第57話 炎上ライブジャック
決行の数時間前。
秋の柔らかな日差しが差し込むアジトのリビングで、俺はソファに腰を下ろし、シリコン製のブラシを握っていた。
俺の膝の上では、黒猫のチビが腹を上にして完全に無防備な姿勢で伸び切っている。ブラシで顎の下から胸元にかけてゆっくりと梳かしてやると、チビは目を細め、前足を空中で「パー」の形に開いて身を捩った。
心地よい重低音が太ももに伝わってくる。俺がブラシを置いて指先で耳の後ろを掻くと、チビは琥珀色の丸い瞳を少しだけ開け、ピンク色の小さな舌を出して俺の親指の付け根をザラザラと舐めた。
あたたかくて、柔らかい命の重み。
この小さな安らぎに触れるたび、俺は今の依頼人のことを思わずにはいられなかった。
七瀬カナ、19歳。
このチビのように誰かに守られるべき年齢の彼女は今、悪質な契約に縛り付けられ、大人の欲望の道具として消費されている。その理不尽に対する静かな怒りが、俺の腹の底で黒く燻っていた。
そして現在。
俺と裕里子は、夜の甲州街道を多摩方面の山奥へと向かって疾走していた。
先ほど、ホテルのラウンジでの交渉において、動画配信事務所の社長である金杉は、俺たちが突きつけた事実を前に逆上し、「あいつは今夜、山奥の廃病院で生配信の予定だ。これから俺が直接現場に行って、最悪の配信をさせてやる!」と喚き散らして逃走した。
俺たちはすぐさま追跡を開始し、現在に至る。
「アストリッド、金杉の現在位置は?」
俺がインカムのスイッチを入れると、キーボードを叩く軽快な音と共に、アストリッドの緊迫した声が返ってきた。
『金杉のスマホのGPSを完全に捕捉してるよん。まっすぐ山奥に向かってる。事前の情報通り、廃病院で間違いないね。……サトル・サン、マズいよ。対象のチャンネルで特別配信が始まってる。同接はすでに15万人を超えてる!』
「何をやらせているんだ」
『呪われた廃病院からの決死のバンジー、だって。建物の屋上から飛び降りさせる気だよ』
隣でハンドルを握る裕里子が、チッと鋭く舌打ちをした。
命綱があるとはいえ、極度の高所恐怖症であるカナにとっては拷問に等しい。パニックを起こして足場を滑らせれば、どんな大事故に繋がるか分からない。
「裕里子さん、急ぎましょう」
「言われるまでもないわ」
アクセルが深く踏み込まれ、車のエンジンが獣のように唸りを上げた。
山奥の廃病院。吹きさらしの屋上。
冷たい風が容赦なく吹き付ける中、七瀬カナは屋上の縁、錆びついた柵の向こう側のわずかな足場に立たされていた。
命綱らしき太いロープが腰に巻かれているが、固定されている先は屋上にある古びた貯水タンクの鉄柱だ。
「ほら、もっと下を見ろよ! リスナーが求めてんだよ!」
カメラを構えた柄の悪いディレクターが、ヘラヘラと笑いながら煽る。スマホの画面には、滝のように流れる無責任なコメントが映し出されている。
「もう、嫌です……怖い……助けて……」
カナが泣きじゃくりながらしゃがみ込もうとするが、到着したばかりの金杉が、ロープを乱暴に引っ張って無理やり立たせた。
「ふざけんな、お前が飛べば金になるんだよ! それとも5000万の違約金を今すぐ払えんのか!? 親の家に借金取り行かせるぞ!」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
金杉がカナの肩を小突こうと手を伸ばした、その瞬間。
ガシャァァァァンッ!!
