虫愛ずる姫 ― その5
「大丈夫? 帰れる?」
夜になり、人の往来もなくなった頃、沙醐は庭に降り、漂の君の生霊にそっと問いかけた。
美しい生霊は、儚げに頷きながら、ゆっくりと舞い上がった。
「心細かったら、いつまでもここにいていいのだぞ!」
一睡が未練がましくその裾に手を伸ばす。
「でも、あまり長いこと魂が離れていると、体が弱ってしまうと、おっしゃったじゃないですか」
「まあ、そうだけど」
「では、行かせてあげることです」
「大皇太后の御所は、女のイジワルが激しいと聞くぞ。亡くなった定子さまのところと違って」
一睡がしたり顔で言う。
後宮や貴人の住まいでの、女房間の嫉妬については、下々の者の間でも、広く噂になっている。
身分もプライドも高い女たちを一箇所に集めて押し込んでおいたらどうなるか、簡単に想像がつく。
「あなた、イジメられているの」
既に漂の君は、一条の光の束になっていた。その光が僅かに揺らいだような気が、沙醐にはした。
光は、ゆっくりと沙醐の頭上で旋廻し、それから、思い定めたように、御所の方角めがけて、一直線に飛んでいった。
「かわいそうに、自分に自信がなければ、御所での生活は、さぞかし辛かろうのう」
いつの間にか、カワ姫が、そっと階を下りてきて、ささやいた。
「女の嫉妬ほど、愚かしく、恐ろしいものは、ない」
女の嫉妬とは全く無縁そうなカワ姫の口から出た言葉に、沙醐は驚いた。
「よくそのようなことをご存知ですね」
「妾も、女の端くれじゃ。いろいろ苦労もしておる」
「はあ」
いまひとつ、ぴんとこなかった。
「ああ、あ、行っちゃったよ」
一睡がつぶやいて、がっくりと肩を落とした。
「マロはもう、寝る」
悄然と、邸の方へ去っていった。
「時に、迦具夜さまは?」
カワ姫が答えようとしたその時、透垣の辺りで、がさごそと物音がした。
「カワ殿、カワ殿」
忍ぶような声が呼んでいる。
「おお、権少尉殿」
カワ姫が呼びかけると、何のまじないか、烏帽子の真上に、木の葉を一枚乗せた、身なり卑しからぬ男が現れた。
確かに、身なりは卑しくないのだが、その男は、あまりに小男で、あまりに貧相でありすぎた。
「迦具夜姫には、目通りかなわぬか?」
自分の容姿もわきまえず、男は言った。
「さあ、今夜は、方違えゆえ……」
カワ姫は言葉を濁す。
方違えとは、方位が悪いと言うことで、居所を変えることを言う。
そんな話は聞いていなかったので、沙醐は驚いた。
権少尉と呼ばれた男は言った。
「先日は不浄の日、その前は、朝から牛の糞を見たとかで物忌み、いったいいつになったら、姫は、私と会って下さるのだろう」
「少尉殿も、間がお悪い……」
「わしには、もう、時間がないのじゃ。神無月に入ったら、肥後の国に派遣されてしまう……」
「それはまた、急な話」
「かの国でたちの悪い窃盗団が大暴れをしているとかで、その追捕使としてじゃ。いや、左遷ではないぞ。無事に帰ってこられれば、検非違使の長官も夢ではなかろう。きっと、多分」
「無事に帰って来られたらね」
「え? 何か言われたか?」
「いえ、何も」
「わしは、是非、迦具夜姫に、一緒に来て欲しいのじゃ」
それは無理なんじゃないかい? 沙醐は心の中で突っ込みを入れた。
あの、人間離れした美しさを誇る迦具夜姫が、このようなさえない小男について、あっさりと都を離れるわけがない。
少尉は、長々とため息をついた。
「なあ、わしは、姫の出された難題をクリアしたのではなかったか……」
「少尉殿は、頑張られましたものね」
「もともと、法律を研究する明法道の出だったにもかかわらず、迦具夜姫に説得され、必死に武芸に励み、ついに今年の除目の折に、検非違使庁の少尉に任命されたと言うのに。ああ、それなのに、姫はつれなく……。親に逆らい道に背いたのも、みな姫の為だというのに……」
「少尉殿は、本当に、よくやられました」
「おお。わかっていただけるか!」
