自己理解その1
悩んだ末に、まずはより自己理解を深めることにした。つまり今の自分に出来ることの把握だ。
ステータス画面の備考欄には初日から稀有な存在だとか書かれていたし、このステータス画面を見るのに使われている力は恐らく自己知覚のスキルだろう。
推定閻魔大王様も仰っていた。俺は前世の時点で自己知覚と自己強化の才能が有ると。そうなるとそれがステータス画面上にはスキルとして記載されるのだろう。確かにゲームのステータス画面を参考に、自分に出来ることと出来ないことの洗い出しとその記載は散々やったし、履歴書なんかも学生の頃はアルバイトを転々としてより効率良くお金を貯めていた。だから自己知覚のスキル=ステータス画面を見る力と考えられるのは自然だった。魔法なんてものが使える場所なんだ、そんな摩訶不思議が有っても良いと受け入れられる土台が有ったのは前世の自分の行動のおかげだろう。
自己強化の才能も潜在能力値の消費で水魔法を習得出来たことを思えば、自然とそれがスキルになっていることの説明になる。
ただそう考えると、仙人の才能というものに関する記載が無いのが気になる。
でも仙人だ。仙人なんてそう簡単にスキル化されるようなものか?
俺の中の仙人のイメージは何かの道を極めた人や自然との親和性の高い人というイメージが有る。なら、もしかしたら、このドリアードという俺の人格そのものが仙人の才能の証明なのかもしれない。
…………そう考えると、この自己理解を深めるという行為も、人間的なんだろうか。あくまで今の俺は植物で、植物には本来意思というものは無い。日がな1日地に根を張り地中の水分と太陽光で生きる生物だ。そんな植物と比べたら、俺のこの前世の記憶を持つ自我はなんて俗物的なのだろうか。
…………いや、いやいや、いや、これはこれで良いのか。前世、山を買い、家を建て、畑を作った頃もそうだった。全部が出来上がるまでは休まず突っ走り、環境が整ってからは何も考えずに縁側で寝転び涼を取ったことも有ったし、箸やスプーンやフォークなんかのカトラリーの新しい物が欲しくなったと薪用の木を加工したこともあった。
その生活全てが最高だったんだから、念願叶って植物に成れた今なら、より一層何をやっても良いんだ。
もしかしたら、こんな考えに到りそれを実行出来ること、それが仙人の才能というヤツなのかもしれない。
それを自分で語るというのが我ながら滑稽な話だが。
じゃあ、何から試そうか。