壊れた心の直し方 〜処刑間近な冤罪王妃と、秘されし古塔のチンピラ大魔導師〜
レーテーは絶望した。
三日後、夫に殺されるのだ。
彼女の夫、国王クレアルコスは、先日、危うく暗殺されかけた。
暗殺の下手人は、彼の第一の側近。
指示した黒幕は、彼の従兄であった。
信頼していた側近と、仲の良かった従兄の裏切り。
王の心は、壊れてしまった。
不信と憎悪に支配され、裏切り者は他にもいると決めつけて、城のすべての大臣たちを投獄するよう命じたのだ。
重臣をすべて排除して、国が立ち行くはずがない。
王妃レーテーは、確たる証拠のない者たちまで、無闇に罰してはならないと、夫を諌めた。
王の返事は、冷ややかだった。
「そなたも共犯者の一人なのか。それでは、そなたも処刑する」
家来たちは、みな、青ざめた。
王妃レーテーのお腹の中には、王の赤子が宿っている。
身重の妻まで殺せと言うほど、彼の疑心は深かったのだ。
しかし、あまりにも人道に悖る。
これには、官吏から下働きまで、揃って助命を嘆願した。
あまりに大勢の、しつこい願いに、クレアルコスはほんの少しだけ譲歩した。
「そなたたちが口を揃えてわたしに語る、『人を信じる心』とやらを、証明できれば助けてやろう。
わたしが与える三つの試練を、三日後までに乗り越えたならば、すべての刑を取りやめる。ただし、一つでも果たせなければ、王妃レーテーの首を斬れ。
誰かの力を借りてもよいが、失敗したら、その者の首も、ともに斬る」
クレアルコスの三つの試練は、それぞれ次のとおりであった。
「ひとつ。混ざった砂糖と塩を、ひと粒残らず分け直せ。
しかし、これは不可能であろう。一度疑いが混ざった心は、濁りきって元には戻らぬ。口では誰もが味方だと言う、しかし見分けなどつかぬのだ」
「ひとつ。この国の辺境にある、死の山の水を汲んでまいれ。知ってのとおり、死の山までは、馬を使っても片道二日。
しかし、これは不可能であろう。そなたを信じて命を託し、駆ける味方など一人もいない。わたしにさえも、いないのだから」
「ひとつ。傷つきひび割れようとも、その傷が直る宝石を、手に入れて差し出してみせよ。
しかし、これは不可能であろう。どんなに美しい宝石でも、刻まれた醜い傷は癒えはせぬ。わたしからそなたへの信頼が、まさしくそうであるように」
そうして、翌日早朝に、レーテーの身は囚われた。
城の裏手にひっそりと建つ、長く使われていなかった、古びた塔の一室に。
「そなたを助けたがる者が、もしも一人でもいたならば、ここへ馳せ参じることだろうよ」
絶望にどろりと澱んだまなざしで、クレアルコスは妻を嗤った。
去りゆく背中に、レーテーは縋って叫んだ。
「わたしは、あなたを愛しています。このお腹には、わたしたちの子どもだっています。あなたを脅かした者たちに、手を貸すはずなどありません。どうして信じてくださらないのですか」
王はわずかに振り向いて、暗い瞳でせせら笑った。
「その腹の子は、そなたの子だ。しかし、本当にわたしの子なのか?」
レーテーは、愕然とした。
夫は、それきり、その場を去った。
暗く寂れた塔の中で、彼女は震えて泣いていた。
恐ろしい。馘られることが。
憤ろしい。貞節を疑われたことが。
そして、なによりも悲しいのだ。
愛しい夫の、優しい心が、憎悪と猜疑の冷たい泥で、醜く塗り替えられてしまったことが。
クレアルコスは、凡人だった。
民に慕われ称えられていた父王の影に引け目を感じ、比べられることを恐れていた。
しかし、決してそれだけではなかった。
おのれの力の無さを自覚し、そのうえで国をより良くするため、熱心に協力を呼びかけていた。
一人ひとりの臣の手をとり、官吏の声にも耳を傾け、民の暮らしを守ろうと、理想に向けて努力していた。
そんなクレアルコスのことを、レーテーはずっと愛していたのだ。
彼が側近を「頼りになる」と、従兄を「素晴らしい男だ」と、はにかみながら褒めていたのを、いつも隣で聞いていた。
「わたしは才知に恵まれなかったが、とにかく仲間に恵まれた」と、嬉しそうにほほえむ夫のことを、いつも眩しく見つめていた。
その幸福の、すべてが砕け散ってしまった。
レーテーは、クレアルコスを裏切った彼の側近と従兄のことを、心の底から憎悪した。
優しい王は、もういない。
毒刃は、クレアルコスの命に届きはしなかったが、それでも彼の心に刺さり、今もその身を蝕んでいる。
そして、自分まで、あの裏切り者たちと同じ運命を辿ることになるとは、いったい何の冗談なのか。
身を震わせて、レーテーは泣いた。
おのれと、クレアルコスのために。
そんな彼女の足元に、一匹のネズミが駆け寄った。
妙に元気なその仔ネズミは、尻尾を揺らして、こう言った。
『おい女。てめえ、誰の許可取って、俺の隠れ家に乗り込んで来やがった?』
レーテーは、飛び上がった。
涙もたちまち引っ込んだ。
目を丸くして、身をすくめ、きょろきょろ辺りを窺う彼女に、ネズミはぷるぷる体を揺らし、再び声を張り上げた。