「ええ、この都で、少尉殿のご努力を知らぬ者はありませぬ」
「あの、迦具夜姫を除いて、じゃ」
少尉は、苦いものを口に含んだかのように言い捨てた。
「そして、その迦具夜姫に、一番、わかってほしいのじゃ」
「何分、変化の人ですからね。普通と違うんです」
「そうじゃ。あのように美しい、神々しいまでに光り輝く女は、他に二人とはいまい。まして、わが赴くべき肥後の地には……」
堪え切れず、少尉は両目を拭った。
「なあ、カワ姫。迦具夜の姫君に伝えてくれ。わしは、そなたを愛しておる。いつまでも待っておる。たとえ、ひとりむなしく、肥後の里へ落ちて行こうとも、わしの姫への愛は、永遠じゃ」
言葉だけ聞けば、確かに感動的だった。
いや、何分夜間ではあったし、この場に迦具夜姫がいたのなら、一抹の感動を覚えることもあったかもしれぬ。
この男が、もう少し、背が高かったら。
顔立ちが、もう少し貧相でなかったら。
平安朝の夢見る少女、沙醐が思い描く、貴公子としては、この権少尉という男は、少し、いや、かなり、小柄で地味すぎたのである。
これでは、時代を超えた絶世の美女、迦具夜姫には吊り合わない。
「ええ、ええ、少尉殿の真心はお伝えしますとも。その心情に胸打たれない女など、この平安京にはおりますまい……あの、迦具夜を除いて」
「おお! ありがとう! ありがとう、カワ殿」
カワ姫の最後の言葉は、少尉には聞こえなかったようだ。
「これで安心して、肥後の国に落ちていかれようぞ。いつの日か、必ず、迦具夜姫が後を追ってきてくれると信じて」
「お気をつけて。道中、ご無事を祈ります」
「ありがとう! ありがとう!」
勢いがついたのか、少尉は、カワ姫に抱きつこうとして近寄り、月明かりに間近にその顔を覗き込み、ぎょっとして飛び下がった。
「いや、お頼み申しますぞ。カワ姫。今は、そなただけが、心の頼りじゃ」
取り繕ったように言う。カワ姫は、薄ら笑いを浮かべていた。
「もし、少尉殿。イワナガ姫の昔語りをご存知か?」
去りかけた背中に、カワ姫が問いかける。
その昔、イワナガ姫とコノハナサクヤ姫の姉妹を送られた天皇家の先祖は、美しいコノハナサクヤ姫だけを手元に留めて、醜い姉のイワナガ姫を、父の元へと送り返した。
その為、天皇家は、花のように栄えはするが命はかなく、岩のように永遠であることはできなくなったという。
少尉は、はた、と立ち止まった。
「いや。わしは、カワ姫を信頼しておる」
背を向けたまま、いやに分別臭くそう言うと、彼は立ち去っていった。
「なーにが、信頼しておる、だか」
憤懣やるかたなく、沙醐が言う。
「随分失礼な男ですね」
「大方、妾のこの長い眉が、伸びきった鼻の下でもくすぐったのであろう。いや、男なんてみんな、あんなものよ。お前も、虚しい希望は抱かぬがよいぞよ」
カワ姫は、少しも気にしている気配がない。
自覚があるのなら、眉を剃ればいいのにと、沙醐は思った。
「約束しちゃったけど、いいんですか? あんな小男の言うことを取り継いだら、迦具夜姫は怒るんじゃないですか?」
「あの女は、どうせ、妾の言うことなぞ聞きゃ、しないのだから、取り継いだりはせぬ」
「え、じゃあ、約束なんてしなければいいのに」
それはちょっと気の毒かも、と沙醐は思った。
「言っても言わなくても、同じだから、言わぬのじゃ。結果が同じなのだから、約束など、あまり関係がないの」
悟ったように、カワ姫が言った。
そういうものかもしれぬと思える自分が、沙醐には怖かった。
「ところで、他の皆さまは、方違えをなさらなくてよろしいんですか?」
「方違え? 何のことじゃ」
「え? 迦具夜姫さまは、方違えなさったと……」
「ああ、あれか。嘘も方便、なに、どうせ、いつもの夜遊びよ」
「えっ!」
「あの小男が任地へ行くので、スペアを補充しておるのじゃろ。全く、おサカンなことじゃ」
「……」
もう、何をか言わん、だ。
カワ姫が、苦々しげに口をすぼめた。
