第5話 物理と法務のサンドイッチ
深夜0時00分。
日付が変わった瞬間、世界は俺たちのものになる。
世田谷区の閑静な住宅街に建つ、要塞のようなコンクリート打ちっ放しの豪邸。居酒屋チェーン『夢酒場』の社長、鮫島の自宅だ。
俺と裕里子、そしてグレタの三人は、音もなく広大な庭を横切っていた。
「……セキュリティクリア。玄関ロック、解除したよーん」
耳元のインカムから、車で待機しているアストリッドの軽い声が聞こえる。
カチャリ、と電子錠が解錠される音がした。
「行くわよ」
裕里子が先陣を切る。彼女はいつの間にかヒールから音の出ないタクティカルブーツに履き替えていた。
俺は一昨日、銀座での買い物で買わされたイタリア製スーツが汚れないかヒヤヒヤしながら、その後ろを必死についていく。
最後尾には、白衣の上に黒いパーカーを羽織ったグレタが、気怠げに歩いている。手には相変わらず、中身の怪しい注射器が握られたままだ。
玄関ホールは吹き抜けになっており、高そうな絵画や壺が並んでいる。
典型的な成金趣味だ。佐藤さんたちから搾取した残業代が、この壺になったのかと思うと、緊張よりも怒りが湧いてくる。
「寝室は二階、右奥の部屋だ。センサーもカメラも全部切ってるから、堂々と行ってよし!」
アストリッドのナビゲートに従い、俺たちは螺旋階段を上がる。
二階の廊下を進み、重厚なマホガニーの扉の前に立つ。
「突入」
裕里子が短く呟き、ドアノブに手をかけた。
鍵はかかっていなかった。
彼女は音もなくドアを開け、滑り込むように中へ入る。
広い寝室だった。
キングサイズのベッドで、初老の男がいびきをかいて寝ている。あいつが鮫島だ。
枕元にはサイドテーブルがあり、飲みかけのブランデーとスマホが置かれている。
裕里子はベッドサイドに近づくと、優雅な手つきでサイドテーブルの上のスタンドライトを点けた。
パチッ。
突然の明かりに、鮫島がうめき声を上げて眉をひそめた。
「ん……んん……なんだ……?」
鮫島が重い瞼を開ける。
その視界に映ったのは、ベッドを取り囲む黒尽くめの美女、白衣の怪しい女、そして新品のスーツを着た男の三人組だっただろう。
「ひっ……!?」
鮫島は飛び起きた。
「な、なんだお前らは! 強盗か!? 警察を呼ぶぞ!」
鮫島が枕元のスマホに手を伸ばす。
だが、その手は空を切った。
スマホはすでに、裕里子の手の中にあった。
「こんばんは、鮫島社長。夜分遅くに失礼するわ」
裕里子はスマホを放り投げ、ベッドの足元にあるソファに腰掛けた。
「誰だ! 俺を誰だと思っている! この辺りの警察署長とはゴルフ仲間なんだぞ!」
「知ってるわよ。先週のスコアは108。署長に接待ゴルフで負けてあげたんでしょう?」
裕里子は冷ややかに笑う。
「我々は『ミッドナイト・エグジット』。あなたの会社で奴隷のように働かされている佐藤さんの代理人よ」
「さ、佐藤……? あの店長か?」
鮫島の顔が歪んだ。恐怖から、怒りへと変わる。
「あいつか! あいつが手引きしたのか! ふざけやがって、ただで済むと思うなよ! 損害賠償だ! 裏の人間を使って家族ごと――」
その瞬間だった。
ヒュンッ!
風を切る音がして、鮫島の頬を何かが掠めた。
ドスッ!
