『vs早瀬美香②』
目を開くと、目の前には早瀬の顔があった。気付くと俺達は抱き合うような形で倒れていた。この場面で言うのは何だが、近くで見た早瀬はやっぱり可愛かった。
早瀬は目を丸くして「え? え?」と困惑している。
しかしそれは、それは「きゃああああああ」という悲鳴に変わった。
「な、なな、何触ってんのよ! 変態! 離しなさいよ!」
必死にもがく早瀬。俺も不本意ながらに起ったこの状態にかなり焦っていた。
だが、ここで離すわけにはいかない。もちろん、やましい気持ちがあるからとか、そういうわけではない。離してしまえばまた彼女に逃げられてしまうからだ。
もがく早瀬を抑えながら、俺はスリについての追求を始めた。
「お前、今朝電車でサラリーマンから財布盗ったな?」
「な、何であんたがそれを?」
怪訝な表情をして睨んでくるが、思い出したように「あっ」と声を漏らす。
「あ、あんた今朝私を捕まえようとした奴……! こんなとこまで来るなんてどういうつもり!」
「どうもこうもない、俺はここの生徒だからな」
「チッ、あんたには関係ないでしょ! それより離して! 離しなさい!」
離すものか。俺の話はまだ終わっていない。
「神前の財布を盗んだな?」
「かみまえ? ああ、さっきの……。まさか、あの女の知り合いなの?」
「神前は俺と同じ風紀委員の仲間だ。困ってる仲間もお前の悪事も見過ごしはしない」
「よりによって風紀委員に捕まるなんて……」
早瀬は分が悪そうに下唇を噛む。
「交換条件だ。俺は今、お前の生徒手帳を預かっている。だから、それを返す代わりにお前は奪った財布を二つとも返すんだ。あと、スリなんてもうするな」
冷静な口調でありながらも、怒りのこもった真剣な目で早瀬の目をしっかり見る。
しかし、早瀬は舌打ちをし、キッと睨み返してくる。
「うるさいっ! あんたに私の何がわかるのよ! 人の事情も知らないで! 私だって好きでこんな事してるわけじゃないのよ!」
「んなっ……!」
突如怒鳴りつけてくる早瀬、だが、そんなことで俺は怯まない。
「ああ、確かにお前の事情はよく知らない。だからって、スリしていいなんて理由にはならないだろ? 違うか?」
「私は……」
「私は、こうでもしなきゃ生きていけないのよ!」
彼女の思わぬ発言に、俺は動揺し口を紡ぐ。
しばしの沈黙を生んだ。
彼女の悩みは、俺が思っている以上に複雑なものかもしれない。
俺が割り込んでいいような、安易なものではないかもしれない。
それでも、その理由が何であろうと、やはり俺は学園で起きる悪事を許す事ができなかった。
「ダメだ、それでも不正は見逃せない。それが風紀委員としての俺の誇りだ。俺はなんとしてでも、お前にスリを止めさせたい」
切実な思いを告げる。俺は頑固だ。自分の信じる道は曲げられない、どうしようもない頑固だ。どんな事情かはわからないが、苦しんでいる彼女にこんなこと言う俺は正直言って最低野郎だ。でもそれで彼女が正しい道を歩んでくれるのなら、俺は迷わずやるべき事をする。
いつの間にか、早瀬は抵抗を止め、静かになっていた。
俺は彼女を抑えていた腕の力を緩めた。
彼女は何も言わない。
ふと見ると、その目には涙があふれていた。
「それなら……それなら、あんたが私を助けてよ……」
早瀬の目からあふれ出た涙が、俺の頬へと落ちてきた。
体を小刻みに震わせ、嗚咽する早瀬。
さっきまでの威勢の良い彼女は、もうそこにはいなかった。
そこにいるのは脆く、儚く、弱々しい、普通の女の子。
きっと本当に好きで悪事を行っていたわけではないんだろう。そう思った。
『自分が正しいと思った事をしろ。ただ、いつも自分が正しいとは限らない。周りは正しいとは思わないかもしれない。それでも、自分が本当にそれが正しいと思ったのであれば、迷う必要はない。自分がやりたいようにやればいい』
昔、父さんが言った言葉だ。
小さい頃から父さんの言う事だけが正しいと信じていた俺は、この言葉の意味を深く考える事はなかった。いつも「父さんなら」とどこか心の中で呟きながら物事を見てきた。
でも、今回は違った。「父さんなら」とか、そういう事は考えなかった。ただ、目の前で泣いている少女を救いたかった。彼女を苦しめている何かを取り去ってあげたかった。それは俺の本心であり、それこそが俺にとっての正しい事だと思ったから。
迷う必要なんてなかったんだ。
もう、俺の答えは決まっていた。
助けたい。何としても。
だから、俺は彼女の目を見てゆっくり答えた
「わかった。俺がなんとかしてみせる」
それを聞いた彼女は、泣きながらも、安心したように微笑んだ。
その後、彼女、早瀬美香は自分の素性について話してくれた。
彼女の両親は彼女が中学生の時に離婚。彼女は母方に引き取られるが、母親は新しい男の家へ行ったきりほとんど戻って来る日はなく、彼女は一人ボロアパートに取り残されているという。育児放棄だ。父親から送られる養育費の管理は母親に任されているため、彼女は生きる術を自分で探さなければならないという状況らしい。悲惨な話だ。
そして、決心した俺は彼女を連れて家に帰った。父さんに事情を説明して彼女を置いてもらえないかどうか必死に頼み込んだ。急な話かもしれないが、俺にはそれくらいしか彼女を助ける方法が見つからなかった。父さんは「お前が正しいと思ったのなら、俺は何も言わない。好きなようにやれ」。そう言って、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でてくれた。
――そして数日後。
俺は風紀委員の活動部屋に向かった。
「おはよう」
「あら、おはよう」
「おはよー」
俺のおはように、神前と真夜が答えた。
そしてもう一つ。
「おはようございます!」
元気の良い、おはようが俺の後ろから顔を出す。
「あれ、その子……」
びっくりして目をパチクリする神前。真夜も「うおー」と声を上げる。
「先日は、本当に申し訳ありませんでした! 財布、お返しします!」
神前の前で勢いよく頭を下げる美香。盗んだ財布を差し出している。
「え、ええ……あの……これは一体どういうことなの? 五条君……」
「ちょっとわけあってな。詳しい事はまた今度話すよ。多分こいつ、今度から風紀委員に入る事になるから、その時はよろしくな」
「え、新しく入るの? よろしくー!」と美香に飛びつく真夜。
状況が理解できず、我ここにあらずと言わんばかりに茫然としている神前。
自分より小さい上級生に飛びつかれテンパってる美香。
そしてそれを満面の笑みで見る俺。
こうして俺の委員長としての初めての大仕事は無事解決した。思っていた以上にハードな仕事だったけど、その達成感は大きい。やっぱり、風紀委員は最高だ!