第一話 濡れ衣と裏切りの構図
オフィスの空調が、微かな駆動音を立てて回っている。
蛍光灯の白々しい光がデスクを照らし、俺、相沢和也は、目の前に積み上げられた書類と向き合っていた。中堅商社の営業二課、課長代理という肩書きは、響きこそ悪くないが、実態は上層部と現場の板挟みになる中間管理職そのものだ。
キーボードを叩く乾いた音だけが響く静寂。だが、今日の空気はいつもと明らかに違っていた。
背中じゅうに、無数の視線が突き刺さるような感覚がある。粘着質で、好奇と軽蔑が入り混じった不快な視線。
俺がコーヒーを入れようと席を立つと、給湯室の方からヒソヒソとした話し声が聞こえてきた。
「……ねえ、聞いた? 相沢さんの話」
「ああ、奥さんのやつだろ? まさかあの人がねえ」
「真面目そうな人ほど裏で何してるか分からないって言うし。DVなんでしょ?」
「最低だよね。経済的にも締め付けてたらしいよ。奥さん、着る服も買えないって泣いてたって噂だし」
俺が給湯室の入り口に姿を見せた瞬間、その会話はぴたりと止んだ。
女性社員たちが気まずそうに目を逸らし、逃げるようにすれ違っていく。その後ろ姿を見送りながら、俺は沸き立つような吐き気を必死に押し殺した。
ここ数日、社内で根も葉もない噂が流れていることには気づいていた。
俺が妻に暴力を振るっている。生活費を渡さず虐待している。
一体どこからそんな話が湧いて出たのか見当もつかない。俺は酒も飲まないし、ギャンブルもしない。給料のほとんどは将来のマイホーム資金と、妻であるレイナのために使っているつもりだ。
残業で疲れた体に鞭打ち、休日にはレイナの希望でショッピングモールへ車を出し、彼女が欲しがる服や化粧品を買うのが唯一の楽しみだった。
「……誤解だと言って、誰が信じるんだ」
独り言は、誰の耳にも届くことなく虚空に消えた。
反論すればするほど、「DV加害者は自分が正しいと思っている」というステレオタイプに当てはめられるだけだ。この重苦しい空気に耐えながら、俺は定時を少し過ぎたところで会社を出た。
帰宅の足取りは重かった。
築浅の分譲マンション。結婚三年目にしてようやく手に入れた、俺たちの城。
だが最近、このドアを開けるのが怖い。
妻のレイナは、かつてのような屈託のない笑顔を見せてくれなくなった。俺が話しかけてもスマホから目を離さず、生返事ばかり。料理も作らなくなり、俺がコンビニ弁当を食べていても、「ふーん」と一瞥するだけだ。
ガチャリ、と鍵を開ける。
リビングのドアを開けると、そこには予想外の光景があった。
いつもならソファでスマホをいじっているはずのレイナが、ダイニングテーブルにつき、腕組みをして俺を待ち構えていたのだ。
テーブルの上には、一枚の紙が置かれている。
その横には、すでに荷造りを終えたらしい大きなキャリーケースが鎮座していた。
「……ただいま、レイナ。その荷物は、どうしたんだ?」
努めて冷静に声をかける。
レイナは長いまつ毛を伏せたまま、冷ややかな声で言った。
「座って。大事な話があるの」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
スーツの上着を脱ぐのも忘れ、俺は彼女の向かい側に腰を下ろす。
レイナはゆっくりと顔を上げ、俺を睨みつけた。その目には、軽蔑とも憐れみとも取れる色が浮かんでいる。
「和也。私たち、離婚しましょう」
頭をハンマーで殴られたような衝撃だった。
言葉の意味を理解するのに数秒かかり、俺は掠れた声で問い返す。
「……離婚? いきなり、何を言ってるんだ。俺たち、先月マンションを買ったばかりじゃないか。それに、俺が何か君に不満を抱かせるようなことをしたか?」
「不満? 不満なんてレベルじゃないわよ」
レイナは嘲笑うように鼻を鳴らし、テーブルの上の紙を指先で弾いた。それは、離婚届だった。すでに彼女の署名と捺印が済んでいる。
「和也、あなたは自分が何をしてきたか、本当に分かってないのね。それが一番怖いのよ」
「だから、何をしたって言うんだ」
「暴力よ。耐えられないほどの暴力」
俺は絶句した。
暴力? 俺が?
