第3話 再就職先は犯罪組織ですか?
「――というわけで、第15条。被雇用者・遠藤悟は、債務・金680万円を完済するまでの間、雇用主である『ミッドナイト・エグジット』の指示するあらゆる業務に従事するものとする。なお、拒否権は認めない」
午後2時。
都内某所にある洋館の応接室で、俺は一枚の羊皮紙のような重厚な契約書と向き合っていた。
目の前には、顧問弁護士の福田由希が座っている。彼女は琥珀色の液体が入ったグラスを傾けながら、氷のような冷徹な瞳で俺を見据えていた。
「あの、第15条の『あらゆる業務』っていうのは……」
「文字通りよ。事務、経理、清掃、炊事、運転、そして現場での囮役まで含むわ」
「囮!? 今さらっと命に関わる業務が含まれていませんでしたか!?」
俺が抗議すると、由希はふっと溜め息をついた。
「遠藤くん。貴方、自分の立場を理解している?」
「立場……ですか」
「貴方は今、社会的には『無職』。そして経済的には『多重債務者』予備軍。本来なら路頭に迷うところを、ウチが拾ってあげたのよ。衣食住付きでね」
確かにその通りだ。
ブラック企業を爆破して逃げてきた俺には、帰る家も、再就職のアテもない。
ここでの生活は、借金返済のための労働とはいえ、あてがわれた高級ベッドや今朝の食材を見る限り、福利厚生は悪くなさそうだ。少なくとも、前の会社のように「デスマーチ中に椅子を並べて仮眠する」ような地獄ではない。
「それに、第20条を見て。『被雇用者が業務中に死亡した場合、債務は帳消しとし、香典として金10万円を遺族に支払う』」
「安っ! 俺の命、10万円!?」
「ブラック企業で過労死しても0円だったことを思えば、破格の待遇でしょう?」
ぐうの音も出ない。
この人は、正論という名のナイフで人の心を刺すのが趣味なのだろうか。
「……分かりました。サインします。すればいいんでしょう」
俺は震える手でボールペンを握り、契約書の署名欄に『遠藤 悟』と書き込んだ。
拇印を押した瞬間、由希の表情がパッと明るくなった。
「契約成立ね。おめでとう、遠藤くん。今日から貴方はウチの『総務部長 兼 雑用係』よ」
「部長なのか雑用なのかはっきりしてください……」
「さあ、仕事よ。まずはこの領収書の山を整理して。裕里子が先月、武器の購入に使った経費がめちゃくちゃなの」
ドサッ。
テーブルの上に、段ボール箱一杯のレシートの山が置かれた。
『C4爆薬』『特殊警棒』『閃光手榴弾』……。とても経費で落ちるとは思えない品目が並んでいる。これを「消耗品費」で処理しろと言うのか。税務署が裸足で逃げ出すレベルだ。
「うへぇ……。これ全部ですか?」
「今日中に終わらせてね。私はこれから美容院に行くから」
由希は優雅に立ち上がると、ウイスキーを一気に飲み干して部屋を出て行った。
残されたのは、俺と、犯罪の証拠のようなレシートの山だけ。
「……やるしかないか」
俺は覚悟を決めて、一枚目のレシートを手に取った。
その時だった。
バァン!!
応接室の扉が、またしても乱暴に開かれた。
現れたのは、この屋敷の主――青木裕里子だ。
今日はいつもの黒いレザージャケットではなく、オフショルダーの白いニットに、タイトなデニムパンツという、驚くほどラフで女性らしい格好をしていた。
「サトル! 何してるの!」
「何って……仕事ですよ。由希さんに言われた経理の――」
「そんな紙切れ、後で燃やせばいいわ。行くわよ」
「へ? どこへ?」
裕里子はサングラスをかけ、ニヤリと笑った。
「デートよ」
デート。
その甘美な響きとは裏腹に、俺が連れてこられたのは、銀座のど真ん中にある高級紳士服店だった。
重厚な木の扉を開けると、アロマの香りと共に、仕立ての良いスーツを着た店員が恭しく頭を下げる。
「いらっしゃいませ、マダム・アオキ。お待ちしておりました」
「ええ。今日はこの『荷物持ち』の服を見繕いに来たの」
裕里子は俺を顎で指した。荷物持ち。否定はできない。
俺は今、ヨレヨレのスーツを着ている。これは3日前から着たきりで、昨夜の退職騒動でさらに薄汚れた代物だ。銀座の煌びやかなショーウィンドウに映る自分は、完全に不審者だった。
「サトル、そこに立って」
「は、はい」
言われるがままに試着室の前に立たされる。
裕里子は店内を鋭い視線で物色し、次々とジャケットやシャツを手に取っては、俺に投げつけてくる。
「これも。あれも。あと、そのネクタイは色が死んでるわ。こっちにしなさい」
「あの、裕里子さん。俺、お金ないんですけど……」
「経費よ。あんたのその格好、ウチの品位に関わるの」
品位。
窓ガラスを爆破して逃げる組織に品位も何もあるのだろうか。
だが、逆らうとここで関節を極められそうなので、俺は大人しく着せ替え人形になった。
30分後。
鏡の前には、見違えるような男が立っていた。
ダークネイビーのイタリア製スリムスーツ。白のワイドカラーシャツに、ボルドーのニットタイ。髪もワックスで整えられ、無精髭も綺麗に剃られている。
自分で言うのもなんだが、かつて大学時代に「イケメン」と呼ばれていた頃の面影が、奇跡的に復活していた。
「……へぇ」
