第四話 君の忘れたい記憶、僕だけが永遠に覚えている
【月詠詩織】
すべてを失った。
社会的信用、積み上げてきたキャリア、そしてこれから始まるはずだった輝かしい未来。あのプレスカンファレンスの日を境に、月詠詩織の世界からすべてが消え去った。
事件は瞬く間に世間に知れ渡り、詩織は「天才プログラマーを裏切った悪女」「産業スパイの共犯者」として、ネット上で激しい誹謗中傷に晒された。もちろん、勤めていたデザイン事務所も即日解雇。肩を叩かれた帰り道、スマホを開けば、友人だと思っていた人間たちのSNSには、自分を揶揄するような投稿が溢れていた。蜘蛛の子を散らすように人々は去っていき、誰に連絡しても電話に出る者はいなかった。
逮捕された鴉越然は、取り調べに対し、すべての罪を詩織になすりつけようとしていると、担当の弁護士から聞かされた。「彼女に唆された」「自分は被害者だ」と。あの甘い言葉を囁いていた男の、浅ましく、醜い自己保身。その事実が、詩織の打ちのめされた心に、さらに追い打ちをかけた。
社会的にも、精神的にも、完全に孤立した。頼れるのは、もう誰もいない。
いや、一人だけ。
詩織の脳裏に、あの穏やかな笑顔が浮かんだ。自分が裏切った、優しい元恋人、天海奏。
彼なら、きっと許してくれる。あの時、レストランで「詩織さんが幸せなら、それでいい」と言ってくれた。彼の底なしの優しさだけが、今の自分を救ってくれる唯一の蜘蛛の糸だと、彼女は信じたかった。いや、そう信じるしか、もう道は残されていなかった。
震える足で、何度も通ったタワーマンションへの道をたどる。見慣れたエントランスが、今はまるで断罪の門のようにそびえ立って見えた。恐る恐る指紋認証のパネルに指を触れると、電子音と共にオートロックが解錠された。
その事実に、詩織はわずかな希望を見出す。彼はまだ、私を拒絶していない。
エレベーターで二十階へ昇り、慣れ親しんだ部屋のドアの前に立つ。インターホンを鳴らす勇気が出ず、震える手でドアノブに触れる。祈るような気持ちで回すと、カチャリと軽い音を立て、鍵のかかっていないドアがゆっくりと開いた。
「かなで…?」
か細い声で呼びかけながら、部屋の中へ一歩、足を踏み入れる。
だが、そこに広がっていたのは、彼女の知る温かい生活空間ではなかった。
がらんどうだった。
奏がいつも座っていたソファも、二人で食事をしたテーブルも、夜中に映画を観たテレビも。二人分の歯ブラシが並んでいた洗面台も。生活の痕跡がすべて跡形もなく消え去り、モデルルームのように冷たく、空虚な空間だけが広がっていた。床には、家具を運び出した跡が生々しく残っている。
「うそ……」
呆然と立ち尽くす詩織の目に、部屋の中心の壁にポツンと貼られた一枚の紙が映った。
何かに吸い寄せられるように、彼女はふらふらと壁へと近づいていく。
そこにびっしりと、しかしどこまでも整然と書かれた無機質な文字の羅列を読んで、詩織は息を呑んだ。
それは、奏と付き合い始めてから今日この日まで、彼女がついた「嘘」の全記録だった。
日付、曜日、時間、彼女の発言内容、そしてその嘘の矛盾点を指摘する客観的な事実が、まるで裁判の証拠書類のように、事務的なまでに正確にリストアップされていた。
【202X年8月10日(水) 21:15】
発言:「今日は残業で疲れたから、コンビニでパスタ買ってきちゃった」
事実:ゴミ箱から『ミシュラン一つ星監修 高級御膳』の空箱を発見。鴉越然のSNSに同日、同店でのディナー写真が投稿されている。君の服から香ったのは、僕が知らない赤ワインの匂いだったね。
【202X年9月2日(金) 19:30】
発言:「週末は実家に帰るね」
事実:君の車のETC履歴は、箱根の高級旅館近くのインターチェンジを通過していた。通過時刻は、金曜午後8時12分。鴉越然の車の通過時刻は、その2分後の午後8時14分。偶然にしては、出来すぎていると思わないかい?