虫一匹殺せないと笑われてきた俺が、最愛の妻に手を上げたことなど一度たりともない。
「嘘をつくな! 俺がいつ君を殴った!?」
「ほら、そうやってすぐ大声を出す。それがもう暴力なのよ」
レイナは勝ち誇ったように言った。
「それに、身体的なものだけが暴力じゃないわ。あなたが毎日、仕事で疲れたフリをして私を無視するのも『精神的DV』。私が自由にお金を使えないように管理するのも『経済的DV』。弁護士さんにも相談したけど、あなたのやってることは立派なモラハラで、離婚事由になるって言われたわ」
頭がくらくらする。
仕事で疲れて会話が減ったことを、無視と捉えるのか?
将来のために貯蓄計画を立て、お小遣い制ではなくクレジットカードの家族カードを渡して、「月十万までは自由に使っていい」としていたあれが、経済的虐待なのか?
「待ってくれ、レイナ。それはあまりにも一方的な解釈だ。俺たちは話し合ってルールを決めたはずだろう? それに、弁護士って……いつの間にそんな」
「もう遅いのよ。私、もう限界なの。あなたの顔を見るだけで動悸がするの」
レイナは演技がかった仕草で胸を押さえ、涙を浮かべてみせた。
その涙が本物ではないことを、長年連れ添った俺には直感的に分かってしまった。彼女は今、自分を「悲劇のヒロイン」に仕立て上げている。そして、その脚本を書いたのは彼女自身ではない気がした。
「慰謝料は請求させてもらうわ。あと、財産分与もね。このマンションも売却して折半。私の精神的苦痛を考えたら、それでも足りないくらいよ」
「……本気で言ってるのか」
「本気よ。私のバックには、すごく優秀な人がついてるんだから。あなたの言い訳なんて通用しないわ」
優秀な人。
その言葉が出た瞬間、俺の脳裏に一人の男の顔がよぎった。
「……そうか。分かった」
「えっ?」
俺が意外なほどあっさりと頷いたので、レイナは拍子抜けしたような顔をした。
これ以上、この場で感情的になっても意味がない。彼女は完全に洗脳されているか、あるいは意図的に俺をハメようとしている。ここで怒鳴れば、それこそ「DV夫」の証拠にされるだけだ。
「とりあえず、君の意思は分かった。だが、今すぐこの紙に判を押すことはできない。俺にも確認したいことがある」
「チッ……往生際が悪いわね。まあいいわ。どうせ勝つのは私なんだから」
レイナは立ち上がり、キャリーケースのハンドルを握った。
「今日は実家に帰るわ。両親にも全て話してあるから。これ以上私に近づこうとしたら、警察に通報するからね」
そう言い捨てて、彼女はリビングを出て行った。
玄関のドアが開く音。そして、バタンと閉まる音。
俺は数秒ほど動けずにいたが、弾かれたように立ち上がり、バルコニーへと走った。
カーテンの隙間から、マンションのエントランスを見下ろす。
夜の闇に紛れるように、一台の黒い高級外車が停まっていた。
派手なカスタムが施された、ドイツ製のSUV。
エントランスから出てきたレイナが、小走りでその車に向かう。
運転席から降りてきた男が、慣れた手つきで彼女のキャリーケースを受け取り、トランクに積み込んだ。
街灯の明かりに照らされたその男の顔を見て、俺の疑念は確信へと変わった。
北条タクミ(ほうじょう たくみ)。
大学時代の同期であり、俺が最も苦手としていた男だ。
派手好きで、口が上手く、いつも取り巻きを引き連れていた。学生時代、俺がゼミで発表した論文が教授に評価された時、彼は「地味なガリ勉のくせに」とあからさまに敵意を向けてきたことがある。
卒業後、ベンチャー企業の役員に収まったと風の噂で聞いていたが、まさかレイナと繋がっていたとは。
二人は車の前で抱き合い、あろうことか路上で濃厚なキスを交わした。
レイナが見せたことのないような、とろけるような笑顔。
タクミが俺の部屋がある階を見上げ、ニヤリと下卑た笑みを浮かべたのが見えた気がした。
「……そういうことか」
俺の中で、何かが冷たく凍りついていく音がした。
悲しみ? いや、違う。
