毒
テンマとソフィアが屋上にいた時、校内では異常事態が起こっていた。
「フッフッフ……ソフィエルがセラフィエルと接触しましたか。せっかくセラフィエルを物質の闇に落とし込んだのに、これでは水の泡です。セラフィエルは輪廻の中に陥り、その中で永遠に転生を繰り返し、永遠に苦しみ続けるのです! そのためには、こちらから仕掛けさせてもらいますよ」
男は手から緑の粒子を校内に拡散させた。
粒子はどんなところにも小さく侵入して、学校関係者を襲っていく。
「それにしても、セラフィエルはどう出るでしょうねえ? ククク、天使としての力を失っている今のセラフィエルにはこの私は倒せない」
男はそれを確信していた。
今のセラフィエルはただの人間にすぎない。
セラフィエルが人間の女性に宿った時から誤りだったのだ。
天使としてのセラフィエルなら恐ろしいが、人間としてのセラフィエルなど恐れるに足らず。
男は今までセラフィエルを、つまりテンマを監視していた。
この男は教師の一人として、テンマの近くにいたのだ。
「しかし、解せない……セラフィエルは受肉し、人間となった。それによって、我々の支配を輪廻転生に組み込まれた。キュリオスはソフィエルをセラフィエルに接触させることで、我々の支配を覆そうとしているのか? まあ、いい。ここで二人を始末してしまえば、問題ない。この世界は我々アルコンテスによって支配されるべきなのだ。この世界の支配の根本原理とは輪廻転生なのだから」
男は一人笑っていた。
テンマとソフィアは校内に戻った。
そこではすでに多くの学校関係者が倒れていた。
「!? これは!? いったいどんなことが起こっているんだ!?」
テンマはバイオテロでも起きたのかと思った。
ただ、人々はけいれんしているのか、まだ息があるようだ。
ソフィアは目を細めた。
そして、空気中に漂う緑の物質に触れた。
「お、おい! そんなのに触れて平気なのか?」
「私は物質化してマテリアライズされているから、平気よ」
「マテリアライズ?」
テンマは聞いたことがない単語を口にした。
「ところで、物質の反対は何だと思う?」
「そんなものがあるのか?」
「正解は気息。プネウマともいうわ。気息と物質は二項対立なの。そしてマテリアライズって言うのは気息的なものを物質化させることよ。そうして私は今の姿を取っているの。マテリアライズの反対はスピリチュアライズよ」
「なんだか、難しいな」
「この世界は物質の世界だから、そこに干渉するためにはこちらも物質化しなくてはならないのよ。まあ、最初の質問に戻るわね。この緑の粒子は毒よ」
「毒!? この空気中に浮いているのがか!?」
テンマは仰天した。
緑の粒子は校内の至る所に漂っているだろう。
だが、緑の粒子がどんなにテンマに接触してもテンマはまったく、被害を受けなかった。
それどころか……どこか楽しんでいる自分がいる……不謹慎だ。
みんながこうして倒れているのに、それをどこかで楽しむなんて……。
まったく、どうかしている。
そんなテンマの葛藤を見て、ソフィアは笑った。
「? 何がうれしいんだ?」
「いえ、ただあなたが昔の自分を取りもどしている気がして」
「前の俺と今の俺は違うのか?」
「受肉したとはいえ、本質は同じよ。セラフィエルは本質的に戦いが好きな人だった。情熱的な愛を持ってもいたけど、それよりまずは戦いこそが生きがいな人だった。私が知っているセラフィエルはそんな人よ」
「俺はそんなに戦うことが好きじゃないぞ?」
テンマはソフィアに反論したかった。
この平和国家日本で生まれて育って、海外のような戦争や、紛争かかわらずに生きてこれたのだから。
それ自体で幸せなことだろう。
テレビで見ていて、外国とはいえ、戦争やテロに苦しんでいる人にはどこか申しわけなくなる。
「それに俺は平和主義者だ。戦わないで済むならそれに越したことはない」
それはテンマの持論である。
テンマも対立を嫌う、和を以て貴しとなすとする要素を持っていた。
それはテンマが日本で生まれたからだ。
テンマ自身が無意識だったが、テンマは日本の規範や文化に適応した構えを持っていた。
そしてテンマはそれを疑ったことがなかった。
そもそもテンマの人生のモットーは普通に生きるということである。
普通が一番、無難な道がいい、個性など追求しないほうがいい。
「じゃあ、聞くけど、あなたの言う普通の人生っていったい何かしら? そもそもそんな人生ってあり得るの?」
「ああ、普通の人生ってのは学校に通って、就職して、結婚して、働いて、定年を迎えて、あとは余生を送ることだ。俺はこれが一番いいと思う。みんなそうして生きているんだ。俺がそれから外れるわけにはいかないさ」
「……」
「? どうした?」
「あなた思考が停止してるわよ?」
「は?」
「どうやら、あなたはこの日本という国に生まれたデメリットも持っているようね。あなたの集合的無意識には日本文化がインプットされているのよ。そしてそれは戦いという在り方を、肯定できない。あなたは日本人であることをやめなさい。セラフィエルは日本文化に納まりきらないわ」
「それって俺に死ねってことか? 俺はテンマだ。セラフィエルじゃない。俺は普通の人たちの生き方が尊いと思うんだ。それは俺が間違っているのか?」
「……まあ、それはあなたが決めればいいわよ。でも、本当の自分は偽れないわよ。それに今はこんなところで話をしている暇はないわ。それじゃあ、この毒素の根源に向かいましょうか」
ソフィアは歩き出した。
ソフィアはまったく迷っているふしがない。
「待ってくれ!」
「? どうしたの? 怖気づいたんじゃないの?」
「俺だって男だ。女の子を一人で行かせるわけにはいかない。俺も行く!」
テンマはとりあえず、この少女を一人だけにするには忍びなかった。
それに自分が行けばこの事態もどうにかなると思ったからだ。
だが、この考えがいかに甘かったか、後々思い知ることになる。