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第二話 沈黙の蒐集

重苦しい沈黙が、和室の空気を澱ませていた。

レイナの実家の客間。上座には彼女の両親が座り、その横でレイナがハンカチを目元に当てて肩を震わせている。

対面に座る俺、相沢和也は、畳の目を数えるように視線を落としていた。正座した足が痺れ始めているが、崩すわけにはいかない。これは「話し合い」という名の、一方的な断罪の場なのだから。


「……和也くん。君を息子のように思っていただけに、本当に残念だよ」


口火を切ったのは、レイナの父親だった。厳格な元公務員で、曲がったことが大嫌いな義父。その義父が、今はまるで犯罪者を見るような目で俺を睨みつけている。

義母もまた、涙ながらに訴えかけてきた。


「あの子がここまで追い詰められるまで、私たちは何も気づいてあげられなかった……。あんなに明るかったレイナが、あなたの顔色を伺ってビクビクするようになるなんて。一体どういうつもりで、あの子を虐げていたの?」

「お義母さん、それは誤解です。俺はレイナに手を上げたことは一度もありませんし、生活費だって十分な額を……」

「言い訳は聞きたくありません!」


義母が金切り声を上げ、俺の言葉を遮った。


「レイナから全部聞いてますよ。あなたが『俺が稼いだ金だ』と言って、あの子に百円単位で家計簿をつけさせていたことも。気に入らないことがあると、何日も口をきかずに無視し続けたことも! それがDVでなくて何なんですか!」


俺は思わず唇を噛んだ。

百円単位の家計簿? それはレイナ自身が「節約して海外旅行に行きたいから」と言い出して始めたことだ。俺はむしろ「そこまでしなくていい」と止めたくらいだ。

無視? 彼女がスマホゲームに夢中で、俺の「おはよう」や「ただいま」を無視し続けていたのはどっちだ。


事実を捻じ曲げられ、悪意ある解釈で塗り固められている。

チラリとレイナを見ると、ハンカチの隙間からこちらを伺うような視線と目が合った。彼女は一瞬だけ口角を歪めて笑い、すぐにまた「ヒック、うぅ……」と泣き真似を再開した。


(……なるほど。そういう筋書きか)


俺の中で、何かが完全に冷え切った。

この場で反論しても無駄だ。彼女の両親は完全に娘の言葉を信じ切っている。ここで俺が声を荒らげれば、それこそ「逆上したDV夫」の証拠として扱われるだけだろう。

俺はスーツの内ポケットで回し続けているボイスレコーダーの存在を意識しながら、深く頭を下げた。


「……申し訳ありません。私の配慮が足りず、レイナを不安にさせてしまったことは事実です」

「認めるのね?」


義父が鋭く問う。


「夫婦間の認識のズレがあったことは認めます。ですが、私はまだレイナを愛していますし、離婚については時間をかけて話し合いたいと思っています」

「ふざけるな! これ以上娘を地獄に付き合わせる気か!」


義父が座卓を叩いて激昂する。

レイナが怯えたように義母にしがみつき、「怖い……パパ、和也さんが怒ってる時の目になってる……」と震えてみせた。

完璧な演技だ。女優にでもなればよかったのに。


「もういい。話にならん。弁護士を通じて離婚の手続きを進める。慰謝料もきっちり請求させてもらうから覚悟しておけ。二度とこの家の敷居を跨ぐな!」


「……分かりました。本日はこれで失礼します」


罵声を背に受けながら、俺は逃げるようにレイナの実家を後にした。

玄関を出た瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになる。

悔しさで握りしめた拳に、爪が食い込んで血が滲んでいた。


義父母のことは尊敬していた。俺の両親が早くに他界していたこともあり、本当の親のように慕っていたのだ。その信頼関係さえも、レイナは自らの欲望のために粉々に砕いた。

タクミという男と一緒になるために、これまでの全てを踏みにじって。


「……絶対に、タダでは済ませない」


夜風に当たりながら、俺は改めて誓った。

この屈辱は、必ず倍にして返してやる。


翌日からの日々は、針のむしろだった。

職場での噂は収まるどころか、さらに悪化していた。どうやらSNSで拡散されているらしい。

昼休み、俺はスマホを取り出して、あるアカウントをチェックした。

『Taku_CEO』というユーザー名。北条タクミのアカウントだ。

プロフィールには「某ベンチャー役員。理不尽な世の中を変えたい」などと、意識の高い言葉が並んでいる。

最新の投稿には、数千件の「いいね」がついていた。


『友人の女性(A子さん)の話を聞いて、怒りで震えてる。大手商社勤務の旦那から、陰湿なモラハラと経済DVを受けていたらしい。外面がいい男ほど、家庭では暴君になる典型的なケース。俺が全力で彼女を守るし、そんな男は社会から抹殺されるべきだと思う。みんなもそう思うだろ? #モラハラ #DV許さない #拡散希望』


