第一話 完璧な日常に潜む、些細なノイズ
「奏、おかえり」
エントランスのオートロックを抜け、エレベーターで二十階まで昇る。部屋のドアを開けると、ふわりと甘いクリームシチューの香りと共に、世界で一番愛しい人の声が俺を迎えた。
「ただいま、詩織さん」
リビングへ続く廊下を歩くと、キッチンからひょっこりと顔を出した彼女が、人懐っこい笑みを浮かべる。大学の写真サークルの先輩だった月詠詩織さん。快活で、誰からも好かれる太陽のような彼女は、俺の一歳年上の恋人だ。
「今日は奏の好きなクリームシチューだよ。パンとサラダもあるから、すぐ準備するね」
「ありがとうございます。手伝います」
「ううん、大丈夫。奏は卒論で疲れてるでしょ。座ってて」
そう言って俺をソファへと促す詩織さんの気遣いが、いつも心を温かくする。俺、天海奏は、一度見聞きしたこと、体験したことを決して忘れない。「超記憶症候群」と呼ばれる、極めて稀な体質の持ち主だ。
幼い頃から、この能力は俺を苦しめてきた。友達の些細な嘘、親の何気ない矛盾。忘れたい嫌な記憶も、まるで昨日起きたことのように鮮明に脳内で再生される。人との間に見えない壁を作り、感情を殺して生きてきた俺にとって、詩織さんは唯一の光だった。
サークルの飲み会で、うっかりこの体質のことを漏らしてしまった時、周りが腫れ物に触るような態度を取る中、彼女だけが目を輝かせて言ったのだ。
「すごいじゃん!それって特別な才能だよ!奏が見てる世界、私にも教えてほしいな」
偏見なく、純粋な好奇心で俺の「異常」を受け入れてくれた。その瞬間、モノクロだった俺の世界に、鮮やかな色彩が生まれたのを、今でもはっきりと覚えている。
付き合い始めて一年。俺が借りているこのタワーマンションで半同棲を始めてからは、半年が経つ。大学四年生の俺と、デザイン事務所で働く社会人一年目の彼女。生活リズムは少し違うけれど、穏やかで、満ち足りた毎日だった。
「はい、お待たせ」
テーブルに並べられた温かい食事。向かいの席に座った詩織さんが「いただきます」と手を合わせる。俺もそれに倣い、スプーンを手に取った。
「美味しいです。やっぱり詩織さんの作るシチューが一番好きだな」
「ほんと?嬉しいな。たくさん食べてね」
屈託なく笑う彼女の顔を、俺は目に焼き付ける。この完璧な日常が、卒業してからも、その先も、ずっと続いていくのだと信じていた。
その完璧な日常に、ほんの些細な、だが決して見過ごすことのできないノイズが混じり始めたのは、それから一ヶ月ほど経った頃だった。
「ごめん、奏!今日、急な飲み会入っちゃって。夕飯、何か適当に食べててくれる?」
スマホのスピーカーから聞こえる、少し申し訳なさそうな詩織さんの声。時計の針は、午後七時を少し回ったところだ。
「わかりました。仕事の付き合いなら仕方ないですよ。あんまり飲みすぎないでくださいね」
「うん、ありがとう!なるべく早く帰るから」
通話が切れる。社会人になれば、こういう日もあるだろう。俺は特に気にも留めず、戸棚の奥にあったインスタントラーメンで夕食を済ませた。
だが、そんな日が少しずつ増えていった。週に一度だったのが、二度になり、三度になることもあった。
ある水曜日の夜、詩織さんは日付が変わる少し前に帰ってきた。
「ただいまー。ごめんね、遅くなって」
「おかえりなさい。大変でしたね」
ふらりとリビングに入ってきた彼女のブラウスから、ふわりと知らない香りがした。甘く、少しスパイシーな、男性もののコロンの匂い。俺が使っているシトラス系のものとは明らかに違う。
「飲み会、盛り上がったんですね」
「うん、まあね…。部長がなかなか帰してくれなくてさ」
彼女はそう言って、少し気まずそうに目を逸らした。その視線の動き、声のトーンの微細な変化。俺の脳は、そのすべてを正確に記録する。
そして、また別の日のこと。
「昨日の夜、何食べたの?」
休日の朝、二人で遅い朝食を取りながら、何気なく尋ねた。
「え?昨日?ああ、昨日はね、同僚とパスタ食べに行ったんだ」
「へえ、いいですね。どこのお店ですか?」
「駅前の、新しいイタリアン。美味しかったよ」
そうなんだ、と俺は相槌を打った。だが、俺の記憶は違う事実を提示していた。昨日、詩織さんが帰宅した後に俺がゴミをまとめた時、キッチンにあったゴミ箱の中には、コンビニのパスタ容器ではなく、黒塗りの高級そうな弁当の空箱が入っていた。その箱には『割烹 はせ川』という金色の箔押しがあったのを、俺ははっきりと覚えている。
些細な嘘。記憶違い、と言われればそれまでかもしれない。だが、俺の脳は、詩織さんの言葉の端々にある矛盾を、まるでデータベースのように蓄積していく。
スマホをテーブルに置く時、必ず画面を伏せるようになったのはいつからだったか。
俺が背後に立つと、びくりと肩を揺らして慌ててLINEの画面を閉じるようになったのは。
