パーティークラッシャー、ナナちゃん
肉がうまい。肉がうまいから、少しだけ気持ちが回復する。
フィルトは息を吐いた。うまくて息を吐いたのか、これまでのことを思ってため息を吐いたのか、自分でも判別ができない。
「肉のうまさは偉大だな……」
隣で厚切り肉を食べていたエードが言い、フィルトはうん、と呟いた。
店内では東ヴィヤード語とパルダー語が入り混じっている。フィルトたちも使う公用語のパルダー語のほうが多いが、この街では東から移動する民たちの通り道で、彼らが話す東ヴィヤード語も珍しくはない。
フィルトは粥をずるずるとすすった。いま留まっているパエルという都市にきてから地元でよく食される粥を食べるようになった。
「最近さ……胃が痛いから粥が余計うまいよ」
エードが苦笑した。厚切り肉を形のいい歯でぐ、と噛み千切る。
「フィルト、そう言うなら肉を食うなよ」
「肉はうまいから。うまいもんは元気が出る」
「まあ、そうだな」
沈黙し、食事を全て胃におさめたところでフィルトはエードを見た。
「なあ、いつ、いまいるパーティーを抜ける?」
「明日。いまからでもいいぜ」
フィルトは破顔した。だよな、と頷く。
「俺、エードと同じパーティーに所属できてよかったよ」
「恥ずかしいこと言うなよ」
照れて目を逸らすエードを見、フィルトはほっと息を吐いた。
――俺は運がいい。俺の話を聞いてくれる人がいるんだから。
フィルトは十七歳で傭兵となって各地を歩き、二十二歳の現在、とあるパーティーで弓使いとして雇われている。
隣で椅子に座り、首輪を自作しているエードとは二年前、同時期にパーティーに加入し、切磋琢磨して仲良くなった。言葉にしないが大切な友人だ。
エードはビーストテイマーで、モンスターとの討伐の際、フィルトとともに後方支援をしている。
フィルトが所属するパーティーは剣士が二名、魔法使いが二名、弓使いであるフィルト、ビーストテイマーのエード、荷物持ちや食事の用意など雑用をする女の子のユイン、合計七名という、ちょっと多めの人数のパーティーだった。寄せ集めのパーティーだったがそれなりに成果は出していたし、あと少しでランクがS級となりそうで、順調だった。
半年前、シーフの女性、ナナが加入するまでは。
フィルトとエードは、パーティーの拠点としている宿にいた。二人一部屋で四室を借り、そのほかに会議などをするためにもう一室借りている。二人はその、会議用の部屋にいた。
「あら、何をしているのかしら」
甘やかな声とともに、部屋に入ってきたのはナナだった。
「ナナちゃん。俺たちはアルバンに用事があって、彼を待っているんだ」
「そう」
エードはナナを無視し、自分が契約している獣たちに装着する首輪を作っている。ビーストテイマーと獣の契約は信頼だ。それをエードは大切にしている。
普段エードはこんな無礼なことはしないのに、とフィルトの胃が痛くなる。
ナナはフィルトの近くにあるソファに座った。長い足をすっと揃えて座るその所作は美しい。
ナナは女性にしては背が高く、男性と目線が変わらない。声もやや低めだが艶があり、言葉遣いもきれいだ。長い髪は一つの三つ編みに編まれ、切れ長の目が印象的な美人だった。化粧を施し、指先まで整えられているナナは隙のない美しさだが、フィルトはたまに
――なんだか、すごく切実なものを感じる
と思う。
ナナの振る舞いは優美だが「そうしなくては生きていけなかった」という類の切実さが滲んでいるようにフィルトは思う。
――娼婦あがりかな
そう思うが、口には出さない。自分の過去をつつかれたくないから、人の過去もつつかない。それがフィルトの処世術だ。
「ねえ、フィルト。エード」
「なに」
無視するエードに代わって返事をすれば、ナナが微笑む。
「あなたたち、私のことが嫌いよね」
フィルトは思わず胃のあたりを手で押さえる。ぎ、ぎ、と軋む音がする。俺の胃は木製だったっけ……。
「ナナ」
エードが作っていた首輪を鞄にしまい、ナナを静かに見た。フィルトの胃が痛む。エードの目は冷ややかで、鉄の矢じりを向けているような緊張感がある。
「お前は、一体、何がしたいんだ」
何がしたいんだ。
それはフィルトも思っていた。
ナナちゃんは何が目的なんだろう。
ナナが微笑んだまま言う。
「何がしたいって、普通にこのパーティーに所属して、お金を稼ぎたいだけよ。私、自分で言うけれど、シーフとしてとても優秀だと思うわ。あなたたちも私が入ったことで戦闘が楽なんじゃない? それに、女の子は私一人だけだったからナナが入ってきて嬉しいってユインも言ってくれたわ」
フィルトは呻いた。
