蛍邸 ― その10
「さてと。もう少し先までいってみませんかな」
再び師直に肩を貸し、立派な庭園の中をよろよろと歩く。
「師直殿は、どの木がお好きですかな。やはり、桜でしょうか」
「桜の花は、私には派手過ぎます。いつの間にやら盛りを迎え、地味に長く咲く、桃の花が好きですね」
「長く」は、「百歳」など、「桃」と同じ読みをする「百」を踏まえている。
これまた、雅な表現である。
沙醐は、再び感心する。
それにしても、師直の体は、重い。柔らかくて、捉えどころがない。もう少し、鍛えた方がいいのではないか。
「なるほど、桃の方が大きくてうまいですしね」
一睡が、見当外れの感想を、述べた。
師直は足をもつれさせ、なかなか前へ進めない。
身軽な一睡はどんどん先に行ってしまった。
「庭を歩くのは、久しぶりです」
息を切らせながら師直が言う。
「はあ」
いらいらしながら沙醐は答えた。
師直の体臭がきついのだ。息が切れているのに、思い切り呼吸するのがためらわれる。
だいたい、女の肩を借りなければ歩けないなんて、ちょっと、まずいんじゃないか。そう言いたかった。
しかし、身分が高く、教養豊かな貴公子に、そのような野卑な暴言は許されよう筈もない。
「あなたとは、どうも、初めて会った気がしない」
「ばっちり、初対面です」
短く沙醐は答えた。
沙醐の知り合いの中には、体の具合が悪いわけでもないのに、一人で歩けないような、なよなよとした男はいない。
「あなたは、なにか、とても懐かしい……」
師直が言いかけた時、
「おおい、こっち、こっち」
一睡が呼んでいる。
見ると、桃の木の下に座り込んで、みずみずしい果実にかぶりついている。
「ほほう、見つけなさいましたか」
微笑を含んで師直が言う。
「水蜜桃ですな」
「水蜜桃です」
師直と一睡は微笑みを交わす。
重い荷物をここまで担いできて、沙醐は、喉が渇いていた。
一睡の食べている桃から目が離せない。
「師直殿、ここに縄が吊ってあります。ここにお首を差し入れられたら、下賎の者の肩にすがらなくても、よろしうございますよ」
誰が下賎の者だよ。沙醐は心の中で毒づいた。
「おお、ごくろうさんだったねえ」
師直は素直に、垂れ下がった丸い輪の中に首を掛けようとするが、少し高すぎる。
「ほら、この桶の上に乗って」
どこから拾ってきたのか、一睡が、丸い桶を逆さにして差し出す。
「何から何まですまないねえ。どれ、どっこい、しょ、っと」
師直は桶によじ登り、縄に首を差し入れた。
その時、一睡が、桶を蹴飛ばした。
縄がぐっとしまる。
「うぐっ、ぐぐぐっ」
師直の顔がみるみる紅潮していく。
「ひえぇぇぇー! 一睡さま、何を……」
考えるより先に、体が反応していた。
沙醐は慌てて師直の体を下から抱き上げ、首に掛った縄をたるませた。
「ほら、首をお出しなさい!」
師直は両手をばたばたさせる。
暴れられると、沙醐は、腕がちぎれそうだ。
「そうじゃないの、首から縄を外すのよ、あんたの両手は自由なんだから!」
もはや身分どころではない。沙醐はどなりつけた。
ようやく、師直が首に巻きついた縄を外した。
沙醐は力を抜いた。
火事場の馬鹿力を出し切ってしまったのだ。
支えを失って、師直の体が、どさりと地面に落ちた。
「うっ。腰が……」
「腰くらいなんなのよ……」
危うく死ぬところだったではないか。
「そうだぞ、沙醐、乱暴だぞ」
一睡がはやし立てる。
「乱暴ってねー!」
沙醐は、一睡を睨みつける。その手に、短刀が握られているのを見て、ぎょっとした。
一睡は、素早く身を躍らせ、倒れている師直の首筋に短刀を突きつけた。
