詩と数学の組み合わせ術
自分の娘に手をかけるとは、バイロン卿も鬼畜の所業...でもなさそうですね。
クイーンの館。時空器の間。カロリーヌを伴ったリストがアストラル体から物理身体に戻る。
「おめでとう、フランツ。かわいい眷属を連れてきたのね。」ジョアンナは微笑む。
「カロリーヌ、転生時に15歳です。お役に立てるでしょうか?」リストは恭しく片足を後ろに引いてリヴェレンスを示した。「精一杯務めさせていただきます。」カロリーヌも健気なカーテジーでクイーンに恭順を示した。クイーンはバイロンに視線を移した。「さあ、次はあなたの番よ。」
バイロンは頷いてクイーンに近づき何やら耳打ちした。クイーンは時空器の前で短い呪文を唱え、「1835年、ロンドン」と呟いた。
エイダ・ラヴレスは机に向かって数式を書いている。一心不乱に書いて,紙はあっという間に複雑な数式で真っ黒になった。エイダは満足げに微笑んでペンを置き、軽く背伸びをした。バイロンは音も立てずにエイダの背後に立ち、「Good afternoon!」と声をかけた。振り向いたエイダは少し驚いた顔で、「え?パパ?どうして?」と問いかけた。
「どうして若い姿で生きているかって?」バイロンは快活に微笑んだ。「まあ死から蘇ったというか死を通り抜けたというか、説明しにくい現実というやつかな。」
「現実はすべて受け入れるわ。で、何のご用かしら?」エイダはいつも冷静だ。
「そろそろ年頃なので思い人でもできたかと思ってね。」
「私にそのような感情が芽生えると思ってらっしゃるの?」
「芽生えて欲しいとは思っているが、それでは結婚する気はないのかな?」
「私も生命体なので寿命が来れば個体として消滅します。私の特性、特に数学の才能が同時に消えるのは惜しい。なので次世代に受け継いで欲しい。血筋と言いますね。あれは少し不正確な表現で、本来なら心身情報とでも言うべきもの、それを体内に宿る子どもに受け取ってもらいたい。それを実現するには結婚するしか方法がありません。」エイダは何の感情も込めずにそう言った。
「なるほど。で、君はぼくとアナベラの間に生まれたわけだが、ぼくの心身情報とアナベラの心身情報を足して二で割ったということになるのだろうか?」
「単純な算術に還元すればそうなるでしょう。パパがA、ママがBでその和が私Cだとすると、もしパパに数学的才能が皆無で、しかも詩的才能が数学的才能を阻害するのであれば,C<B、すなわち私はママの劣化版になるはずだけど,実際は違う。これはどういうことかしら?」
「君が詩というものをどう考えているかはわからないが、有限の語を組み合わせて韻律と詩脚を整え、意味のある文として物語を紡ぐ、これは一種の結合術、すなわちアルス・コンビナトーリアだ。ドイツの詩人ノヴァーリスは、詩と数学が同根のものであると看破し、まだるっこしい理屈を並べた断章を残している。ぼくは読む気にはなれないがね。」バイロンは首を横に振りながら笑った。
「なるほど、では私の才能はA+Bが理想的に結合したものと考えられるわけね。」エイダは笑顔をこぼすことなく言った。
「そうかもしれない。しかし君が異質なDと結合したとき、そこに産まれるEは果たしてCを上回るだろうか?ぼくはかなり悲観的だとしか思えない。」バイロンは刺すような視線で娘を見た。エイダの顔がわずかに曇った。
「そこで提案なのだが、エイダ、君の才能を不朽の永遠にするつもりはないか?」
「どういうことかしら?」
「君が死の向こう側に抜け出るということさ。」バイロンは成功を確信した。
「どうやって?」エイダはわずかな逡巡の後で消え去りそうな声を絞り出した。
「ぼくが導くのさ。」
バイロンは固まって動かなくなった愛娘を抱きしめて、ゆっくりと牙を項に突き立てた。
クイーンの館。時空器の間。バイロンが娘エイダを伴って戻ってきた。「ジョアンナ様、愛娘エイダでございます。こと数学に関しては誰も右に並ぶものはいないと思われます。」バイロンは自慢げに娘を差し出した。「エイダ・ラヴレスです。永遠に数学的探求に耽ることができると聞いて父に従いここへ参りました。よろしくお願いいたします。」彼女にとっておそらく人生初のカーテジーでジョアンナに恭順を示した。
「良く来てくれました,エイダ。ジョージ、自分の娘を選ぶだなんて、あなたはなんて大胆にして的確な選択をしたのでしょう。しかも、魅了という手段を使わず、論理だけで彼女を納得させた。」ジョアンナは顔を綻ばせた。
「魅了はわが娘にふさわしくありません。詩と数学は同じ根を持つという理念が私たち父娘を結びつけたのです。」バイロンは誇らしげにエイダを見た。
「これで近衛眷属の通貨儀礼はあと1人となりました。最後の1人は少し時間がかかりそうなので、きょうはここまでにしましょう。」ジョアンナは時空器の扉を閉め、部屋を出るよう目で皆を促した。
エイダ・ラヴレスはコンピュータ科学の礎を作った人物です。ちなみに組み合わせ術(ars combinatoria)については、17世紀の哲学者ライプニッツも考察していて、アルゴリズムの設計に結びつく考えだとみなされています。ライプニッツは二進法も発明したそうです。ノヴァーリスの考察はそこに原点を持つものです。