第4話 初仕事はブラック居酒屋チェーン
ジジジジジ……。
静寂なキッチンに、ベーコンが焼ける小気味よい音が響く。
午前7時。
洋館の朝は早い。いや、俺の朝だけが早い。
新品のイタリア製スーツの上に、「I LOVE TOKYO」と書かれたダサいエプロンを着け、俺はフライパンと格闘していた。
「サトル、コーヒーまだ?」
「はい、今淹れますよ」
ダイニングテーブルでは、寝癖のついた金髪を揺らすアストリッドが、ノートPCを叩きながら催促してくる。
続いて、不機嫌そうな顔をした裕里子が起きてくる。
「……眩しい。カーテン閉めて」
「おはようございます、裕里子さん。朝日は浴びた方がいいですよ。セロトニンが出ますから」
「うるさい。私のエネルギー源はニコチンとカフェインだけよ」
裕里子はドカッと椅子に座り、俺が差し出したブラックコーヒーをすする。
これが、俺の新しい職場「ミッドナイト・エグジット」の日常だ。
借金680万円返済生活、2日目。
今日の主な業務は、朝食作りと、由希さんが散らかした書類の片付け、そして――。
ピンポーン。
重厚な玄関チャイムの音が、館内に響き渡った。
「お、来たわね」
裕里子の目が、瞬時に肉食獣のそれへと変わった。
彼女はコーヒーカップを置くと、ニヤリと笑った。
「サトル、エプロンを外しなさい。仕事の時間よ」
応接室に通されたのは、一人の男だった。
年齢は40代半ば。安っぽい既製品のスーツはシワだらけで、肩にはフケが積もっている。何より、目の下のクマが尋常ではない。かつての俺と同じ、「死んだ魚の目」をしている。
「……よ、よろしくお願いします。佐藤と申します」
男は震える声で名乗り、深々と頭を下げた。
今回の依頼人、大手居酒屋チェーン『夢酒場』のエリアマネージャー兼、蒲田店店長の佐藤氏だ。
「座ってちょうだい。……サトル、お茶を」
「はい」
裕里子は上座で足を組み、まるで女王のように振る舞っている。隣には顧問弁護士の由希が、またしても朝から酒の入ったグラスを揺らして座っていた。
「で? 話は聞いているけれど、改めて状況を確認させて」
由希が冷ややかに促すと、佐藤氏は堰を切ったように話し始めた。
「も、もう限界なんです……。3ヶ月間、休みがありません。アルバイトがバックレるたびに私が穴埋めに入り、夕方16時から朝の5時まで店に出て、その後はエリア会議……。家に帰れるのは週に1回、着替えを取りに行くだけで……」
典型的な飲食業界のブラック労働だ。聞いていて胸が痛くなる。
「それで、社長に『辞めさせてほしい』と伝えたんですが……」
「なんて言われたの?」
佐藤氏は顔面を蒼白にし、ボイスレコーダーを取り出した。
再生ボタンを押すと、怒鳴り声が再生された。
『あぁ!? 辞める? ふざけんなよテメェ! お前が抜けた穴、誰が埋めると思ってんだ! 採用コストと教育コスト、それに営業損失合わせて500万! 払えるなら辞めていいぞ! 損害賠償で訴えてやるからな!』
野太く、ねっとりとした威圧的な声だ。
損害賠償。
ブラック企業が社員を縛り付けるための常套句だ。法的根拠がなかろうが、言われた方は「訴訟」という言葉だけで萎縮してしまう。
「……ひどいですね」