怒り? それも通り越している。
あるのは、ただひたすらに冷徹な「殺意」に似た感情だった。
俺はバルコニーから部屋に戻ると、リビングのサイドボードに隠しておいた小型のICレコーダーを取り出した。
三日前、レイナが誰かと電話で楽しそうに話しているのを偶然聞いてしまい、違和感を覚えて仕掛けておいたものだ。
まさか、こんなに早く役に立つとは思わなかった。
震える指で再生ボタンを押す。
ノイズ交じりの音声が、静まり返った部屋に響き渡った。
『――でさ、あいつ、本当に気づいてないの? バカすぎない?』
タクミの声だ。軽薄で、人を小馬鹿にしたような笑い声。
『全然気づいてないよぉ。今日も残業だって。ホント、仕事しか能がないんだから』
レイナの声。今の冷淡な態度とは別人のような、甘ったるい声色。
『ま、そのおかげで俺たちが会えるわけだけど。でもさ、そろそろ潮時じゃね?』
『うん……。私、もうあんな陰気な人と一緒にいるの無理。タクミくんと一緒になりたい』
『じゃあ、計画通りいくか。あいつ、真面目すぎて面白みがないからさ、社会的に抹殺してやろうぜ』
俺は息をするのも忘れ、レコーダーを握りしめた。
『抹殺って?』
『簡単だよ。今の世の中、DVってレッテルを貼れば男は一発アウトだ。職場にも噂を流して、居場所をなくしてやる。あいつがコツコツ貯めた金も、マンションも、慰謝料としてふんだくってさ』
『すごーい! さすがタクミくん、頭いい! 私、あいつが困った顔するの見るの楽しみかも』
『だろ? 俺、昔からあいつのこと気に入らなかったんだよ。偉そうに正論ばっか吐いてさ。あいつが大事にしてるもん全部奪って、泥水すすらせてやりたいんだよね』
『キャハハ! 最高! じゃあ私、明日あたり切り出してみるね。泣き真似とか練習しとかなきゃ』
『おう、頼むわ。あ、もしあいつが反論してきたら、俺の知り合いの弁護士の名前出せばビビって黙るから』
『愛してるよ、タクミくん』
『俺もだよ、レイナ』
ブツッ。
音声が途切れた。
部屋には再び静寂が戻ったが、俺の心の中は轟音で満たされていた。
体中の血液が逆流するような感覚。
握りしめたレコーダーが、ミシミシと音を立てる。
俺が彼女のために積み上げてきた日々は、彼らにとって嘲笑の対象でしかなかった。
俺の誠実さは「面白みがない」と切り捨てられ、俺の労働の対価は、彼らの不倫生活の資金として奪われようとしている。
しかも、ただ別れるだけではない。
「社会的に抹殺」し、「泥水をすすらせる」ことが目的なのだ。
俺の人格を否定し、名誉を傷つけ、全てを奪い尽くして嘲笑う。
それが、彼らの計画。
「……上等だ」
口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど低く、冷え切っていた。
涙は出なかった。
代わりに、腹の底からどす黒い炎が燃え上がってくる。
許さない。絶対に許さない。
俺を陥れ、嘲笑ったことを、死ぬほど後悔させてやる。
感情的に怒鳴り散らし、彼らの思うツボにはまるような真似はしない。
俺はあくまで冷静に、事務的に、そして徹底的に、彼らを追い詰める。
俺はスマホを取り出し、以前名刺交換をしたことのある興信所の番号を探した。
時刻は二十時を回っているが、緊急対応もしているはずだ。
「……もしもし。相沢です。調査をお願いしたい件があります。……はい、クロです。証拠を、徹底的に集めてください。金に糸目はつけません」
電話を切った後、俺は暗いリビングを見渡した。
かつて幸せの象徴だったこの場所は、今や戦場へと変わった。
レイナ、タクミ。
お前たちが望んだ「泥仕合」だ。望み通り、徹底的にやってやる。
ただし、最後に泥をすするのは俺じゃない。
俺はパソコンを開き、彼らが流したデマの出所と、拡散されている範囲の特定を始めた。
画面に映る自分の顔写真と、「DV夫」「最低男」という誹謗中傷の文字。
その一つ一つを保存しながら、俺は静かに、しかし確実に、反撃の狼煙を上げたのだった。