『どこ見てやがる、ここだ、ここ。てめえの足元にいるだろうがよ』
レーテーは、ようやく声の主を見つけた。
そして、ネズミが口を利くことに、またまた驚き、固まった。
灰色のネズミは、やけに人間味あふれる仕草で、両手を上げて、肩をすくめる真似をした。
『まったく、今時の連中は、挨拶ひとつしやしねえ』
「……ご、ごきげんよう」
『なーにが、ごきげんよう、だ、コラ。俺がゴキゲンに見えるかよ? 不法侵入だぞ、不法侵入。つか、誰なんだ、てめえはよ』
「も、申し訳ございません、ネズミどの。わたしはレーテー、王妃です」
『王妃ィ? 妙だな、俺の知ってる王妃は、確かてめえじゃねえぞ。メンテーって名前だったはずだ』
「それは、先々代の王のお妃様のお名前です」
『先々代だと? ……あ、まずいな。もしかして……。おい女、今の暦って、何年だ?』
レーテーが年と日付を告げると、ネズミは小さな頭を抱え、床の上でゴロゴロ転がった。
『あー、クソ、畜生、またやっちまった! 四十年も留守にしてたのか! そりゃあ、この塔が誰のものかも、伝わってねえはずだよな!』
そして、ぴょこんと飛び起きるなり、後ろ足だけで器用に立って、腰に手を当て、こう言った。
『そういうことなら、仕方ねえ。えーと、レーテー。不法侵入は見逃してやる。今回だけだ、特別だぞ』
「ネズミどの、ありがとうございます。三日間だけ、お世話になります」
『あん? 三日後に何かあんのか?』
「三日後、わたしは処刑されます。それまで、ここから出ないようにと、国王に命じられたのです」
『げっ! しょ、処刑って、いったい何したんだよ、お前』
「誓って何もしておりません。……ですが、信じてもらえないのです」
ネズミは、ヒゲをぴこぴこ揺らして、レーテーの顔をのぞき込んだ。
『……話ぐらいは、聞いたらあ』
人情味のあるネズミの声に、レーテーは思わず苦笑した。そして、気づけば、これまでのことを、ネズミにすべて話していた。
彼女が話し終えたとき、ネズミはおいおい泣いていた。
『うう、なんてこった。ひでえ話だ。たった二人のバカヤローのせいで、城中めちゃくちゃじゃねえかよ。お前も旦那も可哀想だよ。こんなひでえ話、あってたまるか』
このネズミ、なかなか涙もろいらしい。
灰色の背中を指で撫でつつ、レーテーは彼にほほえんだ。
「ネズミどの、聞いてくださってありがとうございます。おかげで、少し落ち着きました。それでは今日から三日間、どうぞよろしくお願いします」
短い腕で涙をぬぐい、ネズミはレーテーをじっと見た。
『……お前、諦めるつもりかよ』
「えっ?」
『混ざった砂糖と塩の分離。死の山の泉の水汲み。割れても直る宝石の入手。それだけやれば、助かるんだろ?』
「ですが、どれも無理難題です。わたしを絶望させて殺すつもりで、王は試練を課したのです」
『なーにが難題なもんかよ。俺様にかかれば、ちょちょいのちょいだ』
目を丸くしてぱちぱちとまばたきをするレーテーの前で、ネズミは小さな体を震わせ、自信満々にこう告げた。
『決めたぜ、レーテー。俺様が手伝ってやる。三つの試練を見事果たして、お前の処刑を取り消してやる』
「……ええと、気持ちは嬉しいのですが、ネズミどのが考えているより、どれも非常に難しいかと……」
『あのなあ、俺はネズミじゃねえよ。こいつはただの使い魔だ。……つっても、ずいぶん留守だったから、お前も俺を知らねえか。よし、俺も今からちょいとそっちに行くわ』
すると、途端に、小部屋の中に不思議な靄が立ち込めた。
靄の中から現れたのは、奇妙な身なりの男であった。
伸び放題の黒髪に、ハシバミ色の鋭い目。
美青年だと言ってよいほど端正な顔立ちなのに、目つきはじろりと斜に構えて、何ともガラが悪そうだ。
衣服は薄汚れているが、貴族のような上等の絹。
背は高いのに、姿勢は猫背で、およそたくましさを感じない。
素材の良さを、素行の悪さが、まったく台無しにしている。
言葉を選ばず言ってしまえば、そんな印象の青年だ。
男は、ネズミの尻尾をつまみ、自分の頭上に放り投げた。そして、大仰に両手を広げ、にやっと笑ってこう名乗った。
「へへん。遠からんものは音に聞け、近くば寄って目にも見よ。建国王デメトリオスの親友にして、古今無双の大賢者。趣味は燻製、特技は居留守、今年の秋で百三十歳。我こそは、大魔導師アイネイアース様である!」
レーテーは、ぽかんと口を半開きにした。
大魔導師、アイネイアース。
歴史書にも名が載っている、建国時代の偉人である。
あっけにとられる彼女の顔を思う存分楽しんでから、アイネイアースを名乗る男は、いたずらっぽく片目を閉じた。
「……なーんつってな。ま、この俺様が来たからには、性根のいじけた王に課された、クソしょうもねえ試練なんかは、お茶の子さいさい、朝飯前よ。安心しな、王妃レーテー。俺がズバッと助けてやるぜ!」
ここで一旦、歴史を紐解くことにしよう。
アイネイアースとは、どういう人物であるのか?