屋上へと続く重厚な鉄扉が、凄まじい轟音と共に蝶番ごと吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
金杉とディレクターたちが驚愕して振り返る。
舞い散る赤錆と粉塵を切り裂いて、黒いレザージャケットの影が歩み出てきた。裕里子だ。その後ろから俺も続く。
「こんな下らないこと、もう終わりにしなさい」
裕里子が氷のような声で告げた。
「お前ら、ラウンジにいた奴ら……! なぜここが分かった!」
金杉が顔を引き攣らせ、ディレクターに向かって叫ぶ。
「おい、こいつらを摘み出せ! 営業妨害だぞ!」
指示を受けた二人の男が、周囲にあった鉄パイプを拾い上げて裕里子に向かって飛びかかってきた。
裕里子はダマスカス鋼を抜くまでもなかった。
踏み込んでくる男の初撃を半身で躱し、その腕を掴んで捻り上げると同時に、もう一人の男の膝関節に正確な前蹴りを叩き込む。
「ゴボァッ!」
「ギャァァッ!」
わずか二秒。骨の軋む嫌な音と共に、男たちはコンクリートの床に崩れ落ちた。
裕里子は立ち止まらず、柵の向こう側で震えるカナの腕をしっかりと掴み、安全な内側へと引き戻した。
「……もう大丈夫よ」
カナがへたり込み、俺は急いで自分の上着を脱いで彼女の肩にかけた。
仲間を一瞬で沈められた金杉が、後ずさりしながら俺たちを睨みつけた。
「て、てめぇら……!」
俺は一歩前に出て、タブレットの画面を金杉に突きつけた。
「七瀬カナさんの退職代行です。由希さんが作成した書類によると、この契約書にある違約金5000万という項目は、労働基準法第16条の『賠償予定の禁止』に完全に抵触しています。法的な効力はゼロだ。貴方が彼女を脅し、不当に拘束する根拠は最初から存在しない」
淡々と事実を読み上げる俺に対し、金杉は下劣な笑い声を漏らした。
「ハッ、知ったことか! 弁護士気取りが何をほざこうが、今は生配信中だぞ! 暴行の現行犯だ! お前らの顔、全部ネットに晒してやる! カナも終わりだ、お前らみたいな犯罪者とグルだってことが全世界に配信されてるんだよ!」
金杉が狂ったように笑い、床に落ちていた配信用スマートフォンを拾い上げてカメラを向けた。
だが、裕里子はカメラを向けられても微塵も動じず、ただ冷ややかに金杉を見下ろした。
「社会的に終わるのは、どっちかしらね」
俺はインカムのスイッチを入れた。
「アストリッド、頼む」
『アイアイサー! 配信チャンネル、完全掌握完了だよん!』
インカムの向こうで、エンターキーを力強く叩く音が響いた。
その瞬間、同接20万人を超えていたカナの配信画面が、激しいノイズと共に暗転した。
金杉が慌ててスマホの画面を確認する。
「な、なんだ? 電波が……」
直後、画面に表示されたのは、先ほどまで映っていた屋上の映像ではなかった。
黒い背景に、白い文字。
それは、アストリッドが事務所のローカルサーバーから抜き出していた、金杉の二重帳簿の生データと、未成年に対する違法な労働契約書のコピーだった。画面の下部には、スクロールする形で金杉の悪質な脱税額がリアルタイムで弾き出されていく。
さらに、音声が再生された。
『あいつは今夜、山奥の廃病院で生配信の予定だ。これから俺が直接現場に行って、あいつに最悪の配信をさせてやる!』
先ほど、ホテルのラウンジで金杉が俺たちに向けて放った、紛れもない脅迫の肉声だった。
それが、現在進行形で20万人の視聴者の端末から流れ出したのだ。
「な……なっ……!?」
金杉が絶望的な声を上げる。
滝のように流れていたコメント欄が、一瞬だけ不気味なほどピタリと止まった。
そして。
『は?』
『社長ヤバすぎ』
『ブラックどころか犯罪じゃん』
『奴隷契約エグい』
『これガチの帳簿? 脱税じゃん』
『警察と国税庁に通報した』
『カナちゃん逃げて!!』
画面の右側を、視認不可能な速度でコメントが埋め尽くしていく。怒りと非難の嵐。純粋な悪意が暴かれた時の、ネット特有の凄まじいまでの炎上だった。
事の重大さを理解した金杉が、スマホの画面を見て悲鳴を上げた。
「や、やめろ! 止めろォォォッ!!」
金杉が這いつくばって画面を隠そうとするが、裕里子がその手を軍靴で容赦なく踏みつけ、ピンと張った冷たい声で告げた。
「自業自得ね。これから本当の地獄を見せてあげるわ」
裕里子は背中から漆黒のダマスカス鋼を引き抜き、金杉の鼻先数センチのコンクリートに、火花を散らして突き立てた。
カキィィィンッ!!
「七瀬カナの退職届、確かに受理したわ。あんたはこれから、警察と国税局、そして怒り狂った世論を相手に、残りの人生をかけて釈明しなさい」
絶望と恐怖に打ちのめされた金杉は顔を歪め、そのままコンクリートの床に崩れ落ちて気を失った。ディレクターの男たちも、もはや逃げる気力すら失い、へたり込んでいる。
冷たい夜風が吹く中、カナは震える手で顔を覆い、声にならない声で泣きじゃくっていた。
俺は彼女の横にしゃがみ込み、その背中をゆっくりと、アジトでチビを撫でる時と同じように、優しく一定のリズムでさすった。
「もう、終わりましたよ。……帰りましょう」
俺の言葉に、カナは何度も、何度も深く頷いた。