「どうも今日は仕損じる。師直殿、あいすまぬのう、手際が悪くて」
状況がわかっているのかいないのか、師直は、目を白黒させているばかりだ。
「実を申すとな、マロは、血が出るやり方が、一番好きなんだ。沙醐、お前は、初めて見るんだろ?」
「一睡さま、何を申されます!」
もはや、何が何だか、わけがわからない。ナントカに刃物というやつだ。とにかく、なだめなければ、と思った。
「この辺りを切るとね、血が、それはそれは激しく飛び散るんだ。なんといったらいいか、まるで、抑えられていた流れが、一気に開放され、喜び躍り出るよう。身の丈くらいは、軽く飛ぶよ。赤くてね、それはそれは赤くて……」
師直の首筋を、うっとりとした目で見据え、一睡が言った。
妖しい目つきに変わっている。
「一睡さま、刃物はなりませぬ。ほら、血は、お着物が汚れます」
自分でも、妙な言い草だと思ったが、異常事態にフリーズしてしまって頭が働かないのだから、仕方がない。
「心配は要らないよ。百合根が洗ってくれるから」
「って、そういう問題じゃありません!」
「フヒーィ、沙醐とやら、助けてたも」
今頃我に返ったのか、師直が哀れな声で助けを求める。
「ほら、師直さまが、助けてくれって」
「血が噴き出すやり方は、好みじゃない?」
一睡が心外そうに首を振った。
「あの噴き出す血の優美さは、雨上がりの虹の架け橋にも似て、一瞬の生命の美の極致というか……」
その後に残るのは骸でしかないというのに、生命の美の極致はないものだ。
沙醐は呆れた。
「師直さま、ほら、なんとかおっしゃって!」
「た、助けて……」
「では、他の方法を考えようか」
一睡は、短刀を鞘に収めた。
沙醐は素早くそれをひったくった。
「あ、何をする……」
「こんなものを、子どもが持つもんじゃありません」
「マロをコドモ扱いしたな!」
「だって、コドモじゃありませんか」
「マロがコドモなんじゃない、そなたが、ババァなんだ」
「ババァですって!」
沙醐は柳眉を逆立てる。
「ま、迦具夜やカワよりは若いかもしれないけど」
「た、助かった……」
首をもたげたが、腹筋が足らず、師直は、起き上がることができない。
あいかわらず、地面に横たわったまま、じたばたしている。
「池や木に掛けた縄とか、さっきからずっと、この人を、殺そうとしてません?」
沙醐は問いただした。
「あれ、気がついてた?」
「気がつかないわけ、ないじゃないですか」
「そんなにロコツだった?」
「わ、わしを、殺そうと……」
師直が、か細い悲鳴を上げる。
「あんた、何か殺されるようなこと、したの」
「なにも……」
「コヤツは、悪いことのできるタマじゃないよ」
ひとごとのように一睡が言う。
「で、投身と首吊りは失敗、流血もダメ、そうすると、残りの選択肢はあまりないねえ。師直殿、どうする?」
「た、助けて……」
「助けてって、言ってますよ」
「助けてとは、人聞きが悪い。コヤツが死にたいと本音で語ったからこそ、マロは、手助けしようとしているのに」
「嘘。この人、死にたくないみたいじゃありませんか」
現に今、助けを求めている。
「嘘ではない。ゆうべ、糺の森で出会った時、確かにそう言ってた」
「ゆうべ……。糺の森……」
「そう。あんた、生霊になって、さ迷っていたじゃないか。とても辛い恋をした。叶う望みはない。もはや、生きていたくない、と、言ったんじゃないか」
「……」
師直は黙り込んだ。
沙醐は、はっと思い当たった。
「すると、さきほどの、あの、白い玉……イキスダマの主は……」
「そう。橘師直、こいつだよ」