Side#002 乙葉家の日常
あやかしは、存在する。
どれほど街が広がっても、コンクリートが土を覆っても、大気が黒く濁っても、人間が月まで旅をしても、あやかしたちは、街にも、山にも、空にも、海にも、どこにでも、隠れもせず、人間のすぐそばにいるのだ。
そして、ここにも。
でかいのが一匹。
縁側の、この家で一番陽当たりのよいこの場所に、長々と身体を伸べ、惰眠をむさぼっている。
古くから妖怪退治屋として、世の中から少し外れた場所で商売をしてきたこの乙葉家に、堂々と居座るこのあやかしは、齢五百歳、白狐の姿を持つ大妖だ。
名を、焔という。
どこかの山神の血を引くという焔が、なぜあやかしとなったのか。理由は誰も知らない。この家に来た経緯も、ぼくは知らない。気づいたら、いた。それこそ、ぼくが母親のお腹の中にいたころから、ここにいたらしい。
この事実は、実は、近頃、知ったばかりだ。
焔の記憶をみたのだ。
ぼくも乙葉の家の血を継いでいるので、妖怪退治屋の力がある。実は、公にはされていないけれど、政府の専門機関があって、そこに登録されているのだ。国家公安委員会第十一特別外局、通称「イレブン」人に害をなすあやかしを処理するための特殊機関だ。そこで働く人々は士と呼ばれる。ぼくの家族は、父も母も祖母も、みな、士としてイレブンで働いている。
ぼくはこの秋、イレブンから初めてのミッションをもらった。興奮していた。父のように、母のように、祖母のように、かっこいいイレブンの士になりたい。そう願った。
そして、失敗した。
そのごたごたの真っ直中、ぼくは焔の記憶をみた。
お腹の大きな母のそばに、ぴったりと張り付いて、片時も離れなかった。焔の視線は、常に母に向けられ、大きく白い身体は、どんな些細なことからも母を庇うように、準備されていた。
まるで番犬だ。
ただし、本人には、いえない。
焔は、犬が大嫌いなのだ。
犬猿の仲というが、犬と狐も仲が悪いらしい。かつて、人を喰らったこともあるという焔が、犬をみると、一瞬、びりっと硬直するのだ。平気な顔で通り過ぎようとしているけれど、顔が引きつっているし、焔の周りには電気の層ができたみたいで、触れるとビリビリする。きっと、犬に咬まれたことがあるんだろう。そんなとき、ぼくは知らんぷりをしてあげる。
いい関係だ。
身重の母を守り通し、そしていま、焔はぼくのそばにいる。
ぼくが生まれてから十三年という時間を、朝から晩まで、それこそ寝ている間も、一緒に過ごしてきた。
ぼくと街を歩くときには、焔は人型をとる。あやかしは普段、人の目にはみえないが、妖術を操る焔は、そのあたり、自由自在だ。焔が好んで取る姿は、どこで覚えてきたんだか、ストリート系。よれよれ穴あきのジーンズ(どこで、どうやって買ってくるのかは不明)に洗いざらしのTシャツ。銀の腕輪に、ちょっと長めの茶髪。どっからみても高校生のにいちゃんだ。とてつもない年齢詐欺だけど、一緒に歩いていると、まあ、兄弟といえなくもない。
でも、それだけじゃ足りない。
ぼくにとって焔は、たぶん、兄以上の存在なんだろうと、思う。
秋の午後の陽を含み、ふさふさした毛が、金に銀に輝く。
ぼくはそっとその毛に触れた。
柔らかい。
どっかの白戸家のお父さんみたいに真っ白だけど、もっと長くて、指に絡みついてくる。小さな風にも、ふわりと揺れる。
目の前に焔がいる。
いまのぼくにとっては、もうそれだけでいい。
胸の奥にこみ上げるこの想いは、きっと言葉にはできない。言葉なんかにはならない。
最初のミッションで、ぼくは一度、焔を失ったのだ。焔を上回る力を持ったあやかしを抑えるために、焔はすべての力を注がなければならなかった。すべてが終わったあと、ただの紫のガラス玉だけが、そこに残っていた。
消えてしまったと思った。
ぼくの力が足りないせいで、誰も助けることができないばかりか、焔までも失ったと思った。
あれから一ヶ月が経つ。
