サイドストーリー 偽りのヒロイン、その末路
カビ臭い匂いが、鼻をつく。
薄い壁の向こうからは、隣人の生活音が筒抜けに聞こえてくる。テレビの音、子供の泣き声、夫婦喧嘩の怒号。
それが、今の私の世界のBGMだ。
「おい、酒ないぞ。買ってこいよ」
背後から投げつけられた声に、私はビクリと肩を震わせた。
振り返ると、万年床の上でスマホをいじっている男――北条タクミがいる。
かつてはイタリア製のスーツを着こなし、自信に満ち溢れていた「ベンチャー企業の若き役員」。
けれど今の彼は、伸びきった無精髭に、ヨレヨレのスウェット姿。その目は濁り、常に何かに怯えているか、苛立っているかのどちらかだ。
「……お金、もうないわよ。昨日、あんたがパチンコで擦ったから」
「あぁ? なんだその言い草は。誰のせいでこんな暮らししてると」
「またそれ? 耳にタコができるわ」
私は溜息をつき、逃げるように狭い台所へ向かった。
水道の蛇口をひねると、錆の味がしそうな水が出てくる。それをコップに注ぎ、一気に飲み干す。
冷たい水が喉を通るたび、胸の奥にある焼けるような後悔が疼きだす。
どうして、こうなったんだろう。
ほんの数ヶ月前まで、私は世界の中心にいたはずだった。
優しい夫、新築のマンション、何不自由ない生活。
でも、それだけじゃ足りなかった。
私はもっと輝きたかった。悲劇を乗り越えて幸せを掴む、ドラマのヒロインのように。
そう、あの日までは、私が描いた脚本通りに進んでいたはずだったのに。
◇
私の元夫、相沢和也は「つまらない男」だった。
それが、私が彼を裏切った一番の理由だ。
彼は真面目だけが取り柄の商社マン。
毎日決まった時間に起きて、決まった時間に帰ってくる。
「ただいま」「飯、美味いな」「ありがとう」
彼の口から出る言葉は、いつも同じ。感情の起伏がなく、まるで高性能なロボットと暮らしているみたいだった。
給料は悪くないし、家事も手伝ってくれる。暴力を振るうわけでもないし、ギャンブルもしない。
世間一般から見れば「優良物件」なのかもしれない。
でも、私にはそれが息苦しかった。
「ねえ和也、週末どこか行かない?」
「ああ、いいよ。どこがいい? レイナの行きたいところで」
「……なんでもいいの?」
「うん。レイナが楽しんでくれるのが一番だから」
その「君に合わせるよ」というスタンスが、私には「君に関心がないから、適当に決めてくれ」と言われているように聞こえた。
刺激がない。情熱がない。
私はまだ二十代なのに、このままこの男と、死ぬまで平穏で退屈な日々を過ごすのかと思うと、ゾッとした。
そんな時だった。大学時代の同期会で、北条タクミと再会したのは。
「レイナちゃん、久しぶり! めっちゃ綺麗になったねー!」
タクミは眩しかった。
派手なブランド物を身につけ、自信たっぷりに仕事の自慢話をする。
私の話を身を乗り出して聞いてくれて、「えー、マジで? 和也のやつ、そんなにつまんないの? レイナちゃんみたいなイイ女を放置するとか、ありえねーわ」と共感してくれた。
彼といると、私は「女」として扱われている実感が持てた。
ドキドキするような背徳感。
和也にはない、強引さと危険な香り。
私はあっという間に、タクミとの不倫関係に溺れていった。
「ねえレイナ。和也と別れて、俺と一緒にならない?」
ホテルのベッドの中で、タクミが甘い声で囁いた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
それは、私が待ち望んでいた言葉だった。
でも、ただ別れるだけじゃ損だと思った。
だって、私は貴重な二十代の数年間を、あの退屈な男に捧げたのだから。
「でも、普通に離婚しても、私には何も残らないし……」
「大丈夫だって。俺にいい考えがある」
タクミは悪戯っ子のような顔で笑った。
「あいつを悪者にしちゃえばいいんだよ。『DV夫』に仕立て上げてさ」
「えっ、DV? でも和也、暴力なんて振るわないよ?」