「仕事用の連絡だから」と言って、バスルームまでスマホを持ち込むようになったのは。
幸せな記憶と並行して、裏切りの証拠が積み重なっていく感覚は、じわじわと全身を蝕む毒のようだった。信じたい気持ちと、目の前にある客観的な事実。二つの情報が脳内でせめぎ合い、俺の精神を少しずつ削っていく。
それでも、俺は何も言えなかった。この完璧な日常を、自らの手で壊すのが怖かった。俺の問い詰めで、もし彼女が「別れよう」と言ったら?詩織さんを失って、またあのモノクロの世界に戻ることだけは、どうしても耐えられなかった。
だから俺は、気づかないフリをした。何も知らない、鈍感な恋人を演じ続けた。
「奏って、本当に優しいよね」
ある夜、ソファで映画を観ていると、詩織さんが俺の肩に頭を預けてそう呟いた。
「どうして急に?」
「んー、だって、私が仕事で疲れて帰ってきても、文句一つ言わないし。いつも私のこと一番に考えてくれるから」
「当たり前じゃないですか。詩織さんは、俺にとって一番大切な人ですから」
俺の言葉に、彼女は嬉しそうに微笑んだ。だが、その瞳の奥に、一瞬だけ、罪悪感とも憐れみともつかない複雑な色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
決定的な瞬間は、驚くほど静かに、唐突に訪れた。
その日も、詩織さんは「クライアントとの会食」で帰りが遅かった。先に夕食を済ませた俺は、リビングのローテーブルで卒論の資料を広げていた。
カチャリ、と玄関のドアが開く音。時計は午後十一時半を指している。
「ただいま…」
「おかえりなさい」
いつもより少し疲れた様子の詩織さんは、「先にシャワー浴びてくるね」と言うと、持っていたバッグを無造作にテーブルの上に置いた。コツン、と硬い音がして、彼女のスマートフォンがテーブルの上を滑る。そして、彼女はそのままバスルームへと消えていった。
ザー、というシャワーの音が、静かな部屋に響き渡る。
俺は資料から目を上げ、何気なくテーブルに置かれた彼女のスマホに視線を向けた。ダークモードに設定された、黒いガラスの板。
その時だった。
ブブッ、と短いバイブレーション音と共に、スマホの画面が淡く光った。ロック画面に浮かび上がる、一件の通知。
そこに表示された、簡潔なメッセージ。
【然さん:次のデータ、いつ手に入りそう?奏くんのPC、まだ見れないかな】
時間が、止まった。
世界から、音が消えた。
血の気が引いて、指先が急速に冷えていくのがわかった。
「然さん」
知らない名前。
「次のデータ」
「奏くんのPC」
バラバラだったパズルのピースが、一瞬で組み合わさっていく。
帰りが遅くなることが増えたのも。
知らないコロンの匂いも。
高級弁当の空箱も。
不自然にスマホを隠す仕草も。
すべてが、この一文に繋がっていた。
これは、単なる心の迷いによる浮気なんかじゃない。
明確な悪意と目的を持って、計画的に俺に近づき、何かを奪おうとしている、醜悪な裏切りだ。
俺の特別な記憶力を「才能」だと言ってくれた君は。
俺のすべてを受け入れてくれたはずの君は。
他の男と共謀して、俺から何かを盗もうとしていたのか。
頭の中で、詩織さんとの幸せな記憶が走馬灯のように駆け巡る。初めて手を繋いだ日。誕生日を祝ってくれた夜。この部屋で、未来を語り合った時間。そのすべてが、一瞬にして色褪せ、おぞましい欺瞞の記録へと反転していく。
ザー、というシャワーの音がやけに大きく聞こえる。
俺はゆっくりと立ち上がった。全身が氷水に浸されたかのように冷え切っているのに、頭の中だけは異常なほど熱く、冴え渡っていた。
もう、迷いはない。
恐怖もない。
愛する人に裏切られた悲しみは、静かで、底なしの怒りへと変わっていた。
俺の完璧な記憶力は、幸せな思い出を永遠に留めるためだけにあるんじゃない。受けた屈辱と裏切りのすべてを、細大漏らさず記録し、最適な復讐を設計するためにも使える。
詩織さんがバスルームから出てくる前に、俺はいつもと変わらない穏やかな表情を作り、再びソファに腰を下ろした。
「お待たせ。ふう、さっぱりした」
タオルで髪を拭きながらリビングに戻ってきた詩織さんは、俺の表情に何の異変も感じ取っていないようだった。彼女はテーブルの上のスマホを手に取り、自然な仕草でポケットにしまう。
「奏、まだ起きてたんだ。もう遅いから、そろそろ寝ようか」
そう言って、俺の隣に座り、優しく微笑みかける。
その笑顔は、数分前まで俺が世界で一番愛していたものと、何一つ変わらないように見えた。
「そうですね。そうしましょうか」
俺も、いつもと同じように微笑み返した。
だが、その穏やかな瞳の奥で、氷のように冷たく、どこまでも残忍な復習劇の幕が、静かに上がったことを、彼女はまだ知る由もなかった。