曰く、建国王の右腕。世に比類なき知恵者である。
曰く、稀代の悪戯坊主。碌なことをせぬ厄介者。
彼は、デメトリオス王の幼馴染と伝えられる。
森で獣に育てられたとも、神々が山に捨て去ったとも、生まれに関する幾通りもの伝説を持つアイネイアースは、木こりの息子デメトリオスに、多くの教えを授けたという。
力と、知恵と、正義の心を育んだ若きデメトリオスは、アイネイアースの導きを受け、十四歳で旅に出る。
魔物を倒し、賊を退け、怒れる神々をなだめた。
呪われた黒き荒れ野は、豊かな地平に姿を変えた。
彼は、神々に寿がれ、多くの人々に請い願われて、新たな国を建てたのである。
偉大なる王デメトリオスは、その人徳で民に慕われ、国に平和をもたらした。
ところが、彼に数多の教えを授けたはずのアイネイアースは、温厚篤実なデメトリオスとは、似ても似つかぬ性格だった。
早朝に鳴く鶏たちに奇妙なしつけを施して、夜中にまとめて鳴きわめかせて、あわてる人々を笑ったり。
声色を変える薬を飲んで、知り合いたちになりすまし、四角関係の男女の仲を引っかき回して遊んだり。
金の管理がだらしなすぎて、借金取りにとっ捕まるも、無駄に演説の才を披露し、哀れに思った人々からの寄付で満額支払ったり。
デメトリオス王の秘蔵の酒をこっそり一口飲むためだけに、透明になる軟膏を作るも、それを野良猫に盗まれて、街中巻き込む大騒動を起こしたり。
建国王の日記によれば、『悪餓鬼がそのまま大人になった男』『知恵があるぶん、却って悪い』と、散々な言われようである。
しかし、同時に『無二の親友』『我が半身』とも記されており、かけがえのない存在であったことも間違いないのである。
アイネイアースの名と足跡は、史書の半ばで唐突に消える。
異国を巡る旅に出たとか、才を妬まれ殺されたとか、不興を買って失脚したとか、様々な説が挙げられている。
まさか、王から打診を受けた宰相位に就きたくないあまり、遠く辺境へ逃げ去った末に、なぜか燻製に魅せられて、百年近く隠居していたとは。
歴史家たちには言わないでおこう、と、レーテーはひっそり心に決めた。
レーテーを助けるために現れたアイネイアースは、さっそく試練に取り掛かった。
この古塔は、建国王がアイネイアースのために建てさせた、実験場、兼、資料室、兼、秘密基地なのだそうだ。
その言葉どおり、四十年ぶりに来たと口では言いながら、どの場所に何が置いてあるのか、彼はすっかり把握していた。
「第一の試練、砂糖と塩の分離だが、こいつを使えば一発だ」
そう言って、彼が持ち出したのは、謎の無色の液体だ。
「それはいったい何ですか?」
「四塩化炭素。まあ、毒だ」
レーテーは、思わずぎょっと後ずさった。
シエンカタンソ。
知らない毒だが、危険物には違いない。
アイネイアースは、硝子の器に、試練に用いる砂糖と塩をざらざら無造作に流し入れた。そこにシエンカタンソとやらが、ゆっくり注ぎ込まれていく。
「混合物を分離するには、性質の差を利用する。融点、粒径、色々あるが、今回は密度の差でいこう。こいつをしばらく置いとけば、上に砂糖が浮いてきて、塩は下に沈殿する。上の砂糖を回収したら、四塩化炭素を蒸発させて、最後に残ったのが塩だ。冷やせば、もうちょい早く終わるな」
「どうやって冷やすのですか?」
「そりゃあ、魔法よ。いでよ氷塊」
その途端、卓上の何もなかった場所に、氷の塊がゴロリと出てきた。何食わぬ顔でそれを手に取り、器を冷やすアイネイアースに、レーテーは遠慮がちに問いかけた。
「……最初から、魔法で分離できないのですか? 危険な毒を使わなくとも……」
「なんだよ、いいだろ。このほうが面白えだろうが」
「そ、そうですね……」
いや、そうだろうか。
自分でもよくわからないまま、レーテーは曖昧にうなずいた。
こうして、第一の試練は、じつにあっけなく果たされた。
続いて、第二の試練である。
遥か辺境の死の山に行き、その水を汲んでこなくてはならない。
ただし、レーテー本人は、塔から一歩も出てはならない。
アイネイアースは、「この試練が、三つの中で一番クソチョロい」と笑い、何やら魔法の陣を描いた。
「死の山って、例のアレだろ? 夜に鬼火がウヨウヨ飛んで、登った人間がバタバタくたばる、超怖いって噂の山だろ?」
「その通りです。ですから、誰も行きたがりません」
「ありゃ、火山だ。硫黄が燃えると、鬼火に見える。硫化水素で人が倒れる。あの山に硫酸湖があるから、それ汲んで来いってことだろ? 何が試練だ、笑わせやがる。単なるガキの使いじゃねえか」
「リュウカスイソ……? ええと、つまりは、死霊の呪いではないのですね?」
「そういうことよ。てなわけで、ただ行って帰ってくりゃあいいのさ」
「……しかし、死の山は辺境ですから、試練の期限の三日では、往復するのも困難です。どうすれば間に合うのでしょうか?」
「なーに、心配要らねえよ。こいつに任せる、それだけだ」
魔法陣がぼうっと輝き、何かがぽんと飛び出した。
蜥蜴と蝙蝠を混ぜたような、不思議な見た目の生物だ。