名前こそ伏せているが、「大手商社勤務」というワードや、リプライ欄での匂わせ発言により、見る人が見れば俺のことだと特定できるようになっていた。

コメント欄には、俺への罵詈雑言が溢れている。


『最低な男ですね。会社に凸してやりたい』

『奥さん可哀想……逃げて正解です』

『こういう男は死ぬまで治らないから、社会的制裁が必要』


見ず知らずの他人が、正義の味方気取りで俺に石を投げつけてくる。

タクミはそれを煽るように、『A子さんは今、安全な場所で保護しています。俺が責任を持って幸せにします』と追記していた。

保護? ふざけるな。お前のマンションで不倫を楽しんでいるだけだろう。


胃の奥がキリキリと痛む。

だが、俺は画面を閉じることなく、全ての投稿とコメントをスクリーンショットで保存した。これもまた、彼らを追い詰めるための重要な「燃料」になる。


「相沢、ちょっといいか」


声をかけられ、びくりと肩が跳ねた。

振り返ると、直属の上司である大友部長が立っていた。強面だが部下思いで、俺が新人の頃から目をかけてくれている恩人だ。

周囲の社員たちが「ほら、やっぱり呼び出された」と視線を交わすのが分かる。


「はい、何でしょうか」

「会議室へ。少し話がある」


重い足取りで部長の後についていく。

会議室のドアが閉まり、密室になると、大友部長は腕を組んで俺を見据えた。


「単刀直入に聞くぞ。巷で流れているお前の噂……あれは本当か?」


部長の目は真剣だった。興味本位ではなく、真実を見極めようとする目だ。

俺は一瞬迷ったが、覚悟を決めた。

このまま孤立無援で戦うのは得策ではない。社内に一人でも、真実を知る味方が必要だ。そして大友部長なら、感情論ではなく証拠で判断してくれるはずだ。


「……いいえ、部長。全て事実無根です」

「そうか。お前がそう言うなら信じたいが、火のない所に煙は立たぬと言うだろう。奥さん側があそこまで騒いでいるのには、何か理由があるんじゃないのか?」

「理由はあります。ですが、それは私のDVではありません」


俺は鞄から、興信所から届いたばかりの茶封筒を取り出した。

まだ開封していなかったが、中身は分かっている。


「これは……?」

「私の潔白と、妻とその不倫相手が仕組んだ罠の証拠です。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかこれを見て判断してください」


部長は怪訝な顔で封筒を受け取り、中身を取り出した。

そこに入っていたのは、数枚の写真と、詳細な調査報告書だった。

写真には、レイナとタクミがラブホテルから出てくる姿、路上でキスをする姿、そしてタクミのマンションに出入りする様子が鮮明に写っていた。


「なっ……これは……」

「相手の男は、私の大学時代の同期です。彼らは私がDV夫であるという嘘の噂を流し、私を社会的に抹殺した上で、慰謝料を奪って再婚しようとしています」


俺はICレコーダーを取り出し、あの夜に録音した二人の会話の一部を再生した。

『社会的に抹殺してやろうぜ』『泥水すすらせてやりたいんだよね』というタクミの声と、それに同調して笑うレイナの声が、会議室に響く。


部長の表情が、驚きから険しいものへと変わっていった。

再生が終わると、彼はデスクをドン! と拳で叩いた。


「……なんて胸糞の悪い話だ。こんなことが許されてたまるか」

「今、弁護士と相談して反撃の準備を進めています。ただ、会社にご迷惑をおかけしていることは事実です。処分が必要なら受け入れます」

「馬鹿を言うな! 被害者が処分されてどうする」


大友部長は報告書を封筒に戻し、俺に突き返した。


「分かった。会社としては、私的なトラブルには不干渉が原則だが、社員が不当な攻撃を受けているなら話は別だ。上層部への説明は俺が引き受ける。お前は堂々としていろ」

「部長……ありがとうございます」


頭を下げると、視界が滲んだ。

誰かに信じてもらえることが、これほど救いになるとは思わなかった。

これで、背後の憂いは断たれた。あとは、敵を討つだけだ。


数日後の週末。

俺は都内の喫茶店で、私立探偵の神崎と向かい合っていた。

神崎は四十代半ばの、くたびれたコートを着た男だが、その調査能力は超一流だ。


「依頼された件、さらに面白いものが取れましたよ」


神崎はニヤリと笑い、タブレット端末を俺に差し出した。


「奥さんと間男さんのLINEのやり取りです。彼ら、脇が甘いというか、パスワードもかけずにクラウドにバックアップを取っていたようでしてね。解析班が引っこ抜いてきました」