背後のヘッドボードに突き刺さったのは、ダマスカス鋼製の退職届(金属板)だった。
鮫島の頬から、ツーと一筋の血が流れる。
「……口の利き方に気をつけなさい。次は眉間に穴が開くわよ」
裕里子の目が、爬虫類のように冷たく光っていた。
鮫島は声もなく震え上がった。本物の「暴力」の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。
「さあ、サトル。あんたの仕事よ」
裕里子に促され、俺は一歩前に出た。
足が震える。心臓が口から飛び出しそうだ。
でも、やらなきゃいけない。
俺は震える手で、内ポケットから封筒を取り出した。
「さ、鮫島社長。こ、これをご確認ください」
俺は封筒から書類を取り出し、鮫島に突きつけた。
それは、佐藤氏の未払い残業代計算書と、請求書だ。
「……なんだこれは」
「佐藤さんの過去2年間の未払い残業代、および付加金の請求書です。合計で1780万円。即刻お支払いください」
「いっ、一千万……!? 馬鹿な! あいつは管理職だぞ! 残業代なんか出るわけがない!」
「名ばかり管理職です。実態はアルバイトと同じ業務内容であり、管理監督者の要件を満たしていません。労働基準法第41条の解釈をご存知ですか?」
一度口を開くと、不思議とスラスラと言葉が出てきた。
そうだ。俺はずっと、こういう奴らにこれを言いたかったんだ。
「さらに、あなたの会社は勤怠データを改ざんしていますね。サーバーに残っていた改ざん前のログと、実際のPOS操作ログを照合しました。これは明らかな違法行為です」
「なっ、なんでウチのサーバーの中身を……!」
「全部抜きましたから」
俺はアストリッドから渡されたタブレット端末を掲げた。
画面には、鮫島のPCのデスクトップ画面がリアルタイムでミラーリングされている。
「お前のPC、エロ動画のコレクションですごいことになってるなー。これ、全社員に一斉送信しちゃおっかなー?」
タブレットのスピーカーから、アストリッドのふざけた声が響く。
「や、やめろ! 分かった、金は払う! だからデータを消してくれ!」
鮫島があっさりと白旗を上げた。
案外チョロいな、と思ったその時だ。
「……甘いわね」
タブレットの画面が切り替わった。
映し出されたのは、優雅にワイングラスを揺らす顧問弁護士・福田由希の姿だった。
『こんばんは、鮫島社長。当職は弁護士の福田です。……まさか、お金だけで済むと思っていらっしゃいます?』
画面越しの由希の笑顔は、裕里子のナイフよりも鋭かった。
『未払い賃金の支払いは当然の義務。それに加えて、貴方は佐藤さんに対して「損害賠償」だの「裏の人間」だのと脅迫を行いましたね? 刑法第222条、脅迫罪。さらに労働基準法違反、私電磁的記録不正作出・同供用罪……役満ですね』
由希は次々と罪状を並べ立てる。
『現在、貴方の脱税に関する証拠も含め、東京地検特捜部と国税局への告発状を作成中です。送信ボタンを押す準備はできていますよ?』
「ま、待ってくれ! 弁護士さん! 話し合おう! いくらだ? いくら積めばいい!?」
『お金ではありません。誠意を見せていただきたいのです』
由希が冷たく言い放つと、裕里子が頷いた。
「グレタ。出番よ」
「……はいはい」
それまで部屋の隅で興味なさげに壁の絵を眺めていたグレタが、ゆっくりと鮫島に近づいた。
手には、あの怪しい注射器がある。中にはどす黒い赤色の液体が入っていた。
「ひっ! な、何をする気だ!」
「暴れないで。血管に入ると痛いから」
グレタは無表情のまま、鮫島の腕を掴んだ。その握力は意外に強く、鮫島がもがいてもびくともしない。
「こ、殺す気か!?」
「いいえ。これは私が特別に調合した『自白剤』よ。……まあ、成分の99%は世界一辛い唐辛子『キャロライナ・リーパー』の濃縮エキスと、神経を過敏にする数種類のハーブだけど」
「と、唐辛子……!?」
「これを打つとね、全身の神経が唐辛子風呂に入ったみたいに燃え上がるの。でも意識は鮮明になるから、嘘がつけなくなるわ」
嘘か本当か分からない説明と共に、グレタは注射器の針を鮫島の二の腕に突き刺した。
「ギャァァァァァァァッ!!」
鮫島の絶叫が豪邸に響き渡った。
注入された瞬間、鮫島の顔色が真っ赤になり、次いで土気色に変わる。全身から滝のような汗が吹き出した。
「あ、あつい! 痛い! 燃えるぅぅぅ!」
「さて、質問するわ」
裕里子が鮫島の髪を掴んで顔を上げさせた。
「佐藤さんの退職を認める?」
「み、認める! 認めます!」
「残業代と慰謝料、計2000万。明日の朝一番で振り込む?」
「払う! 払いますからぁぁ! 水をくれぇ!」
「あと、二度と従業員を脅さないと誓う?」
「誓います! 神に誓いますぅぅ!」
鮫島は涙と鼻水を垂れ流し、ベッドの上でのたうち回った。
完全に心が折れている。