アイネイアースは、自慢げに言った。
「こいつの名前は、コドモドラゴン。俺の第二の使い魔だ」
「コモドドラゴン、でございますか?」
「違う違う、子供ドラゴン。まだ子どもだから、チビなんだ。だけど、賢いし、飛ぶのも速え。この翼なら、山まで片道半日だ」
コドモドラゴンの体格は、犬より少し大きいくらいだ。
ドラゴンは、アイネイアースから鉛のバケツを受け取ると、皮膜の翼を羽ばたかせ、塔の窓から飛び立った。
第二の試練は、これで良いらしい。
ぐんぐん遠ざかるドラゴンの影を、レーテーは呆然と見送った。
「さて、問題は、第三の試練。傷がついても勝手に直る、生き生きとした宝石だったな」
「生き生きと……まあ、そうですね……」
「これも、方法は簡単なんだ。ただ、三日間か。あまりデカいのは作れねえなあ……」
困惑しているレーテーを後目に、アイネイアースは怪しげな棚に手を突っ込んであさり回った。
そして、青い粉末の入った容器を選び、机の上にごとんと置いた。
「よし、これにしよう。硫酸銅。ちなみに毒だ。間違って皮膚に触れたら、すぐさま水で洗い流せよ」
「なんだか、ずっと毒ばかりですね……」
「今から、こいつの飽和水溶液を作る。そのために、まずは湯を沸かす。レーテー、その容器に水汲んで、三脚の上に乗せてくれ」
「わかりました。それと、火が必要ですね。火打石はどこですか?」
「要らねえ、要らねえ。魔法でつける。いでよ火炎」
ほんの一言の呪文とともに、三脚台の足元に、ぼうっと炎が現れた。
お湯が沸くのを待ちながら、レーテーはおずおずと尋ねた。
「……参考までにうかがいますが、魔法で直接その宝石を作らない理由というのは……」
「手作りの方が面白えから」
「なんだか、そんな気がしました……」
じゅうぶんに温度が上がった湯の中に、アイネイアースは青い粉末をぽいぽい入れて、硫酸銅をひたすら溶かした。
「これをゆっくり冷やしていくと、溶けきれなくなった硫酸銅が、結晶になって出てくるんだ。
こいつの面白えところは、出来上がったチビ結晶を種にして、新しい液に浸けとけば、種結晶がじわじわ育って、デカくなってくところだな。だから、うっかり傷がついても、その上に新しい肉が盛られる。何年も育て続ければ、バカクソデカい結晶になるぜ」
うきうきと語るアイネイアースは、火を消した後、容器に上から紙をかぶせた。あくまでゆっくり蒸発させるのが、結晶作りのコツらしい。
「あとは毎日様子を見つつ、ダラダラ待ってりゃ完成だ。失敗しても、まあ、気にすんな。デカい結晶も、魔法で作れる」
「魔法で……作ってしまうのですか?」
「ああ、まあ、いざとなったらな」
「ですが、先ほど、使わないほうが面白いと……」
「面白さだけで決めていいわけねえだろうが。お前の命が懸かってんだぞ。そこんとこ、ちゃんとわかってんのか? ったく、今時の若いやつは、自分を大事にしやがらねえ……」
「……あの、はい、ありがとうございます……」
いまいち釈然としないながらも、レーテーは彼に感謝を告げた。
第三の試練、下ごしらえは完了だ。
こうして、三つの試練すべてに達成の目処が立ったのは、レーテーが塔に閉じ込められた初日の昼下がりであった。
思いもよらぬ展開に、レーテーの心はついていけない。
なんだか気が抜けてしまって、ぼうっと立ち尽くすばかりだ。
一方、我らが大魔導師は、すっかりくつろいだ様子で、魔法で持ち込んだ長椅子に寝て、おやつまで食べ始めている。
「暇になったな。どうする、レーテー? 幻の『第零の試練』とか、勝手に作って解決するか?」
「いえ、試練はもう、じゅうぶんかと……」
レーテーは丁寧に遠慮した。
そして、うつむいてつぶやいた。
「……それに、試練を終えたところで、おそらく王はわたしを信じはしないでしょう。斬首は撤回されるでしょうが、彼の愛情は、きっと、もう……」
アイネイアースは、おやつをつまむ手を止めて、佇むレーテーをじっと見た。
レーテーは、我が子の宿るお腹をさすり、かすれた声音で、思いを述べた。
「あの人は……クレアルコスは、砂糖と塩を分けたいのでも、火山の水が欲しいのでも、まして珍しい宝石などを見たいわけでもないのです。ただ、悲しくて、苦しくて、助けてほしいだけなのです」
「……めんどい男にいちいち律儀に付き合ってると、損するぜ。お前、その旦那の無茶ぶりで、殺されかけてたんだからよ」
「それでも、お腹のこの子の父は、世界で唯一、彼だけなのです。
……お願いです、アイネイアース様。あなたの偉大な魔法の力で、クレアルコスの心の傷を、どうか癒やしてほしいのです。そのためならば、どんなことでも致します。この通りです、どうか何卒……!」
レーテーは、床に手をつき、頭を下げて、アイネイアースにひざまずいた。
大魔導師は、目に見えてあわてた。
「ちょ。おい、やめろよ。土下座とか、んなコトされるガラじゃねえって。……あー、もう! わかった、わかったっての! 何とかすっから、頭上げろよ!」
