近衛眷属の失敗と成功
まったくね、ワイルドは女優を舐めていましたね。
6章
ミュンヘンから馬で数時間の距離にある山間部、ヴァン・ヘルシングは脇道の林を通り、月明かりが照らす墓地までの道を進む。墓地の前で立ち止まると、地下墓地の入り口にドイツ語で、「グラーツのドリンゲン伯爵夫人、スティリア、死を求めそれを見つけた」と書いてある。そしてさらに周りを調べると、ロシア文字で「死者は速く進む」というドイツの詩人アウグスト・ビュルガーの「レノーレ」というバラードの一節が確認できた。ヴァン・ヘルシングは怯むことなく地下墓室の扉を開けて中に入る。棺があった。それを目にした瞬間稲妻が光った。ヴァン・ヘルシングは何の躊躇いもなく棺を開けたが、棺は空っぽだった。
「やはりな。思った通りここも空振りだ。」
「さて、これで3人の花婿が揃ったわ。ただのイケメンじゃなくて、唯一無比の天才芸術家が3人、これこそ私にふさわしい近衛の眷属ね。」ジョアンナは満足の笑みを浮かべた。
「さて、何をしましょう?そうだ、眷属にもヴァンパイアの《通過儀礼イニシエーション》が必要ね。ねえ、オスカー!」ジョアンナはワイルドに語りかけた。
「あなた、どんな相手を味わいたいの?」
「私は別に空腹ではありませんが。」
「馬鹿ね、食欲は食べるにつれて沸いてくる、そうフランソワ・ガブレーも言っていたわ。はじめの一歩が大切なの。幻滅しない相手を選びなさい。」
「ならば私のかつての思い人を若返らせたいと思います。私はこの転生で20歳ほど若返りました。彼女は私より10歳年上です。せめて同じ年格好で相見えたいと思います。彼女は若返るでしょうか?」
「彼女がそれを望むなら思いのままでしょう。」
「成り立ての私が吸血しても絶命したりせずに転生できるでしょうか?」
「あなたの思いが強ければ。」
「では再びパリへ、パリのオデオン座へ参りましょう。」
「サラ!」楽屋に通じる通路でワイルドは女優サラ・ベルナールに声をかけた。
「まあ、オスカー!」ワイルドの若々しい姿を見てサラは少し動揺した。
「しばらく見ないうちに、その、少し変わったわね。」
「少し、ではないんだ。存在の本質が変わってしまった。」ワイルドの牙が疼く。
「どういうことかしら?」サラは訝しそうに尋ねた。
「生の宿命である変化の呪縛から逃れた。」
「まさか不老不死だとでも?」サラの目に興味と懸念が同時に宿った。
「そういう側面もあるかもしれないけれど、永遠の孤独を受け入れる決意と引き換えにだ。」
「永遠の孤独?」
「ぼくら芸術家はそもそも誰もが孤独だ。何かを作り、それは自分を抜け出て世界のものになり、残されたぼくたちは再び空っぽになる。」
「でも作ったものがあなたに与える名声や栄誉があるのでは?」
「それは偶像だ。空虚な肖像だ。いつかは腐って崩れ落ちる。」
「私の演技は、舞台芸術は,長らく語り継がれると思うのだけれど。」サラは怒りを抑えて答えた。
「君の芸術は、おそらく永遠に賞賛されるだろう。でも、それは君自身ではない。」
「偶像だと言うの?」
「君自身はその偶像の外部で変化という生の呪縛に絡め取られて行く。」
「老いると?」サラの目の中で怒りと諦めがせめぎ合う。
「黙って受け入れるのかい?」
「ええ、一瞬一瞬が輝く生の変化の中でしか表現できないものがあるから。」サラは毅然と言い放った。「なので、どんな悪魔の囁きか知らないけれど、私には不要だわ。」サラは踵を返すと足早にその場を後にした。
クイーンの館。時空器の間。
「見事にしくじったわね。」ジョアンナは冷たく言い放った。「相手が悪かったんじゃない?女優に老いを突きつけるなんて安直すぎるわ。あなたは女をわかっていない。」
ワイルドは二の句が継げない。作家としての資質に触れる指摘だった。
「年上で格上の相手を選んだのが悪かったわね。しばらくよく考えなさい。次はフランツのお手並み拝見と行きましょう。いいわね、フランツ?」
「お任せください、クイーン。音楽の魔力はときに言葉を超えます。」リストは自信満々に言って時空器の前に立つジョアンナに近づき耳打ちした。彼女は短い呪文のあとで「1827年、ウィーン」と呟いた。
ドゥ・サン=クリック伯爵家の広間、リストは15歳の少年の姿で、ピアノを弾いている少女の背後に現れた。
「カロリーヌ!」自分の声の瑞々しさに苦笑しながら、リストは少女に声をかけた。
「フランツ!きょうはレッスンの日じゃないのでは?」
「君に逢いたいというだけじゃ来る理由としては不足かい?」
「そんなことないわ。いつだって逢いたい。」少女は無邪気に微笑んだ。
「少し奏でても良いかな?メロディーが浮かんだんだ。」リストは鍵盤の前に座った。
始めは静かに甘くとろけるようなピアニッシモからピアノ、そしてだんだんと情熱が高まりフォルテからフォルテッシモ、感官のすべてに侵入する旋律の奔流、部屋の隅々にまで音楽の魔力が満たされた。
「フランツ...、私...。」少女は顔を上気させもじもじと俯いている。
「気に入ってもらえたかい?」リストは振り返って少女の手を取った。
「キスして、フランツ、お願い、でなきゃ私...」少女は上目遣いで懇願した。
リストは少女を抱きしめて唇を奪い、そして白い項に牙を突き立てた。少女は彼の腕の中で崩れ落ち、血の気を失うと同時に赤血球とは異なる成分で満たされた。少女が再び目を開くと、その瞳は紅色に変わっていた。
何と15歳にしてリストのこの手腕。恐るべし,音楽の魔力。だからといって一般人が自作の愛の歌を弾き語りで届けても、痛い結果にしかならないと思いますよ。よしんばそのとき上手くいったとしても、一生の黒歴史として、死ぬまで慚愧の針がチクチクと心を刺すことでしょう。