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社畜の俺、伝説の元スパイと「深夜0時の退職代行」始めます。~ブラック企業からヤクザの組まで、物理と法律で「円満退社」させます~  作者: U3
【第1章】 社畜、悪魔と契約する

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第6話 Z世代の潜入工作員

 「ミャ〜」


 足元で、小さな黒い毛玉が鳴いた。

 俺、遠藤悟は、キッチンの床にしゃがみ込み、哺乳瓶に入れた猫用ミルクを差し出した。

 毛玉――もとい、一昨日拾ったばかりの黒猫は、必死な様子でゴム製の飲み口に吸い付く。その生命力溢れる姿に、俺の頬は自然と緩んだ。


「よしよし、いっぱい飲めよ」


 ブラック企業を爆破して逃走し、犯罪組織に借金680万円で再就職してから3日目。

 激動の日々の中で、この授乳タイムだけが俺の唯一の癒やしだった。


「サトルー! 朝ご飯まだー? お腹空いて死ぬー!」


 ダイニングから、アストリッドの叫び声が聞こえる。癒やしの時間は終了だ。

 俺はチビをバスケットに戻すと、ため息をついて立ち上がった。


「今行くよ! ……ったく、こっちには大きな手のかかる猫がいっぱいいるんだから」


 俺はエプロンの紐を締め直し、フライパンを火にかけた。

 今日の朝食はフレンチトーストだ。昨日の夜、裕里子が「甘いものが食べたい気分」と呟いていたのを俺は聞き逃さなかった。

 借金返済のためには、ボスの機嫌を取るのが最優先事項だ。これが社畜として培った処世術である。


 朝食後、俺たちがくつろいでいると、玄関のチャイムが鳴った。

 また依頼人か? それとも警察か?


 モニターを確認したアストリッドが、明るい声を上げた。


「あ、冬美だ! 帰ってきたよー!」


 冬美?

 聞き覚えのない名前に俺が首をかしげていると、玄関のドアが勢いよく開いた。


「ただいまー! いやー、マジで疲れたっちゃん! 死ぬかと思ったわー!」


 ドタドタとリビングに入ってきたのは、小柄な若い女性だった。

 年齢は20代前半だろうか。ツインテールに結った明るい茶髪、オーバーサイズのパーカーにミニスカートという、原宿にいそうな今時のファッション。

 だが、その手にはコンビニの袋と、なぜか高そうなボイスレコーダーが握られている。


「おかえり、冬美。今回の潜入はどうだった?」


 ソファでコーヒーを飲んでいた裕里子が、ねぎらいの言葉をかける。


「最悪でしたよ裕里子さん! あの店長、セクハラとパワハラのハイブリッドやもん! 『お尻触らせてくれたらシフト入れてやる』とか言うとよ? キモすぎて鳥肌立ったわ!」


 彼女は博多弁なまりの早口でまくし立てると、コンビニ袋からポテトチップスを取り出し、バリバリと食べ始めた。


「あ、こいつが新入りのおっさん?」


 彼女の視線が、皿洗い中の俺に向けられた。

 大きな瞳が、ジロジロと俺を値踏みする。


「おっさんって……まだ30歳だよ。遠藤悟です」

「ふーん。ウチは藤原冬美。22歳。このチームの潜入担当やってますー。よろしくね、サトル先輩」


 冬美ちゃんはニカっと笑った。リスのような愛嬌のある笑顔だ。

 だが、その目は笑っていない。どこか冷めた、観察するような光を宿している。


「で、サトル先輩。お菓子食べる?」

「あ、いや、仕事中だから」

「真面目やねー。ま、いっか。……裕里子さん、次のターゲットは?」


 冬美ちゃんは切り替えが早かった。ポテトチップスを飲み込み、裕里子に向き直る。


「次の依頼人は、デザイン事務所のアシスタントよ。午後イチで面談があるわ」

「了解。どんなブラック企業か楽しみやね」


 彼女は不敵に笑うと、ボイスレコーダーをポケットにしまい込んだ。


 午後1時。応接室。

 今回の依頼人、中野さんは、げっそりと痩せた20代の女性だった。

 目の下には濃いクマがあり、手は小刻みに震えている。


「……デザイン事務所『バベル』。そこでアシスタントをして3年になります」


 中野さんは消え入りそうな声で語り始めた。


「所長の神田先生は、業界では有名な方なんですけど……事務所の実態はひどいものです。徹夜は当たり前、残業代なんて出ませんし、気に入らないことがあると物を投げつけられて……」