焔は以前の姿を取り戻し、いまぼくの隣で、悠々と残り少ない秋の陽を楽しんでいる。けれどぼくの身体は、どこか壊れたままだ。あのとき開いた大きな穴が、ふさがりきらずに残っている。そこに灯る一つの炎。
あやかしと深く関わり、すべてを亡くした人がいた。
どれほど助けたくても、助けられなかった人たちがいた。
大切な誰かを失ったときの、炎を知った。
もう二度と、なくしたくない。
焔。
その首筋に顔を埋める。長い毛が肌に触れる。
太陽のにおいがした。
そして、森のにおいがした。
焔のにおいだ。
絶対に放したくない、ぼくだけのにおいだ。
焔の大きな三角の耳が、ぴくんと揺れる。銀の輪が二つ、ぶつかり合って、かちんと澄んだ音をたてた。
「んー」
くぐもった声が、耳まで避けた大きな口から漏れてくる。
「あ、起きちゃった?」
「んだよ、邪魔すんなよ。人が気持ちよく寝てるっていうのに」
「人じゃないでしょ。人喰いでしょ」
「バカ、もう人は喰わねえっていってんだろうが。そんなに喰ってほしいのかよ・・・って、旭、どうした?」
まだ焔の毛にしがみついたままのぼくに、焔が問うてくる。ほんのちょっとだけ、焔の声のトーンが変わる。優しい白い色になる。
「なんでもない」
「まだ考えてんのか。真之介といづなのこと」
その名をきくと、零れ出す。何度も何度も泣いたのに、また泣き出してしまいそうになる。
「忘れられるわけないよ。ぼくは、忘れちゃいけないんだ」
「旭」
焔が顔をよじり、ぼくに近づけてくる。長いひげが、額に触れる。くすぐったい。
「もう終わったんだ。忘れるなとはいわないけど、あとは真之介の問題だ。おまえの問題じゃない。おまえはおまえのことだけ、考えてろ。真之介とまた会ったとき、ちゃんと笑えるように顔の筋肉、鍛えておけよ。しけたツラみせたら、まじ喰うよ、おれ」
よくやった。がんばった。おまえは悪くない。そんな甘ったるい言葉は一つもないけれど、焔の言葉はぼくによく効く。
ぼくが前を向くための力をくれる。
焔の尾が、ぼくを抱くように触れた。
「旭! 焔!」
「ぎゃっ!」
繊細なガラス細工なら、一瞬で粉々になるだろう鋭い声が、ぼくたちの名を呼んだ。焔がびくんと起き上がる。ぼくはその反動で転がった。
パシン。
鋭い音とともに、縁側に面した障子が開く。
そこに仁王立ちの祖母がいた。今日もきりりと結い上げた一糸乱れぬ髪型がきまってる。黒いスーツは、十三歳の孫がいるようにはみえないすらりとした体型を際だたせる。いつみてもかっこいいバリバリの仕事人だ。
「あ、おばあちゃん、お帰りなさい。早かったんだね」
転げた拍子に柱にぶつけた膝をさすりながら、祖母を見上げた。
「あなたたちは、片付けもできないのですかっ!」
「ひっ!」
「プリン食べっぱなし!」
プリンは焔の大好物だ。とくにコンビニで売っているチープなやつが好きなのだ。
「本が散らばっている!」
本も焔の趣味だ。ノンフィクションは嫌いで、フィクション、特に歴史物とファンタジー系を好む。
「テレビとゲームはつきっぱなし!」
テレビゲームはぼくのだ。いまはまっているのは、白い犬が主人公で、走ったり飛び上がったりするのが気持ちがいいRPGだ。ちなみに焔は犬が嫌いなので、このゲームはしない。
どうやら、祖母はぼくと焔が散らかしまくった居間をみてしまったらしい。
「アレ、くるよ」
焔に囁く。
おばあちゃん必殺「お座りなさい」だ。ぼくたちがいうことをきかなかったり、部屋を汚して片付けなかったりすると、しつけに厳しい祖母の怒りが飛んでくるのだ。一度、正座させられたら最後、そのまま延々と説教をくらうことになる。
「やばいぜ、どうにかしろよ、旭」
「焔の方が散らし率高いんじゃないの? っていうか焔も人型で正座してよ。ずるいよその体勢」
犬がお座りしているみたいに座ってるだけだ。そんなの不公平じゃないか。
「旭! 焔!」
びくっ。
焔が姿勢を正して座り直す。その周囲に電気の層ができる。ビリビリする。ぼくもすでに正座の体勢だ。そしてその時を待ってる。
来るぞ、もうすぐ来るぞ。
「そこにお座りなさい!」
出た!