「確かに戦闘は格段に楽になったよ。ユインも女の子が加入してよかったって言ってた。それに俺たちは多めのパーティーだったから、大きめの仕事を割り振られることが多かったから、人が増えると色々助かった」
ナナはよく戦った。周囲を見て動き、自分より大きなモンスターにも怯まず戦う。自分で言うとおり、優秀なシーフだ。
「でもさナナちゃん。人間関係を引っかき回すのは、やりすぎじゃない?」
ナナが唇の端を引き上げるように笑った。
「あら、そんなことしてないわ」
ナナが片手を口元に添え、くすくすと笑う。整えられた爪がきらりと光り、彼女はただたただ、美しい。
――あ、この人、根っからの毒婦だ。
フィルトは思わず頭が前に揺れた。頭を殴られた気分だ。
エードを見れば、黙っている。呆れたのだろうか。
フィルトも黙って、剣士でパーティーのリーダーであるアルバンを待つことにした。
ナナがパーティーに所属し、最初、人間関係はとくに問題が生じなかった。
問題が生じ始めたのは、前衛で戦う魔法使い、カーシュがナナに恋をしたことだ。
もともとカーシュは惚れっぽい男で、女と話せばすぐに恋に落ちるとまで言われていたような男だった。そんなカーシュがナナに惚れたのは仕方ないことだと思うし、仲間たちはすぐにカーシュがナナに振られて、他の女に恋をするのだろうと思っていた。
またいつものことが始まるのだろうと。
ナナはカーシュの求愛を流しては流し、もう一人の剣士であるユールがナナに惚れてしまった。ユールは真面目で女遊びもしたことがない。誠実というより奥手だった。
いつのまにかカーシュとユールがナナを巡って対立するようになり、そこから一気に人間関係が悪化した。
パーティー内がぎすぎすしたことが嫌になったのか、後方支援の魔法使いだったロジャーは「故郷の親友が男から女になっちゃって心配だから帰る」とあからさまな嘘をついてパーティーを去った。その後に入った魔法使いのラヨンもナナに懸想し、ユールはナナに告白して、失恋したからとパーティーを辞めた。
またこじれてこじれて、いま、パーティーは崩壊寸前だ。
リーダーのアルバンの言うことを、ナナに恋する男たちは何一つ聞かない。
最近はアルバンも疲れ果てたのか、幼馴染のユインに八つ当たりをしていて、フィルトやエードがその間に入ることも多い。
フィルトは床を見た。もう何も見たくないし聞きたくもない気分だ。そんなわけにはいかないことは重々承知しているのだが。
「……ユインは、何も不満を持っていないのかな」
顔を上げてナナを見る。
「ナナちゃん。君は、ユインと仲がいいんだよね?」
信じがたいが、こんなにパーティー内を引っ掻き回しているナナを、ユインは甘やかしている。二人で仲良く出かけているところを見たことも何度かある。
こちらを見るナナの目が一瞬、剣呑に光った気がした。ナナが優雅に目を細め、頷く。
「ええ。仲良くさせてもらっているわ。ユインはとてもかわいい子だもの。それに、善良だわ」
ナナがそっと自分の指先をもう片方の手で撫でる。
「あなたたちにはわかるかしら。善良というのは、もっと敬い、尊ばれるべきものだわ」
善良、という言葉を口の中で転がす。善良。
確かにユインは善良だ。
いつも朗らかで、幼馴染のアルバンにいいように使われているのに彼を気遣ったりする。もちろん、彼女はアルバンだけに優しさを向けているわけではない。他の者にも分け隔てなく優しい笑みを向ける。
「ユインは、情があるひとだから……」
この国では珍しい黒髪を短くし、顔にそばかすが散る彼女は美人とはいいがたいのかもしれないが、優しくて可愛らしい人だ。
ナナが頷く。
「そうね。ええ、ユインは情があるわ。彼女は優しいもの」
ナナが自分の手につけてある腕輪に触れた。太い腕輪の中には白っぽい石がはめ込まれている。
「ナナとお揃いで買ったの」
そうユインが笑って言っていたものだ。
ナナの「彼女は優しいもの」と言ったときの、噛みしめるような物言いになんだかひっかかるものがあったが、それはすぐに霧散した。
ドアが乱暴に開いたかと思うと、アルバンが血相を変えて室内に入ってきた。
「ナナ!」
部屋にいるフィルトとエードに目もくれず、アルバンはナナの胸倉を掴んだ。
「ナナ! ユインがいない! ユインをどこにやった!」
ナナが目を瞠り、アルバンの手を掴んで押しやった。アルバンの顔には余裕がなく、なおもナナに掴みかかろうとするのでフィルトは慌ててアルバンの腕を掴んだ。
「アルバン。落ち着いて。話をして」
アルバンは興奮のためか息が浅かった。爆発するようにアルバンが言う。
「ユインがいない。こんな時間まで宿に帰ってこないなんてありえないのに。俺に何か言ってから俺のそばを離れるのにそれもなく、いつのまにか、買い物中に消えていた。探したが、どこにもいない」