【202X年10月5日(水) 7:45】
発言:「奏って、本当に優しいよね」
事実:この発言の直前、君は鴉越然から『例の件、そろそろ頼む』というメッセージを受け取っていた。君の瞳に浮かんだのは、僕への愛情ではなく、罪悪感と憐れみの色だった。
数百にも及ぶ、嘘のリスト。
自分ではとうに忘れてしまっていたような、些細な偽り。その一つ一つが、鋭い刃となって詩織の心を容赦なくえぐっていく。
彼は、すべて知っていた。
最初から、すべてお見通しだったのだ。
それなのに、なぜ。なぜ何も言わず、あの穏やかな笑顔を向け続けていたのか。
その答えは、リストの一番最後に書かれていた。
【Final Record:今日】
君は今、この紙を読んでいるだろう。
君が僕を裏切ったあの日から、僕の世界は一度死んだ。僕の特別な記憶力は、君との幸せだった日々を、永遠に再生し続ける呪いになった。
だから、決めたんだ。
この呪いを、君にもお裾分けしてあげよう、と。
君がこれから背負っていくのは、社会的制裁や経済的損失だけじゃない。
僕がすべてを知りながら、君の嘘に気づかないフリをして、優しく微笑み続けていたあの日々の記憶だ。僕の優しさの裏にあった、静かな怒りと軽蔑を想像しながら、君はこれからの人生を生きていくことになる。
君が忘れたいと願うであろう、君自身の愚かな裏切りのすべて。
その記憶は、僕の脳内に、永遠に、完璧な形で保存され続ける。
君が後悔に苛まれるたびに、思い出せばいい。
世界のどこかに、君の罪を永遠に忘れずにいる人間が、一人いるということを。
それが、僕から君への、復讐だ。
読み終えた瞬間、詩織の膝から力が抜けた。
どさりと、冷たいフローリングの床に崩れ落ちる。
自分の浅はかな裏切りが、彼の特殊な記憶の中で、どれほど醜悪なデータとして、永遠に消えない傷として刻まれ続けていたのか。そして、彼がどれほどの絶望と怒りを押し殺し、自分にあの優しい笑顔を向けていたのか。
その地獄のような苦しみを、詩織は生まれて初めて、想像することができた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!」
誰に届くでもない謝罪の言葉が、がらんどうの部屋に虚しく響き渡る。
奏との幸せだった日々。彼を裏切った罪悪感。そして、今この瞬間の、身を切るような絶望。すべてを忘れてしまいたい。記憶を消し去ってしまいたい。そう心の底から願うが、この壁に貼られたおぞましいリストと、空っぽの部屋の光景は、きっと彼女自身の記憶にも、一生消えない烙印として焼き付いて離れないだろう。
彼女は本当の意味で理解した。
奏が彼女に与えたのは、一時的な罰ではない。
「記憶」という、永遠に続く地獄だったのだ。
◆ ◆ ◆
【天海奏】
その頃、俺、天海奏は、成田国際空港のビジネスクラスラウンジにいた。
鴉越然の事件をきっかけに、俺のAI技術は図らずも公のものとなった。その革新性は世界中の研究者の注目を集め、アメリカの著名なAI研究機関から、破格の条件でスカウトされたのだ。大学の卒業単位はとうに取得済み。俺は、すべてを清算し、新しい世界へ旅立つことを決めた。
搭乗開始を告げるアナウンスが、静かなラウンジに響く。
グラスに残っていたオレンジジュースを飲み干し、俺はゆっくりと立ち上がった。
飛び立つ飛行機の丸い窓から、小さくなっていく東京の街並みを眺める。
あの街のどこかで、詩織さんは今、絶望の淵にいるだろうか。俺の頭の中には、彼女との出会いから、愛し合った日々、そして彼女の裏切りと、復讐の完了までのすべての記憶が、完璧な解像度で保存されている。
だが、不思議なことに、もうそこに感傷や痛みはなかった。
それは、感情を伴う「思い出」ではなく、完了したプロジェクトの「記録」に過ぎない。俺の脳はすでに、次のプロジェクト――新しい世界で何を成し遂げるかという、未来の設計図を描き始めていた。
この特別な記憶力は、もはや呪いではない。未来を切り拓くための、最強の武器だ。
「さよなら、詩織さん」
俺は、誰に聞かせるともなく、静かに呟いた。
「君との楽しかった思い出も、君がついた悲しい嘘も、僕は一つ残らず、永遠に覚えているよ。それが、僕から君への、たった一つの、そして最も残酷な復讐だ」
地上の喧騒を置き去りにして、飛行機はどこまでも広がる青い空へと上昇していく。
新たな世界へと向かう俺の表情は、自分でもわかるほど晴れやかだった。
過去はすべて記録した。
もう、振り返る必要はない。