「ええ。私には妻も子供もいます。500万なんて払えませんし、訴えられたら再就職もできなくなると思って……」
佐藤氏はハンカチで顔を覆い、泣き出した。
その背中は、あまりにも小さく見えた。数日前の俺も、きっとあんな風に見えていたのだろうか。
「くだらない」
静寂を破ったのは、裕里子の冷たい声だった。
「そんな脅し、ただのハッタリよ。ねえ由希?」
「ええ。労働者の退職の自由は憲法で保障されているわ。それに、損害賠償の予定なんて労働基準法第16条で禁止されている。法的には100%勝てる案件ね」
由希は淡々と言い放つ。
「でも、相手は法が通じない相手なんでしょ? だからウチに来た」
「は、はい……。社長の鮫島という男は、元々その筋の人との繋がりがあるとかで……話し合いで解決するような人じゃなくて……」
「鮫島ね。オーケー。要するに、理屈じゃなくて『恐怖』で分からせればいいってことね」
裕里子は楽しそうに指の関節を鳴らした。
いよいよ、この組織の本領発揮というわけだ。
だが、今回は少し様子が違った。
「サトル」
「はい?」
「あんたの出番よ」
「え、俺ですか? 殴り込みなら無理ですよ!?」
俺が慌てて手を振ると、裕里子は呆れたように溜め息をついた。
「誰が鉄砲玉になれって言ったのよ。……アス、データは?」
部屋の隅でPCを操作していたアストリッドが、パチンと指を鳴らした。
「バッチリ! 『夢酒場』本社のサーバーに侵入完了。佐藤サンの勤怠データ、ゲットだぜ!」
「よし。サトル、これを見て」
アストリッドがモニターをこちらに向けた。
そこに表示されていたのは、佐藤氏のタイムカードデータ……ではない。
出退勤時刻が全て「16:00〜23:00」で綺麗に揃えられた、改ざん済みのデータだった。
「これは……会社が勝手に書き換えてますね」
「そう。これが表向きのデータ。でも、アストリッドが抜き出したのはこっち」
画面が切り替わる。
そこには、POSシステムのログイン履歴と、店内のセキュリティカメラの稼働ログ、さらには佐藤氏のスマホのGPS位置情報ログが並んでいた。
「POSレジの操作ログを見れば、佐藤さんが実際に何時まで店にいたか分かる。朝の5時、ひどい時は昼の11時までレジを触ってるわね」
「なるほど……これなら実際の労働時間を証明できます」
「そこで、あんたの仕事よ」
裕里子は俺の肩に手を置いた。
「計算しなさい。この男が、過去2年間で鮫島から搾取された金額を。1円単位まで正確に」
「……え?」
「あんた、ブラック企業の経理システムには詳しいんでしょ? 敵がどんな手口で残業代をごまかしているか、手にとるように分かるはずよ」
俺はゴクリと唾を飲んだ。
残業代の計算。
それは、かつて俺自身が、自分の会社に対して「いつか請求してやる」と夢見ながら、深夜にこっそりシミュレーションしていたことだ。
給与明細の読み解き、固定残業代の罠、深夜割増の計算ミス……。それらは全て、俺の脳内にインプットされている。
「……やります」
俺はアストリッドの隣に座り、キーボードに手を置いた。
佐藤氏の給与明細と、就業規則を画面に並べる。
スイッチが入った。
「基本給25万。役職手当5万。みなし残業が45時間込み……ふざけてるな、この規定」
指が勝手に動く。
カカタ、カカタ、ッターン!