「物を?」

「はい。椅子とか、灰皿とか。……先週は、カッターナイフが飛んできました」


 俺は息を飲んだ。もはや労働問題ではなく傷害事件だ。


「辞めたいと伝えたんですが、『お前みたいな無能、どこに行っても通用しない』『業界で働けないようにしてやる』と言われて……。私、怖くて……」


 中野さんが涙を拭う。

 その姿を見て、冬美ちゃんがポツリと言った。


「……ダサッ」


 え?

 俺たちが驚いて振り向くと、冬美ちゃんはスマホをいじりながらつまらなそうにしていた。


「あ、ごめん中野さん。あんたのことやなくて、その神田ってオッサンのことね。才能ないくせに若手いじめてマウント取るとか、マジでダサくない?」

「冬美、口を慎みなさい」


 裕里子がたしなめるが、冬美ちゃんは止まらない。


「だってそうでしょ? カッター投げるとか、昭和のドラマかよって話。コンプラ意識なさすぎでしょ。そんな化石みたいな事務所、ウチが内側から崩壊させてやるよ」


 冬美ちゃんは立ち上がり、中野さんの前に立った。


「安心して、お姉さん。ウチが潜入して、そのクソ上司の『化けの皮』、全部剥がしてくるけん」


 作戦はシンプルだった。

 デザイン事務所『バベル』が募集していた「急募・新人アシスタント」の枠に、冬美ちゃんが応募し、潜入する。

 そして内部からパワハラの決定的な証拠を集め、深夜0時に裕里子たちが突入してトドメを刺す。


 俺とアストリッドは、アジトから冬美ちゃんの潜入をモニタリングすることになった。

 冬美ちゃんは服のボタンや髪留めに超小型カメラとマイクを仕込んでいる。


「潜入開始。……聞こえる? サトル先輩」


 モニター越しに、冬美ちゃんの小声が聞こえる。

 画面には、雑然とした事務所の様子が映し出されていた。

 散乱した図面、飲みかけのペットボトル、床に転がる誰かの寝袋。空気は澱み、タバコの煙が充満している。


「うわ、臭そう……」


 アストリッドが顔をしかめる。

 カメラが奥のデスクに向けられた。そこに、神経質そうな長髪の男が座っていた。所長の神田だ。


「おい、新入り!」


 神田がいきなり怒鳴った。


「はいっ! なんでしょうか社長!」


 冬美ちゃんの声が、いつもの低いトーンから、ワントーン高い「アニメ声」に変わっていた。

 画面の中の彼女は見えないが、きっと「何も知らないドジな新人」を完璧に演じているのだろう。


「社長じゃねえ、先生と呼べ! あとコーヒー買ってこい! 微糖だぞ、間違えたら殺すからな!」

「あ、すみません! 微糖ですね! えっと、メーカーはどこがいいですかぁ?」

「なんでもいいわ! 早く行けグズ!」


 神田がイライラと貧乏ゆすりをしている。

 冬美ちゃんは「ひぃっ! すみません〜!」と大げさに怯えて見せながら、給湯室へと下がった。


『……チョロいな、あのオッサン』


 給湯室に入った瞬間、冬美ちゃんの声が地に戻った。

 彼女は手早くコーヒーを淹れながら、独り言のようにマイクに囁く。


『とりあえず第一段階クリア。怒らせてナンボやからね』


 彼女はコーヒーカップを持って、再び神田のデスクへ向かった。

 そして――。


「先生、コーヒー淹れましたぁ!」

「遅いんだよバカ!」


 神田がカップを受け取ろうとした瞬間、冬美ちゃんの手が「滑った」。


 バシャッ!