「迦具夜は、病んでおる。それも、ひどくフクザツに」
「はあ」
「一見、美貌であるからして、黙っていても男どもが、わんさと寄ってくる。それを、じらしてじらして、最後に、うんと残酷な方法でふるのが、あやつの一番の娯楽でな」
困ったものだというように、カワ姫は、肩をすくめた。
「カワ姫さまは、そのようなやり方は、よろしくないと? 殿方がお嫌いと承りましたが?」
「人としてどうかと思うのじゃ。期待を持たせて、裏切るというのは」
それから、ふっ、と息を吐いた。
「今日、竹取りの翁の話が出たが、妾の親さまも、気味の悪い虫ばかり愛でてないで、せめて蝶にせよ、とか何とか、それはそれはうるさかった。しまいには、鬼と女とは人に見えない方がいいのだ、とか言い出して、妾は、簾の陰に隠してしまったものよ」
苦笑いをする。
「じゃがそれも、子を思う親心。虫を愛ずるという行いは、とかく世間から異なものと、糾弾されやすい。しかし、実際に見た人さえいなければ、口さがない噂と誤魔化すことができるからな」
「それって、幽閉されたのでは?」
「まあ、やり方としてはどうかと思うがな。しかし、妾が虫を飼うのを、無理やり止めさせようとは、決して、なさらなかったよ。あの子には、何か、考えがあるのだろう、と、ご自分にいい聞かせておられた」
「……」
「親というものは、どうしたって、子どものことを思うものなのだよ。方法が誤っていたり、力余って、迷惑な方向へ突っ走ったりすることはあるけれども」
しみじみとカワ姫は言った。
「しかし、あの、漂の君の親御さまは……」
「花山院じゃろ。問題の多い御仁であった」
カワ姫は、ため息をついた。
「天皇として在位の間も、高貴な姫をとっかえひっかえ、それも、一端寵愛するとなると、周囲のものが、もう、恥ずかしくなるほど猛烈に通いつめるのだが、すぐに飽きて捨ててしまう」
「はあ」
「その上、自分の乳母の娘にも、手を出したのだぞ。乳母の子といったら、同じ乳を飲んで一緒に育ったわけだから、きょうだいも同様。しかも、そのきょうだい同様の女が、他の男との間に産んだ娘にまで手をつけたのだから……出家の身で」
「すると、母と娘に、手をおつけになったわけで?」
「うむ。それもほぼ同時に、じゃ。母・中務は女の子を二人生んだが、このうちの一人だけは、どういうわけか、民間に里子に出してしまった。それが、あの漂の君だ」
「……」
高貴な人の子とは聞いていたが、そのような父親だったとは。
楚々として悲しげだった漂の君が、一層、気の毒に思えてくる。
親の因果が子に報う必要は、全然ないのに。
「まあ、女好きは、病気だから仕方がないとしても、自分の家の前を通りかかった貴人の行列に投石させたり、自宅を検非違使に包囲されたり」
検非違使というのは、治安を守る警察のことであるから、花山院は、何か、悪いことをしたのだろうか。
「藤原伊周に、矢を射掛けられたのは、ヌシも、知っているだろう?」
「はあ、なんとなく」
叔父の道長に政権を奪われ、今は語る人もいなくなってしまったが、藤原伊周は、かつて政権の中枢に食い込んでいた貴公子だった。
って、そんな、生まれる前の話をされたって……。
「頼りないな。弓を射たのは、花山院に女を盗られたと勘違いした伊周の早とちりだったらしいのだが、ほれ、ここでも女、よ。その後、双方の従者が入り乱れての大乱闘。死者も出たらしいぞ」
「はあぁぁぁぁ」
「なんだ、そのため息は」
「私の想像していた、平安貴族と、えらく印象が違いますもので」
「貴族など、ならず者集団に過ぎぬ」
吐き出すように、カワ姫は言った。
「平安とは名ばかりの、この世の中が、なんとも生きにくいのは、みな、松と藤のせいじゃ。松に絡んだ藤の、強烈な嫉妬と妄執の所産よ。我らは……」
はっと気づいたように口をつぐんだ。
「いや、これは、話すべきことではなかった。……沙醐?」
歴史の話が難しすぎたのか、沙醐は、こっくりこっくり、舟を漕いでいた。