「本当ですか! ああ……感謝します! 何とお礼を言ったら良いか!」
「ここまでされて断ってたら、やべえだろ……。俺、善良な市民なんだぜ」
アイネイアースは、頭をがしがし掻いて、大きなため息をついた。
「ただし、条件がひとつある。魔法は、お前が自分で使え。俺様はコツを教えるだけだ」
レーテーは、目を丸くした。
彼女は今まで、魔法を使ったことなどない。
魔法使いさえ、アイネイアースしか知らないのだ。
「わたしに、うまく使えるでしょうか?」
「たぶんいけるさ。なあ、レーテー。魔法使いに必須の才能、いったい何だか知ってるか?」
わからないなりに、レーテーは頭を悩ませ、こう答えた。
「知識……でしょうか。建国王は、アイネイアース様の教えを受けて英雄になったと聞きます。先ほども、毒や火山にとても詳しくていらっしゃいました」
アイネイアースは、チッチッチッと舌を鳴らした。
残念ながら、ハズレのようだ。
「素人からすりゃ、そうかもな。だが、この俺様に言わせりゃ、魔法ってのは『意地』なのさ」
それは意外な言葉であった。「意地……ですか?」と復唱すると、アイネイアースはひとつうなずき、真剣な顔でこう述べた。
「理屈のわからぬ事象を探り、それを己の力によって再現しようという気概。抗いがたき天災や無慈悲に迫る運命に、いかなる方法を駆使してでも、干渉しようという気骨。これこそが、魔法使いに必須の資質だ。
わからないもの、できないこと、それらに抗う態度があって、その産物を魔法と称する。呪い、卜占、錬金術に、医学、数学、どれでもそうさ」
アイネイアースは、そこで一旦言葉を区切り、ぐいっと椅子から身を乗り出して、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「この俺様が伝授するのは、最強の魔法のひとつだ。どんな犠牲も厭わなければ、あらゆる道理をねじ曲げられる。きっとお前は、使いこなせる。
最強になれ、王妃レーテー。そんで、何もかも諦めてやがる、お前の旦那をぶちのめそうぜ!」
レーテーは「はい、先生!」と意気込んだ。
その後、(あれ、ぶちのめすのでしたっけ?)と、こっそり小さく首を傾げた。
古塔の周りをぐるりと囲み、王妃が逃げ出さないように見張っている衛兵たちは、期限の三日後が来るまでに、次のような奇声の数々が響いてくるのを聞き取った。
「何でもするって言ったじゃねえか!」「それは無理です、どうかご慈悲を!」「いいか、自分を将軍と思え! 一万将兵が見ているぞ!」「アメンボ赤いなアイウエオ!」「いいぞ、女優だ! 仕上がってるぜ!」「いっそ殺してくださいませ!」「泣き言言うな、おら、もう一回、最初から!」
塔内に、様子を見に行くべきだろうか。
衛兵たちは、互いの顔を見合わせて、迷った末に、放置した。
塔から聞こえる王妃の声は、なんだかんだでお元気そうだ。
王は「王妃が逃げ出さぬよう見張れ」としか命じなかった。
常ならば、命令外でも異変とあらば対応するが、王は御心を乱しているし、王妃様はその被害者だ。
「……処刑間近のレーテー様が、たとえ一時であっても、お元気ならば、邪魔は禁物」
「クレアルコス様には悪いが、今は見てみぬふりをしよう」
そこへ、またもや塔の中から、王妃の叫ぶ声がした。
「蛙ぴょこぴょこ三ぴょこぴょこ、合わせてぴょこぴょこ六ぴょこぴょこ! 武具馬具武具馬具三武具馬具、合わせて武具馬具六武具馬具!」
衛兵たちは、再び顔を見合わせて、今度は無言でうなずいた。
彼らが塔に入らないのは、あくまで王妃のためなのだ。
決して、敬愛するレーテーの奇行から、目を逸らしているわけではない。
彼らはあくまで彼女のために、束の間の自由を守っているのだ。
そうだと言ったら、そうなのだ。
そして、約束の日が訪れた。
レーテーは、アイネイアースを伴って、城の広間でクレアルコスと相対した。
王と王妃の結末を、脇に控えたすべての家臣が、固唾を呑んで見守った。
三つの試練の成果物を、レーテーは順に披露した。
見事に分けられた砂糖と塩。
鉛のバケツに満ちる硫酸。
そして、ゆっくり育ち続ける、硫酸銅の青い結晶。
大臣たちは、その一つひとつにどよめき、「信じられぬ……!」「しかし、見事だ」と、揃って賞賛を口にした。
そして、王妃に力を貸した、たった一人の協力者が、不遜にも大魔導師アイネイアースの名を名乗っていることにもまた、ぎょっとして目を剥いていた。
一方、国王クレアルコスは、そのいずれにも心を揺らさず、暗い瞳で薄く笑った。
「よかろう、レーテー。そなたの斬首は取りやめる。せいぜい臣らと喜び合え。そして早々に、二度目のわたしの暗殺を企てるがよい。わたしが再び、そなたの処刑を命ずる前に」
予想していた態度であった。
レーテーは、きっぱりと答えた。
「そのような不届き者は、ただの一人もおりません」
クレアルコスは、目を見もしない。
「今度こそわたしを上手く殺せば、そなたの子の父が次の王だ。そなたが真に愛する男に、玉座をくれてやればよい。そこにいる、大魔導師を名乗る男が、そなたの情夫なのだろう?」