懐かしくも忌まわしい、あのリズムが蘇る。だが、今は違う。
これは、誰かに強いられた作業じゃない。誰かを救うための計算だ。
「まず、みなし残業の規定が無効です。実労働時間が月300時間を超えている時点で、36協定の上限を無視している。固定残業代を超過した分は全額支払い義務が発生します」
Excelのセルに、次々と数式を打ち込んでいく。
「深夜22時から翌5時までの深夜割増1.25倍。さらに月60時間を超えた分の割増率1.5倍……。あ、ここ、休憩時間が引かれていますが、ワンオペ中に休憩なんて取れるわけがない。これも労働時間に算入します」
俺の目は、モニターの中の数字だけを追っていた。
佐藤氏の苦しみが、数字となって可視化されていく。
午前3時のレジ締め。午前6時の発注業務。休日の呼び出し対応。
その一つ一つが、俺には痛いほど分かる。
「すごい……サトル、指が見えないよ!」
アストリッドが驚きの声を上げるが、俺の耳には届かない。
ゾーンに入っていた。
社畜として飼い慣らされた8年間の怨念が、計算速度を加速させる。
これは俺の戦いだ。
理不尽な搾取に対する、数字という名の刃による反撃だ。
15分後。
俺はエンターキーを力強く叩いた。
「出ました」
プリンターがウィーンと唸りを上げ、一枚の書類を吐き出す。
俺はそれを手に取り、裕里子に手渡した。
「未払い残業代、過去2年分で計890万円。これに付加金と同額を請求すれば、最大で約1780万円になります」
1780万円。
その金額を聞いた瞬間、佐藤氏が椅子から転げ落ちそうになった。
「い、一千万……!? 私が、そんなに……?」
「ええ。あなたがタダ働きさせられていた時間の価値です。500万の損害賠償? 笑わせますね。会社側があなたに払うべき金額の方が、遥かに大きいんですよ」
俺は言い切った。
佐藤氏の目に、涙が浮かんでいた。それは絶望の涙ではなく、自分の価値を取り戻した人間の涙だった。
「よくやったわ、サトル」
裕里子が書類を受け取り、ニヤリと笑った。
「これこそが最強の武器よ。C4爆薬よりも威力があるわ」
「……物理攻撃担当の裕里子さんに言われると複雑ですね」
「さあ、武器は揃ったわ」
裕里子は立ち上がり、ジャケットを羽織った。
その背中から、どす黒いオーラが立ち昇る。
「今夜0時。この請求書を、鮫島の喉元に突きつけに行くわよ」
深夜23時30分。
俺たちは世田谷区にある高級住宅街にいた。
ターゲットである『夢酒場』の社長、鮫島の自宅だ。コンクリート打ちっ放しの要塞のような豪邸である。
「うわぁ、立派な家……。俺たちの残業代がこの壁になってるんですね」
助手席で俺が呟くと、運転席のアストリッドがガムを噛みながら答えた。
「セキュリティはザルだよ。SECOMはハック済み。カメラもループ映像に切り替えた」
「準備万端ね」
後部座席の裕里子が、ダマスカス鋼製の退職届と、俺が作成した請求書が入った封筒を確認する。
そして隣には、白衣を着た見知らぬ女性が座っていた。
「……で、なんで私が呼ばれたの?」
不機嫌そうに呟くのは、ドイツ人のグレタだ。
プラチナブロンドのベリーショートヘアに、冷ややかなブルーアイズ。彼女はこのチームの「衛生兵」らしいが、その手には怪しげな注射器が握られている。
「念のためよ、グレタ。鮫島は元その筋の人と繋がりがあるんでしょ? もしもの時のために『自白剤』を持ってきてもらったの」
「……私の調合した薬を、そんなヤクザな用途に使わないでほしいわね。これはあくまで『精神をリラックスさせて、心を開かせる薬』よ」
「効果は同じでしょ」
会話が物騒すぎる。
俺は総務部長として、このチームのコンプライアンス意識の低さに頭を抱えたくなった。
「さて、時間よ」
裕里子が腕時計を見た。
時刻は23時55分。
シンデレラの魔法が解ける時間であり、俺たちの魔法が始まる時間だ。
「サトル、行くわよ。あんたが計算したその数字、直接叩きつけてやりなさい」
「え、俺も行くんですか!?」
「当たり前でしょ。請求書の説明責任があるわ」
裕里子は車のドアを開け、夜の闇へと躍り出た。
俺も覚悟を決めて後に続く。
昨日買ったばかりのスーツが、夜風に冷たく張り付く。
初仕事。
相手はブラック企業の社長、鮫島。
震えは……止まらない。でも、不思議と恐怖だけではなかった。
俺の手の中には、佐藤氏の、そしてかつての俺自身の怒りが詰まった請求書がある。
これを突きつける瞬間を想像すると、少しだけ胸が空くような気がした。
「ミッション・スタート。……深夜0時の退職代行、開店よ」
裕里子の合図と共に、俺たちは鮫島邸の門を乗り越えた。




