プロローグ
あの日。あの時。わたしはあの世界を去った。
蒼穹を思わせる柔らかなソライロが広がる領域で、一人の天使が呟く。透き通る羽根を持ち、その表情はどこか寂しげだった。この場所は地上から遥か遠い階層にあるとされる「天界」。だが天使自身ですら、その距離や概念を正確には言い表せない。
天使は緩やかに漂う雲海の上から下界を見下ろす。そこには、果てしない闇の世界が広がっている。かつて太陽に満ち、人々が営みを紡いでいたはずの地上は、今や暗黒の極夜に包まれ、朽ちた都市と廃墟が連なるだけ。
天使は、そこに佇む一人の少女を視界に捉える。詳しい素性など分からない。ただ、その少女があまりに悲しげで、あまりに空虚な瞳を持っているように感じられた。下界で何があったのか、天使は正確に知らないが、この世界の崩壊が地上の人々から多くを奪ったことだけは察せる。
風が静かに流れ、天使の長い髪が揺れる。天界は穏やかな光に包まれているのに、どうして地上はあんなにも暗いのか。この乖離には理由があるのだろう。天使はふいに祈るように両手を組む。
――ああ、神様。あの子に光を。
声にならぬ声が、ソライロの空に溶けていく。
あの日。あの時。天使はかつて何らかの理由で地上を離れ、この静かな領域に辿り着いた。けれど、そこには満たされぬ思いが残る。
下界の少女。その瞳に、いつか淡い光が灯ることを、天使は願わずにはいられなかった。