ソファで足を組んで雑誌を読んでいた裕里子が、顔を上げて俺を見た。
サングラスを少しずらし、大きな瞳で俺を頭のてっぺんからつま先まで値踏みするように見つめる。
「悪くないじゃない。素材は良かったのね、素材は」
「どうも。……中身が腐ってるみたいに言わないでください」
「中身はこれから鍛え直すのよ。店員さん、これ全部包んで。あと、靴も新調するわ」
裕里子はブラックカードを取り出し、支払いを済ませた。
総額、50万円オーバー。
俺の借金がまた増えた音がした気がするが、もう気にしないことにした。
「さあ、次は食事よ。ついてきなさい」
店を出ると、銀座の歩行者天国は多くの人で賑わっていた。
裕里子は人混みをものともせず、颯爽と歩いていく。ヒールの音がカツカツと心地よいリズムを刻む。
俺は新品の革靴に足を痛めながら、必死にその後ろをついていく。
ふと、裕里子が足を止めた。
ショーウィンドウの前で、何かを見つめている。
そこには、可愛らしいピンク色のマカロンタワーが飾られていた。
「……マカロン」
「え? お好きなんですか?」
「食べたことないわ。テレビで見たけど、普通のOLはこういうのを食べて『映える~』って言うんでしょ?」
偏見がすごい。
だが、その横顔は、破壊工作を行う時の冷徹な「エージェント」の顔ではなく、初めて見るものに興味津々な「少女」のようだった。
「食べてみますか? ここ、有名店ですよ」
「……任務なら、仕方ないわね」
任務扱いなのか。
俺たちはカフェに入り、マカロンと紅茶のセットを注文した。
オープンテラスの席で、向かい合って座る。
周囲から見れば、銀座でデートを楽しむお洒落なカップルに見えるかもしれない。会話の内容が「次の潜入ルート」でなければ。
「いい? サトル。スーツを買ったのは、ただのコスプレじゃないわ」
「分かってます。身なりを整えないと、怪しまれますからね」
「それもあるけど、一番の理由は『スイッチ』よ」
裕里子はマカロンを器用にフォークで突き刺し、口に運んだ。
「あんたは長年、社畜として『自分を殺すこと』に慣れすぎていた。ヨレヨレのスーツは、あんたの自信のなさの象徴。新しい鎧を着て、背筋を伸ばしなさい。そうすれば、中身も少しはマシになるわ」
俺はハッとした。
彼女は、俺の見た目を変えたかったんじゃない。
死んだ魚のようだった俺の精神を、形から入ることで叩き直そうとしてくれたのか。
「……ありがとうございます。裕里子さん」
「勘違いしないで。優秀な手駒になってもらわないと困るだけよ。……ん、これ甘いわね。砂糖の塊じゃない」
文句を言いながらも、彼女はマカロンを完食した。
口元に少しだけクリームがついている。
俺が指摘しようとした時、彼女の目つきが鋭く変わった。
「サトル、伏せて」
低い声。
俺が反応するより早く、彼女はテーブルの上のフォークを掴み、背後に向かって投げた。
ヒュンッ!
カァン!
金属音が響く。
振り返ると、テラス席の入り口付近にいた男の足元に、フォークが突き刺さっていた。男の手からは、小型のカメラが落ちていた。
「……チッ」
男は舌打ちをすると、人混みに紛れて逃げ出した。
盗撮? いや、あんなプロっぽい動き、ただの盗撮魔じゃない。
「追わなくていいんですか?」
「いいわ。ただの下見よ。……どうやら、昨夜の派手な花火で、少し目立ちすぎたみたいね」
裕里子は何事もなかったかのように紅茶を啜った。
周囲の客は、何が起きたのか気づいていない。
「……裕里子さん、今の男は?」
「同業者か、あるいは敵対組織の斥候。この業界、足の引っ張り合いは日常茶飯事よ」
彼女は不敵に笑う。
「面白くなってきたじゃない。サトル、デートは終わりよ。帰って作戦会議だわ」
「え、まだマカロン残ってますけど」
「包んでもらいなさい。アストリッドへのお土産にするわ」
裕里子は立ち上がり、伝票を俺に押し付けた。
俺は慌てて会計を済ませ、彼女の後を追った。
帰り道。
助手席から見る彼女の横顔は、先ほどまでの「少し変わった女性」の顔から、再び冷徹な「指揮官」の顔に戻っていた。
でも、俺は知っている。
彼女がマカロンを食べる時、少しだけ嬉しそうに目を細めていたことを。
そして、俺のためにわざわざ高いスーツを選んでくれた、不器用な優しさを。
「……似合ってるわよ、そのスーツ」
信号待ちで、彼女がボソッと言った。
俺はネクタイを締め直し、背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。……総務部長として、恥ずかしくない働きをしますよ」
「期待してるわ。……まずは今夜の夕食作りからね」
車は夕暮れの東京を走り抜ける。
再就職先は、確かに犯罪組織かもしれない。
命の値段は10万円だし、敵には狙われるし、上司は爆弾魔だ。
それでも。
あの無機質なオフィスで死にかけていた時より、今の俺は生きていた。
こうして、俺の「ミッドナイト・エグジット」での最初の一日は、波乱含みのまま幕を閉じた。
明日から本格的な業務――つまり、誰かの「退職」をかけた戦いが始まる。
新しいスーツのポケットには、まだ微かにマカロンの甘い香りが残っていた。