「だから、『仕立て上げる』んだよ。精神的DV、経済的DV、モラハラ……今の世の中、言ったもん勝ちだからさ。女の涙は最強の武器だぜ?」
その提案を聞いた時、私の心に黒い火が灯った。
それは、背徳的な興奮だった。
あの真面目くさった和也が、私のついた嘘で慌てふためき、社会的に抹殺される。
想像するだけで、ゾクゾクした。
それは退屈な日常への、最高のリベンジになると思った。
それからの日々は、まるでスパイ映画の主人公になった気分だった。
和也が仕事で疲れて黙っているのを「無視された」とメモに残す。
彼が将来のために貯金しているのを「経済的虐待」と友人に吹聴する。
私の嘘に、周囲は簡単に騙された。
親も、友人も、みんな私の味方をしてくれた。
「可哀想に」「辛かったね」「協力するよ」
みんなが私を「悲劇のヒロイン」としてチヤホヤしてくれる。その快感に、私は酔いしれた。
特に楽しかったのは、証拠の捏造作業だ。
「見てタクミくん! このアイシャドウで描いた痣、すごくない?」
「すげー! 本物みたいじゃん。これ写真撮って親に送ろうぜ」
「うん! 和也のやつ、今頃会社で白い目で見られてるのかな」
「間違いないね。あいつの人生、もうボロボロだよ」
タクミのマンションで、二人で笑い転げながら動画を撮った。
私たちは万能感に包まれていた。
真面目に生きるなんて馬鹿らしい。
少し頭を使えば、他人の人生なんて簡単にコントロールできるんだ。
和也から奪った慰謝料で、タクミと新しい生活を始める。
それは、私にとって輝かしい「ハッピーエンド」への序章のはずだった。
◇
そして運命の日。
ホテル・グランヴィアでのパーティー。
私は純白のドレスに身を包み、スポットライトを浴びていた。
「レイナさん、おめでとう!」
「頑張ったね!」
会場中からの拍手と歓声。
私はマイクを握り、涙ながらにスピーチをした。
「暗いトンネルの中にいました」「彼が私を救い出してくれました」
事前に用意した台詞を言うたびに、会場の同情と感動が高まっていくのを感じた。
最前列ではパパとママが泣いている。
ごめんね、パパ、ママ。でも、これは私が幸せになるために必要な演出なの。
私は心の中で舌を出して笑っていた。
ああ、なんて気持ちがいいんだろう。
私は今、世界で一番愛され、祝福されている。
和也という悪役を倒し、王子様と結ばれるプリンセス。
最高の気分だった。
あの男が現れるまでは。
「……よお。盛り上がってるみたいだな」
ステージに上がってきた和也を見た時、私は心臓が止まるかと思った。
なんで? なんでここにいるの?
あんたは家で一人、離婚届を見つめて泣いているはずでしょ?
でも、和也は笑っていなかった。怒ってもいなかった。
ただ、氷のような無表情で私を見ていた。
その目が、怖かった。
私が知っている「優しくて退屈な和也」じゃない。
もっと冷たくて、鋭い、私の知らない男の目。
「か、和也!? なんでここに!?」
タクミが追い払おうとしたけれど、和也は動じなかった。
そして、悪夢が始まった。
スクリーンに映し出された映像。
そこには、私が鏡に向かって痣メイクをしている姿が映っていた。
楽しそうに笑いながら、和也の悪口を言っている私とタクミ。
嘘でしょ?
なんでこんな映像があるの?
誰が撮ったの?
思考が追いつかない。
『親戚一同巻き込んでフルボッコにするの楽しみ~』
会場に響き渡る自分の声。
それは、あまりにも下品で、残酷で、愚かな声だった。
さっきまでの温かい拍手が、冷たい沈黙に変わり、やがて激しい怒りの波となって押し寄せてきた。
「嘘……違う……これは……」
言い訳をしようとしたけれど、声が震えて出ない。
客席を見渡すと、友人たちが鬼のような形相でスマホを見ている。
パパが、顔を真っ赤にしてステージに駆け上がってくるのが見えた。
「パ、パパ……違うの……」
バチンッ!!
頬に走った激痛。
目の前が真っ白になった。
殴られた? 私が? パパに?