青ざめたレーテーが言い返す前に、広間に怒号が響きわたった。
「いい加減にしやがれ、クソボケ!」
もちろん、アイネイアースであった。
人情に厚いこの魔導師は、同時に短気でもあった。
彼はずかずかと進み出るなり、王の胸ぐらを乱暴に引き寄せ、青筋立てて怒鳴り散らした。
「嫁の言うことも信じねえで、何が王だ、この甲斐性無しが! いつまでベソかいて拗ねてんだ! 親指しゃぶってママママ泣いてりゃ誰か助けてくれんのか? だったら、半年後に生まれてくる、てめえのかわいい赤ん坊と並んで、レーテーのおっぱいでも吸ってろ、クソガキ!」
クレアルコスは、その顔色を、白、青、赤と、次々に変えた。
王として生まれ育った彼が、今まで一度も受けたことのない、下品極まる侮辱であった。
「な、な……、ぶ、無礼な……!」
と、喘ぐように、どうにかそれだけ言い返したが、建国史にまで「減らず口」との記録が残るアイネイアースに、それで打ち勝てるはずがない。
「何が無礼だ、玉無し野郎! いいかよく聞け、この俺様は、てめえのジジイのそのまたジジイが、寝小便垂れたのを誤魔化すときも、一つ目巨人と相撲取るときも、好きな女に結婚申し込むときも、いちいち助言してやった大恩人だぞ! それなのに、俺様の偉業を称える銅像も建てやがらねえで、てめえこそ俺に頭下げて詫びろや、恩知らずの孫の孫がよ!」
大魔導師は、王をがたがた揺さぶりながら、好き放題に罵った。
そして、それでは気が収まらず、自分のサンダルを片方脱ぐと、それを掴んで、力いっぱい王の横っ面を殴った。
すぱーん、という快音が響いた。
王も、家臣も、誰もが口をぽかんと開けた。
薄汚れた格好の男が、王の顔面を、履物で殴った。
この王国が始まって以来、初めてのことに違いない。
あっけにとられたクレアルコスから反撃が無いのをいいことに、アイネイアースは、そのサンダルで、クレアルコスを滅多打ちにした。
しかも、殴打の一発ごとに、「ダボ!」「ボケ!」「カス!」等、その他諸々、選り抜きの幼稚な罵声のおまけつきだ。
さすがにクレアルコスといえども、これには奥歯を食い縛る。拳を握り、「慮外者め!」と、アイネイアースの頭を殴った。
勝負は、一発で決まった。
アイネイアースは、モヤシであった。
奇妙な静寂が流れた。居並ぶ家臣が「弱すぎる……」とささやく声が間抜けに響く。クレアルコスは、肩を怒らせ、息を荒らげてはいるが、すっかり自分の調子を乱され、その場の空気に呑まれている。
床にノビているアイネイアースに、レーテーは静かにほほえんだ。
「アイネイアース様、わたしのために怒っていただいて、ありがとうございます。ですが、心配無用です。わたしは、自分で決着をつけます」
謎の気迫をまとうレーテーに、アイネイアースは這いつくばったままで、ぼそりとつぶやいた。
「……やるのか、レーテー」
「はい。今こそ使います。大魔導師様直伝の、わたしの禁断の秘術を……!」
レーテーは、その懐から、使い古された一冊の本を取り出した。
いったい、いかなる魔導書であろうか。
大臣たちは、ざわめいた。
「クレアルコス。これなるは、あなたの心の闇を払う、人類最古の魔法です。大いなる犠牲を捧げて放つこの術、どうぞ心して受けられませ……!」
クレアルコスは、息を呑んだ。
常におとなしく控えめだった彼女の声が、なぜか、いつになく大きく聞こえた。
レーテーは、高々と本を掲げて、ゆっくりと表紙を開いた。
そして、呪文を唱えるために、肺腑いっぱいに息を吸った。
「白羊の月、第十一日!」
凛とした大音声が、広間をびりりと震わせた。
「お父様が『お前の縁談が決まった』と、とても喜んでいました。お相手は、なんとこの国の王子様、クレアルコス様だそうです。
お父様は『わしの娘を、この国で一番幸せな花嫁にしてやることができる』と、満足そうにしています。だけど、わたしは少し不安。たとえ身分が低くても、優しい人と幸せになりたい、だなんて、わがままだってわかっているけど。クレアルコス様、いったいどんな方なのかしら」
「何だ、これは?」と、誰かが首を傾げた。
レーテーは詠唱を続けた。
「白羊の月、第十八日!
お父様とわたしは、お招きを受けて、今日、王宮に伺いました。わたしったら、がちがちに緊張してしまって、初めてお会いしたクレアルコス様に、手をすべらせてワインを掛けてしまったのです。無礼なことをしてしまったと、わたしたちは真っ青になりました。
だけど、クレアルコス様は『わたしもとても緊張していて、どの服を着てそなたに会おうかと、今日だけで五度も着替えたのだが、慌てたせいで、じつは内衣が表裏反対だったのだ。しかし、お陰で着替えに行ける。汚してくれてありがとう』と、おっしゃってくださいました。
なんて優しい方なのでしょう。それに、あの方の照れた笑顔が、あれからずっと胸に残って離れません」
「もしや、これは」と、誰かがささやいた。
レーテーはさらに続けた。
「金牛の月、第三十日!