てか、もう座ってるんだけどね・・・。
「何度いえばわかるのですかっ!」
あーあ、今日は何時間、しぼられるんだろう。晩ご飯は何時かなぁ。
などと、ぼくは祖母のお叱りをBGMにご飯の心配をしている。ちらりと焔を見上げると、その大きな耳は、しっかりと後ろへ伏せられていた。
乙葉家に、今日も祖母の説教が長々と響く。
庭や家にいる焔以外の小さなあやかしたちは、とうにどこかへ姿を隠してしまった。説教が終わるまで、怖くて出てこられないのだ。
秋の陽は、ゆっくりと一日の終わりへと近づいていく。暖かかった縁側が、急激に冷えていく。もう虫の声もしない。
もうすぐ冬が来る。
「っくしゅ」
「はっくしゅ」
ぼくと焔が同時にくしゃみをした。
「ちょっと、焔! いま、なんか飛んできた。もしかして鼻水? 汚い! 最悪!」
「最悪いうな。おれさまの鼻水にはな、尊い力が籠もっているんだよ。なんせおれは山神さまの末裔だからな。これでおまえにも運がついたぞ。ありがたく思え」
「鼻水は鼻水だよ、バカ!」
「あんだと! おれさまにバカっていう口はこれかあー」
大きな舌が、べろりんと顔を舐めた。
「ぎゃっ!」
「ぎゃってなんだ。ぎゃって」
焔の太い前足が、ぼくを突き飛ばす。ぼくの身体はあっけなく転がる。
「なにすんだよ!」
焔に体当たりして反撃する。こうなるともう、収拾はつかない。
そんなぼくらをみて、祖母がため息をついた。
「もういいわ。早く片付けなさい」
廊下の向こうへ消えた祖母をみて、とっくみあっていたぼくらはぴたりと動きを止め、にやっと笑った。
乙葉家にいつもある日常の切れ端だ。
お父さんとお母さんは、仕事で忙しいので、ときどきしか帰ってこられないけど、ぼくには、おばあちゃんがいる。
そして焔がいる。
いつだって、ずっとそばにいる。
もうあたりまえすぎて、気づかなかった。
いつもそばにある存在の大きさ。大きすぎて、抱えきれないほどの欣幸。
それを教えてくれたのは真之介だ。
胸を掴むように、両手で押さえる。
あのとき真之介がみせた炎を、ぼくは、ここにしまってある。あの痛みを、あの痛哭を、二度と忘れないように、ぼくはこれを抱え続ける。
「どうした? 旭」
変わらない紫の瞳に、ぼくはせいいっぱい、笑い返した。
(イレブンシリーズ 2nd Mission「ディアレスト」へ続く)
次は、イレブンシリーズ 2nd Mission「ディアレスト」の連載へと続きます。