなさま方のお陰」
吹っ切れたような、笑顔だった。
幸せになって欲しい、心の底から、沙醐は思った。
風情もなく秋の草が繁茂する蛍邸に帰り着くと、中から、凄まじい、男の泣き声が聞こえた。
「な、何事!」
思わず叫ぶと、一睡が、まろび出てきた。
「師直だよ。師直が来てるんだ」
「師直さまが? でも、なんで泣いてらっしゃるの?」
「ふられたらしいよ。男はあまた、とか何とか、そういう意味の歌が送り返されてきたそうだ。しかも、百合根経由で」
「では、漂の君には、百合根さまの代作と見抜かれていたわけですね」
あるいはそれが敗因だったか。
だが、つい今しがた、漂の君自身の口から、燃えるような恋がしたいと、聞かされたばかりではないか。
それなのに、初めての文を見ただけで、こうもずばりと断ってくるものだろうか。
「……それは、師直以外の相手と、ということじゃない?」
話を聞いた一睡は、眉をしかめた。
「師直からの文で、あら、私って意外ともてるんだぁ、なんて自信を持っちゃって、だったら、こんなショボイ男じゃなくて、もっといい男を漁りにいくぞぉーって、きっと、そう思ったに違いない。女は、怖いね」
「そうきますか」
「間違いない」
子どものくせに、なかなか女心に詳しいではないか。
「まあ、私も、あの師直さまでは、ちょっと、その、月とすっぽん、と申しますか……」
「捨石だね」
一睡が短く言い捨て、勝手にまとめた。
「でも、とにもかくにも、これで漂の君が、誰からも愛されないなんていうおかしな妄想から解放されたんだから、師直の行いにもそれなりに意味があったということだ」
それは全くその通り。
沙醐も、思わず深く頷いてしまうのだった。
「それで、師直さまは、今?」
「百合根が相手をしている」
「それにしても、文を見ただけで、速攻断ってくるなんて、百合根さまも、いったい、どのような歌を贈られたのでしょうか」
「百合根は、何でも古臭いからなあ。ともに白髪の生えるまで、とかなんとか、やっちゃったんじゃないの?」
なるほど、ともに白髪の生えるまで、燃えるような恋、というのは、少々きつい気がする。
何にしても、男の愁嘆場に行き会うのは、真っ平だ。
迦具夜姫の局に行って、使いの品を届けようか、それとも、カワ姫の所で、新種の虫でも見せてもらおうかと逡巡していると、物凄い足音がした。
廊下は、まっすぐだ。
逃げ隠れする場所はなかった。
「沙醐どの~」
しかし、沙醐の反射神経は、というより、防御反応は、確実に進化していた。
脳で考えるより速く、脊髄で反応した。
沙醐は、慰めを求めて抱きついてきた師直の体を、どう、とばかりに、投げ飛ばしていた。