 熱いコーヒーが、神田のデスクの上にぶちまけられた。

 描きかけのデザイン画が、茶色いシミに染まっていく。


「ああっ!?」

「きゃああっ! すみません先生! 手が滑っちゃってぇ!」


 冬美ちゃんが叫ぶ。

 神田の顔色が、みるみるうちに赤黒く変色していく。


「て、てめぇ……! これ、締め切り前の原稿だぞ!?」

「ごめんなさぁい! すぐ拭きますぅ!」


 冬美ちゃんは慌てて雑巾で原稿をこすり始めた。シミがさらに広がり、紙が破れる。


「やめろぉぉぉぉッ!」


 神田が激昂し、近くにあったパイプ椅子を蹴り飛ばした。

 ガシャーン!

 事務所中のスタッフが凍りつく。


「お前、わざとやったろ!? えぇ!?」

「そんなぁ、わざとじゃないですぅ! 私、ドジでノロマな亀なんですぅ〜」

「ふざけんな! 損害賠償請求してやる! この原稿一枚いくらかかると思ってんだ! 親呼べ! 土下座しろ!」


 罵詈雑言の嵐。

 だが、モニター越しの俺には見えていた。

 うつむいて震えるふりをしている冬美ちゃんの口元が、微かに吊り上がっているのを。

 彼女はポケットの中で、ボイスレコーダーの録音レベルを確認しているのだ。


「……すごいな」


 俺は思わず呟いた。

 彼女は、相手を怒らせる天才だ。

 Z世代特有の「空気を読まない」強心臓で、パワハラ上司の沸点を的確に突きに行っている。


 それから数時間。

 冬美ちゃんの「煽り」は続いた。


 神田が自慢げに過去の受賞歴を語り出すと、

「へぇ〜すごいですねぇ。でもこれ、ネットで見た海外の作品に似てません? インスパイアってやつですかぁ?」

 と無邪気にパクリ疑惑を指摘し。


 神田が「俺たちの若い頃は徹夜が当たり前だった」と説教を始めると、

「エモいですねぇ! でもそれって、生産性低いだけじゃないですか? タイパ悪くないっすか?」

 と笑顔で論破し。


 そのたびに神田は顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、机を叩き、物を投げた。

 カッターナイフ、ステープラー、灰皿。

 冬美ちゃんはそれらを紙一重で回避しつつ、すべての暴言と暴力を記録していった。


 時刻は23時50分。

 事務所の空気は最悪だった。

 神田は怒り疲れてゼェゼェと息をし、他のスタッフたちは冬美ちゃんに関わらないように息を潜めている。


『……サトル先輩、裕里子さん。準備オッケー』


 インカムから、冬美ちゃんの低い声が聞こえた。


『証拠は十分。あとは仕上げやね』


 冬美ちゃんは、神田のデスクの前に立った。

 もう、オドオドした演技はしていない。背筋を伸ばし、冷ややかな瞳で神田を見下ろしている。


「……なんだお前、その目は」


 異変に気づいた神田が顔を上げる。


「ねえ、先生。さっき『業界で働けなくしてやる』って言ったよね?」

「あ? 当たり前だ! お前みたいな無能――」

「それ、そのままお返しするわ」


 冬美ちゃんはボイスレコーダーを取り出し、再生ボタンを押した。


『この原稿一枚いくらかかると思ってんだ! 親呼べ! 土下座しろ!』

『お前みたいなゴミ、生きてる価値ねえんだよ!』


 大音量で再生される自分の暴言に、神田が目を見開く。


「な、なんだそれは……!?」

「あんたの『名言集』やん。これ、TikTokで流したらバズるやろなー。『有名デザイナー神田氏、新人イビリの神対応』ってタイトルで」

「き、貴様……!」

「あ、それとも労働基準監督署の方が好き? それとも警察? 傷害未遂の証拠もあるけど?」


 冬美ちゃんがニヤリと笑う。


「てめぇ……ハメやがったな!」


 逆上した神田が、近くにあった金属製の定規を掴み、冬美ちゃんに殴りかかろうとした。


「死ねぇっ!」


 その瞬間。


 ガシャァァァァン!!