一度も手を上げられたことなんてなかったのに。
「恥を知れ!!」
パパの怒鳴り声が、鼓膜を破りそうだった。
その目には、軽蔑しかなかった。
愛されていたはずの娘を見る目じゃない。汚らわしい害虫を見るような目。
「ち、違うの……パパ、聞いて……」
すがりつこうとした手を、パパは乱暴に振り払った。
ママも顔を覆って泣き崩れている。
タクミは取引先の人たちに詰め寄られ、無様に言い訳をしている。
友人たちは冷ややかな目で私を見下ろし、次々と会場を出て行く。
ドレスが汚れるのも構わず、私は床にへたり込んだ。
私の「ハッピーエンド」が、音を立てて崩れ落ちていく。
ガラガラと、何もかもが。
まるで積み木崩しのように。
最後に見た和也の顔。
彼は、泣いてすらいなかった。
ただ憐れむように、ゴミを見るような目で私を一瞥し、背を向けた。
「おめでとう。これがお前たちが望んだ真実だ」
その言葉だけを残して。
待って。行かないで。
和也、あなたがいないと私……。
心の中で叫んだけれど、声にはならなかった。
私は一人、スポットライトの下に取り残された。
そこはもう、祝福の舞台ではなく、断罪の処刑台だった。
◇
あれから、私の人生は坂を転がり落ちるようだった。
実家を勘当され、着の身着のまま放り出された。
友人に連絡しても、全員に着信拒否されていた。
SNSを開けば、私の顔写真と本名が晒され、「稀代の悪女」「虚言癖」と罵る言葉で埋め尽くされている。
道を歩けば、誰かが私を見てヒソヒソと話す。
コンビニで弁当を買うだけで、店員に「あ、あの動画の……」という目で見られる。
逃げ場はなかった。
唯一残ったのは、同じように全てを失ったタクミだけ。
でも、そのタクミとの生活も地獄だった。
お金がない。職がない。
二人で狭いアパートに転がり込み、日雇いのバイトで食いつなぐ日々。
かつての煌びやかな生活は見る影もない。
「おい! 聞いてんのか!」
タクミの怒鳴り声で、私は我に返った。
現実に戻される。
薄暗い部屋。散乱したゴミ。不機嫌な男。
「……聞いてるわよ」
「聞いてねーだろ! 腹減ったっつってんだよ! なんか作れ!」
「材料がないって言ってるでしょ! 文句があるなら、あんたが稼いできてよ!」
「うるせえ! お前があんな計画立てなきゃ、俺は今頃社長だったんだ!」
ドカッという音と共に、タクミが近くにあった座布団を蹴り上げた。
埃が舞い上がる。
私は咳き込みながら、涙が溢れてくるのを止められなかった。
「……和也なら、こんなことしなかった」
思わず、口をついて出た言葉。
タクミの動きが止まった。
「あぁ? なんだって?」
「和也は……怒鳴ったりしなかった。いつも『ありがとう』って言ってくれた。私が何もしなくても、文句ひとつ言わずに働いて、私を守ってくれてた……」
そう、あの退屈だと思っていた日々。
それは「退屈」なんかじゃなかった。
「平和」だったんだ。
「安心」だったんだ。
何も心配することなく、ただそこにいるだけで許されていた、温かい場所。
私は自分から、その場所を壊した。
ダイヤの指輪をドブに捨てて、メッキが剥がれた石ころを拾ったんだ。
「だったら戻ればいいだろ! 今さら泣き言ほざいてんじゃねえよ!」
「戻れるわけないじゃない……!」
私は叫んだ。
そう、戻れるわけがない。
私が彼にしたことは、決して許されることじゃない。
彼はもう、新しい人生を歩んでいるはずだ。
風の噂で聞いた。彼は昇進して、新しいマンションを買ったらしい。
そこにはきっと、私なんかよりずっと素敵な、誠実な女性がいるのだろう。
彼が私に向けていたあの優しい笑顔を、その女性に向けているのだろう。
想像するだけで、胸が張り裂けそうになる。
それは私が持っていたものだった。
私が独り占めしていたものだった。
「うぅ……うあぁぁ……」
私は膝を抱えて泣き崩れた。
薄い壁の向こうから、「うるせえぞ!」と隣人の怒鳴り声が聞こえてくる。
ここは地獄だ。
でも、この地獄を作ったのは、他の誰でもない私自身。
スマホの画面が光る。
SNSの通知だ。まだ私への誹謗中傷は続いている。
『一生苦しめ』『ざまぁみろ』
その文字を見るたびに、私は自分が犯した罪の重さを思い知らされる。
窓の外では雨が降っている。
かつて私が住んでいたタワーマンションから見下ろした夜景は、宝石のように綺麗だった。
でも今、すりガラスの向こうに見えるのは、灰色のコンクリートと、出口のない絶望だけ。
私はこれからも、この男と泥沼の中で生きていくしかない。
愛など欠片もない、罵り合いと貧困の日々。
それが、悲劇のヒロインを気取った私に与えられた、お似合いのエンディングロールだった。