芸術の神を祀る祝祭に、クレアルコス様と二人で一緒に出かけました。
おもちゃの弓を使った的あての店では、彼もわたしも散々な腕前で、何度も挑んで、ようやく手に入れた景品は、小さな竪琴一つだけ。
せっかくだからと、クレアルコス様がわたしのために一曲弾いてくれました。難しい曲は弾けないのだとはにかんでいたけれど、この街に集まっているどんな楽士より、いっとう素敵な音色でした」
「そんな、これは!」と、人々はおののいた。
レーテーの立ち姿は堂々たるものだ。背筋は伸び、本は大きく開かれて、誰にも隠すことがない。
しかし、よく見れば、その瞳はぐるぐると渦を巻き、顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
人々は、彼女の所業に震え上がった。
尊厳を犠牲に放つ、極大魔法。
王妃レーテー直筆の、惚気日記の音読である。
三日前、性悪魔導師アイネイアースは、彼女をこのようにそそのかした。
『まー、愛ってのは、人類最古の、すげえ魔法だ。
愛のために国を興すやつ、愛のために国を滅ぼすやつ。人を愛して急にガラッと性格変わっちまうやつもいるし、どデカい力を秘めてるわけよ。
だからレーテー、お前とクレアルコスの、二人の愛の証的なやつ、なんか無えか?』
『ええと……わたしの日記でしょうか。彼と出会ってからというもの、彼のことばかり書いていました』
『お、いいじゃん。じゃあお前、それを王の目の前で全部大声で読み上げろ』
『え?』
『あ?』
『いえ、その、恥ずかしいです……』
『はあ? おい、レーテー、逃げるんじゃねえ! 何でもするって言ったじゃねえか!』
『げ、限度というものがあります! それは無理です、どうかご慈悲を!』
『この王国の命運は、お前の愛にかかってんだぞ! 女に二言はねえ、そうだろ?』
レーテーは、押しに弱かった。
その日から、アイネイアースの指導の元で、過酷な訓練が幕を開けた。
ネズミの使い魔が王宮から持ち出してきた彼女の秘密の日記帳を、にやにや笑うアイネイアースの目の前で、彼女はひたすら読み上げ続けた。
羞恥に思わず口ごもるたび、容赦なく「はい失格、また初めからやり直せ」と、残酷な命令が飛んだ。
声が小さくなるたびに、滑舌訓練が課された。
彼曰く、『将に必須の才能は、声が大きく、よく通ること』らしかった。
レーテーは決して将軍ではないのだが、過負荷の脳では、そんな反論も浮かばなかった。
日記とは、本来私的な物である。
他人に見せるものではないから、その内容は赤裸々だ。
レーテーは、塔で過ごした訓練の日々で、死ぬほどの恥を味わった。
すべてを乗り越えた彼女は、いまや無敵の存在だった。
「乙女の月、第二十三日!
手紙のやり取りを始めてから、かれこれひと月経ちました。私のためにクレアルコスが手間暇費やしてくれることが、とても嬉しく感じます。手紙を送り合うこの日々が長く続いてくれると思えば、結婚する日がまだ何ヶ月も先だとしても、つらくないわ。
だけど、いざ会える日が来るたびに、喜びで胸がはちきれそう。手紙の日々か、お会いする日か、どちらがより幸せかだなんて、我ながら贅沢な悩みです」
一方、クレアルコスはといえば、非人道的なこの魔法に、完膚なきまでに打ちのめされていた。
日記には、彼のことばかり書いてある。
つまりは、クレアルコスもまた、無慈悲な暴露を受けているのだ。
「天秤の月、第三日!
あの人から届いた手紙に、『今朝、庭先で寝ていたお客さんです』と、手描きの絵が描いてあったけれど、獅子の頭に、山羊の胴体、蛇の尾を持つ怪物に見えます。十中八九、あの人の絵が独特なだけだと思いますが、お城ですから、あるいは本物のキマイラかも知れません。『かわいい猛獣ですね』と返しましたが、本当は何を描いたのでしょう? なんだか不安になってきました」
「レーテー! 頼む、やめてくれ!」
「天秤の月、第八日!
どうやら、猫の絵だったようです」
聞く耳持たぬとは、まさにこのこと。
塔での地獄の訓練は、レーテーを変貌させていた。
日記の最後に辿り着くまで、決して止まらぬ機械人形だ。
「巨蟹の月、第十一日!