 事務所の入り口のガラスドアが粉々に砕け散った。

 舞い散るガラス片と共に、黒いロングコートの影が飛び込んでくる。


「深夜0時。……時間外労働はそこまでよ」


 現れたのは、特殊警棒を構えた青木裕里子だった。

 彼女は神田の振り上げた腕を掴むと、容赦なくねじり上げた。


「ギャァァァッ!」

「女の子に定規を向けるなんて、デザイン以前に人間としてデッサンが狂ってるわね」


 裕里子は神田を床に組み伏せると、背後から入ってきた俺に合図した。

 俺は震える手で、中野さんの退職届と、由希さんが作成した「慰謝料請求書」を神田の目の前に突きつけた。


「し、深夜の訪問販売はお断りだぞ……!」

「退職代行です。中野さんの退職、および貴方の一連のパワハラ・傷害行為に対する慰謝料請求、受理していただけますね?」


 俺が言うと、神田は脂汗を流しながら冬美ちゃんを睨んだ。


「お、お前らグルか……!」

「グルやないよ。チームワークって言うとよ」


 冬美ちゃんは神田の鼻先でピースサインを作った。


「あんたの時代は終わったんよ、おじさん。これからはコンプラと多様性の時代。アップデートできない化石は、博物館行きってね」


 神田はなおも喚こうとしたが、裕里子が警棒を床に叩きつける音で沈黙した。

 床のタイルが粉砕される。

 物理的な暴力と、冬美ちゃんが集めた社会的な抹殺材料。

 詰みだった。


「……払う。払うから、その録音データだけは……!」


 神田が泣き崩れる。

 本日二度目の敗北宣言だ。


 午前1時半。

 事務所を出た俺たちは、アストリッドの待つハイエースに戻った。

 夜風が心地よい。


「いやー、スカッとしたわー!」


 冬美ちゃんは伸びをすると、コンビニで買ったアイスを袋から取り出した。


「お疲れ様。すごい度胸だったね」

「そ? あんなん余裕よ。ウチ、メンタル鋼やから」


 彼女はアイスをかじりながら、助手席の俺に笑いかけた。


「サトル先輩こそ、あんなヤクザみたいな連中に囲まれて、よくビビらんで請求書読めるね。ウチならちびるわ」

「……俺も内心ビビりまくりだよ。でも、後ろに裕里子さんがいると思うと、不思議と言えるんだ」

「ふーん。信頼関係ってやつ?」


 冬美ちゃんはニヤニヤしながら、運転席のアストリッドと顔を見合わせた。


「ま、いいコンビなんじゃない? 『社畜と野獣』って感じで」

「誰が野獣よ」


 後部座席から裕里子の冷たいツッコミが飛んできた。


「はいはい、すみません女王様。……あ、そういえばサトル先輩。これお土産」


 冬美ちゃんがポケットから何かを取り出し、俺に投げた。

 それは、事務所の床に落ちていたカッターナイフの刃……ではなく、猫用のおやつだった。


「コンビニで見つけたと。チビちゃんにあげて」

「え、ありがとう。……名前、まだチビのままなんだけど」

「いいやん、チビで。可愛かろ?」


 冬美ちゃんは悪戯っぽくウィンクした。

 Z世代の潜入工作員。

 自由奔放で、口は悪いが、どこか憎めない新しい仲間。

 彼女のおかげで、この危険な組織も少しだけ明るくなった気がする。


「さ、帰ろう! サトル先輩、帰ったら夜食作ってね! ウチ、明太パスタが食べたい!」

「はいはい、分かりましたよ……」


 ハイエースは夜の東京を走り抜ける。

 俺たちの「退職代行」は、まだ始まったばかりだ。

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