画面に表示されたのは、目を覆いたくなるような悪意の羅列だった。


『ねえタクミくん、この痣メイクどう? リアルに見える?』

『すげー! 本物の痣みたいじゃん。これ写真に撮って親に見せればイチコロだな』

『でしょ? これで診断書も偽造できれば完璧なんだけどなー』

『診断書は俺の知り合いのヤブ医者に頼めばなんとかなるって。それより、昨日の和也の顔見た? 葬式みたいでウケたわw』

『見た見たw まじ哀れ。早くあのマンション売って、新しい新居の頭金にしよ♡』


スクロールする指が震える。

彼女が親に見せていた「暴力を受けた痕」は、メイクだったのか。

俺が苦しんでいる姿を、二人は酒の肴にして笑っていたのか。


「……それと、これが決定的なやつです」


神崎が次のファイルを開く。

それは動画だった。

場所はタクミのマンションのリビング。二人がソファで絡み合いながら、カメラに向かって話している。


『はーい、和也見てるー? お前が会社で白い目で見られてる頃、俺たちはこうやって愛し合ってまーす』

『和也さん、今までご苦労様。あなたの稼いだお金、私たちが有効活用してあげるからね。感謝してよね』


その後は、見るに堪えない行為の映像が続いていた。

俺は静かにタブレットを伏せた。

吐き気がするほどの嫌悪感とともに、奇妙なほど冷静な自分がいた。

これで、完全に詰んだ。

彼らは自ら、言い逃れのできない証拠を残してくれたのだ。


「十分です。ありがとうございます」

「それから、もう一つ情報があります。彼ら、来週の土曜日にパーティーを開く予定ですよ」

「パーティー?」

「ええ。『二人の新しい門出を祝う会』だそうで。表向きはタクミ氏の会社の創立記念パーティーですが、実際には二人の婚約発表も兼ねているとか。奥さんのご両親や、タクミ氏の会社の関係者、共通の友人たちを招待しているようです」


俺は耳を疑った。

まだ離婚も成立していないのに?

俺との話し合いが終わっていない段階で、すでに「勝利」を確信して祝杯をあげようというのか。

どれだけ俺を舐めれば気が済むんだ。

いや、彼らにとって俺はもう「終わったコンテンツ」であり、取るに足らない存在なのだろう。


「場所は?」

「港区のホテル・グランヴィアのバンケットルームです。招待客リストも入手しました。見てみますか?」


リストには、レイナの両親、俺たちの大学時代の友人、そしてタクミの会社の取引先などの名前が並んでいた。

その中には、俺を信じてくれている大友部長の名前はなかったが、俺をSNSで批判していた友人たちの名前はあった。

彼らは皆、レイナとタクミの嘘を信じ、二人を祝福するために集まるのだ。


「……最高の舞台ですね」


俺はぽつりと呟いた。

神崎が口の端を吊り上げる。


「やりますか?」

「ええ。やります。彼らが一番幸せの絶頂にいる瞬間に、全てをひっくり返してやります」


俺の中で、パズルのピースがカチリと嵌った。

ただ証拠を突きつけて離婚するだけでは生温い。

彼らは俺を社会的に抹殺しようとした。ならば、俺も同じ方法で返すのが礼儀というものだろう。

親族、友人、仕事仲間。彼らにとって大切な「世間体」が集まるその場所で、彼らの本性を暴き出す。


「神崎さん、お願いがあります。この動画と音声を編集して、一本の『記念ムービー』を作ってほしいんです」

「お安い御用です。演出はお任せを。プロ顔負けの感動的な……いや、衝撃的な作品に仕上げてみせますよ」


店を出ると、外は雨が降り始めていた。

冷たい雨が火照った顔を冷やしてくれる。

俺はスマホを取り出し、レイナにメッセージを送った。


『分かった。離婚の条件について、君の要求を全面的に呑もうと思う』


すぐに既読がついた。


『やっと分かってくれたのね。最初からそうすればよかったのに。弁護士から書類を送るから、すぐにサインして』

『ああ、分かった。……最後に一つだけ。君たちの幸せを願っているよ』

『ふふ、ありがとう。あなたも、まあ頑張ってね』


画面越しの彼女の、勝ち誇った顔が目に浮かぶようだ。

これで彼らの警戒心は完全に解けるだろう。

俺は無抵抗に白旗を上げた敗北者。そう思い込ませておけばいい。

油断し、慢心し、高笑いしている時こそが、最も隙ができる瞬間なのだから。


俺は雨空を見上げた。

来週の土曜日。

それが、お前たちの「終わりの始まり」だ。


俺は濡れるのも構わず、駅へと歩き出した。

その足取りは、昨日までとは違い、確かな目的と力強さに満ちていた。

溜まりに溜まった鬱憤を、全て晴らすその時のために。

俺は「敗者」の仮面を被り、その日を待つ。

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