朝に日記をつけるなんて、変な感じ。
昨日は結婚式でした。一生分の幸福を一度に飲み干したような、素晴らしい一日でした。クレアルコスの腕の中で眠りについたときは、本当にこんなに幸せになってしまっていいのかわからなくて、もしかしたら次の朝日を見ることは叶わないかも知れないと、疑ってしまったほどです。だけど、黄泉の神は、わたしを見逃してくれたみたい。
クレアルコスはまだ眠っています。この人ったら、寝言でわたしの名を呼んでいるわ」
大臣たちは、生温い目で王を見た。
クレアルコスは、顔を覆った。
レーテーはとても筆まめで、クレアルコスと過ごした日々を、何から何まで書いていた。
だから、広間につどった人々は、この国の王が本来どのような人物なのかを、つぶさに聞かされることとなった。
朝に弱く、毎日ふらふら起きてくること。
王妃の務めに緊張しているレーテーを励ましてくれたこと。
絵心の無いこと。
猫舌なこと。
臣や官吏の一人ひとりを、宝物のように誇っていたこと。
子を授かった日の喜び。
そして、クレアルコス王が、暗殺を企てた側近と従兄を、いかに信頼していたか。
彼らの裏切りに遭った夜、どれほど我を失ったかを。
レーテーが日記をぱたりと閉じたとき、人々は涙ぐんでいた。
うつむく王に、王妃は言った。
「今一度、申し上げます。わたしはあなたを、心の底から愛しています」
「……」
「お腹の子どもの父親は、あなた以外に有り得ません」
「……すまなかった」
「わたしは、あなたを裏切りません。今までも、そして、これからも」
「しかし、わたしは愚か者だ。そなたを殺せと命じてしまった」
「気の迷いだと、わかっています。あなたが優しく、傷つきやすいことなど、先刻御承知です」
レーテーは、ほほえみながら、三つの試練の成果を示した。
「あなたは、こうおっしゃいました。疑心の混ざってしまった心は、選り分けることはできないと。
ですが、そうではありません。きちんと違いを見極めて、疑いを取り除くことができます」
家来たちは、力強くうなずいた。
「あなたは、こうもおっしゃいました。助けてくれる真の味方など誰ひとりいないと。
ですが、そうではありません。思いもよらぬ人が見ていて、手を差し伸べてくれるのです」
大魔導師は、倒れ伏したまま手を振った。
「あなたは、そして、おっしゃいました。ひとたび傷ついた信頼は、砕けて元には戻らないと。
ですが、そうではありません。たとえ損なわれてしまっても、また積み重ねればよいのです」
レーテーが歩み寄ってその手を取ると、クレアルコスは、こらえるように両目を閉じた。
「すまぬ、レーテー、皆のもの。
わたしは、とても怖かった。再び信じ、再び裏切られるよりならば、初めから全てが敵だと思い込み、孤独でいようと、愚かなことを口にした。
どうか、わたしを許してほしい。叶うのならば、この国のため、また、そなたたちの力を貸してくれないか」
広間は、歓呼で満ち満ちた。
万歳を叫び、笑顔を交わす多くの家臣たちの中央で、レーテーとクレアルコスは、互いを固く抱きしめた。
床にひっくり返ったままの、大魔導師アイネイアースは、かすかな声で「はん」と笑って、満足そうに目を閉じた。
「アイネイアース様。この度はご助力くださり、誠にありがとうございました」
「王妃に手を貸し、我が過ちを止めていただいた御恩は、この先、決して忘れませぬ」
城の門前で、レーテーは恩人に深く頭を下げた。
隣に並んだクレアルコスも、妻と一緒に感謝を示す。
一方、当の大魔導師は、意地悪な笑みでこう答えた。
「おー、結構。それじゃ、都にこの俺様の銅像でも建てといてくれ。もちろん、格好良く作れよ。例えば、サンダル片手に王を殴ってる勇ましい姿とかでな」
クレアルコスの表情が、ひくっと引きつったのを見て取って、アイネイアースは「ひひひ」と笑った。
「安心しろよ、冗談だ。馬鹿正直に真に受けやがって。てめえをからかうと面白えや。……レーテー、俺はもう帰るけどよ、最後に教えることがある」
「はい、いったい何でしょう」
「第三の試練で作った、硫酸銅の結晶だ。
あいつを大きく育てるには、ゴミやホコリが液に入らないようによく掃除しないといけない。それと、目当ての結晶以外に出てくる余分な結晶も、こまめに取り除かないといけない」
「へえ……そうだったのですね」
レーテーはうなずきながら、内心ちょっと疑問に思った。
なぜ、今、硫酸銅の話を?
その種明かしをするように、アイネイアースは肩をすくめた。
「お前らはあの結晶を、愛や信頼に喩えたな。なかなかいいセンスしてるぜ。心もあの結晶と同じさ。直そうと思えば直るし、育てることもできるけど、大きく美しく育てるには、意外と面倒くさいのさ。
今回のお前らはうまく仲直りできたが、これで終わりじゃねえぞ。これからお互い辛抱強く、手間隙かけろってことだよ」
レーテーとクレアルコスは、互いに顔を見合わせた。
立ち直ったばかりの彼らの、次なる試練は手強そうだ。
それでも、途方に暮れたりはしない。
不屈の意地は、魔法となって、不可能を可能にするだろう。
アイネイアースは、ほほえんでうなずき合う二人の横顔を、満足そうに眺めた。
「……ま、お前らなら、きっとできるさ。いざって時は、また俺を呼べ。斜め四十五度の角度で、叩いて直してやるからよ」
再び顔を引きつらせるクレアルコスを笑いながら、アイネイアースは、手をひらひらと振って、都を後にした。
夫婦は、ぴったり寄り添ったまま、その背をいつまでも見送った。
古代デメトリア王国の王都とされるその場所は、今でも当時の面影を、建物や路地に遺している。
数ある旧き建造物の中で、ひときわ異彩を放つ『王を諌める賢者の像』は、歴史の研究家たちにも、資料集でその写真を眺める学生たちにも、人気の像だ。
顔面を張り飛ばされてよろめく王と、サンダル片手にそれを振り抜く身分不詳の男との、躍動感ある二体一組の青銅像は、旧き都の市民広場の中央に堂々と建っている。
それは、殴られている王のモデルとなった五代国王クレアルコスが、己の戒めとするために建てさせた像だと伝わる。
時折、その像を眺めながら、ゲラゲラ笑って酒盛りをする、不審な男が出没することは、現地ではかなり有名である。
ベロベロに酔ったその男性が、道行く人を捕まえて、「あの殴ってる方、俺なんだぜ」「あの野郎、本気で建てやがった。さすがはあの馬鹿正直なデメトリオスの孫の孫だよ」「あいつの嫁さん、美人だったぜ」などと、でたらめを吹聴するのを、住民たちは、やれやれ、またか、と苦笑しながら聞いている。
男が持参するつまみの燻製がなかなか旨いことも、市民の一部は、よく知っている。
しかし、男が不老で不死の大魔導師だと知る者は、この時代には、一人もいない。