俺は少し同情しかけたが、佐藤さんが味わった3ヶ月間の地獄を思えば、これでも生温いくらいだ。
「よし。言質は取ったわ」
裕里子はスマホの録音を止めると、グレタに目配せをした。
「解毒剤をやって」
「……チッ。もったいない」
グレタは別の注射器を取り出し、鮫島に打った。
数秒後、鮫島の呼吸が落ち着き始めた。まだ荒い息をしているが、先ほどのたうち回るほどの苦痛は引いたようだ。
「……お、俺は……」
「今夜のことは忘れることね。もし約束を破ったら……次は致死量を打つわよ」
グレタが冷たく囁くと、鮫島はコクコクと首を縦に振った。もはや逆らう気力など残っていないだろう。
「ミッション・コンプリート。撤収するわよ」
裕里子はヘッドボードに突き刺さった退職届を引き抜くと、持参した布で丁寧に血を拭き取り、ジュラルミンケースに収めた。
「……あれ、回収するんですか?」
「当たり前でしょ。ダマスカス鋼は高いのよ。名前の部分を削り直せば、次のターゲットにも使えるわ」
「俺の時だけ『提出』だったのは、そういう……」
「あんたのは特別よ。それに、今回は相手が全面的に認めたから『証拠』を残す必要もないしね」
裕里子はニヤリと笑い、踵を返した。
俺たちは静まり返った豪邸を後にした。
午前1時。
アストリッドの運転するハイエースは、深夜の環八通りを走っていた。
車内は勝利の余韻に包まれている……わけでもなく、いつも通りの空気が流れていた。
「あーあ、腹減った。サトル、帰ったら夜食作ってよ」
「こんな時間にですか? 太りますよ」
「ハッカーは脳を使うからカロリーゼロなの!」
アストリッドが運転しながら駄々をこねる。
後部座席では、裕里子がジュラルミンケースを開け、回収した退職届の傷を確認していた。シュールな光景だ。
「そういえばグレタさん、さっきの注射、本当にただの唐辛子エキスなんですか?」
「……企業秘密よ。知りたければ、あなたの体で実験してあげる」
「遠慮します」
そんな他愛もない会話をしていた時だった。
「ストップ!」
突然、裕里子が叫んだ。
キキーッ!
アストリッドが急ブレーキを踏む。俺は前の座席に頭をぶつけそうになった。
「な、なんですか急に!?」
「……聞こえた」
「は?」
「猫の声よ」
裕里子はスライドドアを開けると、車外へと飛び出した。
場所は、古びた公園の横だ。街灯が一つだけ寂しく点滅している。
俺たちも慌てて外に出る。
「猫? こんなところに?」
耳を澄ますと、確かに微かな声が聞こえた。
ミィ……ミィ……。
公園の植え込みの陰に、濡れたダンボール箱が置かれていた。
裕里子が箱を覗き込む。
「……いたわ」
彼女が両手で掬い上げたのは、手のひらに乗りそうなくらい小さな、泥だらけの黒猫だった。
まだ目が開いたばかりの赤ちゃんだ。震えながら、必死に鳴いている。
「捨て猫か……。ひどいことするな」
俺が眉をひそめると、裕里子は無言で猫を見つめていた。
その表情は、いつもの冷徹な仮面が外れ、見たこともないほど柔らかいものになっていた。
「……似てるわね」
「え?」
「雨に濡れて、震えて、誰かに拾われるのを待ってる。……3日前のあんたとそっくり」
「それ、俺のことですか?」
反論しようとしたが、確かにあの時の俺も、こんな風に震えていたかもしれない。
「どうするの、ボス? 連れて帰る?」
アストリッドが尋ねると、裕里子は俺の方を向いた。
そして、黒猫を俺の胸に押し付けた。
「サトル。あんたが拾いなさい」
「えっ、俺!?」
「私は忙しいし、アストリッドは大雑把すぎる。グレタに預けたら実験動物にされそうだし」
「否定はしないわ」とグレタ。
「だから、あんたが育てなさい。総務部長の業務に追加よ」
無茶苦茶だ。
でも、俺の腕の中で震える小さな命を感じると、不思議と嫌な気はしなかった。
俺の指を、小さな舌がザラザラと舐める。温かい。
「……分かりました。業務命令なら仕方ないですね」
俺は上着を脱いで、猫を包み込んだ。
こいつも、俺と同じで拾われた命だ。これも何かの縁だろう。
「名前、どうする?」
アストリッドが覗き込んでくる。
「そうだな……。黒くて、小さくて……」
「『ブラック』でいいんじゃない? あんたの出身企業にちなんで」
裕里子が意地悪く笑う。
「縁起でもない名前つけないでくださいよ!」
「じゃあ……『ウニ』」
「ウニ?」
「黒くてトゲトゲしてるから」
「トゲトゲしてませんよ! フワフワです!」
結局、名前は決まらないまま、俺たちは車に戻った。
膝の上で、黒猫が安心して眠り始める。
退職代行、成功。
残業代、回収確定。
そして、新しい家族が増えた。
怒涛のような一日が終わろうとしていた。
俺は眠る猫の頭を撫でながら、ふと窓の外を見た。
東京の夜景が、昨日までより少しだけ優しく見えた。
「……帰ったら、ミルク買ってこなきゃな」
俺の呟きに、裕里子は何も言わず、ただ静かに微笑んでタバコを吹かしていた。