「いつ、どこでユインを見失ったの」
ナナの声が硬く冷えている。その声で幾分かアルバンが冷静になったらしい。
「二時間くらい前に見失った。大きな薬屋があるだろ。ユインがよく行っていた、東ヴィヤード語の店員がいるあの店だよ。あの店を一緒に出て、屋台を見ていたときにいつのまにかユインが消えていた」
冷や汗が出た。ユインはいつのまにかふらっといなくなるような人ではない。
ユインは雑用が主で、戦闘はできない。戦えないユインが誘拐された可能性はおおいにある。
エードが慌ただしく鞄を持ち、フィルトの肩を叩いた。
「俺は契約獣たちとともにユインを探す。フィルトはどうする」
「人さらいがいそうな路地裏を走り回って探すよ。走るのは得意だから」
弓使いは木の上で獲物を狙うなどするため、動くことは得意だ。
「アルバン!」
フィルトの鋭い声にアルバンがびくりとし、一度目を閉じた。そして目を開いたときには、モンスターと戦闘時と同じ、冷静な目をした彼がいた。
「カーシュとラヨンを探す。あの二人は魔法使いだから、二人にユイン探しを手伝わせる」
「わかった」
フィルトが頷くと同時にナナが驚くような速さで部屋を出て行った。フィルトたちもそれに続き、別れて走り出す。
ユイン、無事でいてくれ。
若い女が人さらいにあうことは珍しくない。だが現在拠点としている都市は治安が良かったので、警戒を怠ってしまった。
これは、戦えることができる自分たちの落ち度だ。
フィルトたちのパーティーは界隈でもそれなりに目立っており、やっかむものも少なくない。アルバンたちの手前、人さらいと言ったが、人間の売り買い目的ではない者たちにユインが捕まってしまった可能性もある。
ユインは東ヴィヤード語ができるので、フィルトはわざと東ヴィヤード語で叫びながら夜の街を走り回る。
【ユイン! いたら返事をしてくれ! ユイン!】
フィルトの声にびくりとして目をやる人々と目が合う。東ヴィヤード語を話す東の地域から来た人々だろう。民族衣装をまとう男と目が合い、フィルトは男に声をかけた。
【短い黒髪の、若い女の子がいなくなったんだ。人さらいにあったのかもしれないのだが、何か変わったことはなかったか】
東ヴィヤード語で話しかければ、男は首を横に振る。
【ここ、パエルでは黒髪の女の子は珍しい。人さらいにあっていたら、わかるようなもんだけど】
礼を言って立ち去ろうとしたとき、若い女と中年の女の二人連れが走ってやってきた。男と同じ民族衣装を着ているので、同郷のものだろう。
【何かあったの?】
若い女に聞かれ、友人の女の子が人さらいにあったかもしれないと言うと、女と中年の女が顔を見合わせた。その顔から血の気がひていて、フィルトの喉がつまる。
――嫌な予感がする!
若い女が言う。
【黒髪の女の子が男と揉めていたのを見た。でもその女の子、走って逃げたから大丈夫だと思っちゃったんだ】
【いつ、どこで見た?】
【二時間くらい前に、パッシェルという肉屋の前にいた】
【どんな男だったかわかる?】
【顔はベールで隠していたからわからない。変な服を着ていた】
【変な服?】
【結婚式に出席するような豪華な刺繍が入った服】
――結婚式?
それにユインをアルバンが見失った場所は薬屋の付近で、二人の女がユインを見た場所は肉屋。この二か所は離れている。なのに、ユインは短時間で移動していることになる。まず、ユインの足では無理な話だ。
胸の奥がざわざわして、気持ち悪い。
ひとまずありがとうと礼を言い、フィルトは天に向かって叫んだ。
「エード! エード! 俺はここにいる! 迎えに来てくれ!」
すぐに鳥がやってきてフィルトの頭上を旋回し、去っていったかと思うとエードがほどなくして大きな狼に乗ってやってきた。街中で狼を見ることはないので、民族衣装を着た人々が小さく悲鳴を上げて、ゆっくりと逃げていく。
狼はエードの契約獣だ。その首にあるエードの手作りの首輪にある石がきらりと光る。
「何かわかったのか」
「東ヴィヤード語でユインに呼びかけていたら、東の民がパッシェルという肉屋の前で、二時間前くらいに、ユインらしい子を見たらしい。結婚式に出席するような豪華な刺繍が入った服を着ていた男と揉めていたって。黒髪の女の子は少ないから、ユインだと思う」
「……豪華な、刺繍?」
エードが眉根を寄せる。
「こんな街中で? 刺繍が入った服なんて、なぜ」
それはわからないけれど、とフィルトが言いかけたとき、ナナが音もたてずに現れた。
「ユインは見つかった?」
フィルトは「まだ」と答えた。
「見つかってない。ともかくこの街のなかを探そうと思っている」
「そう。エードは」
エードは空を仰ぐ。
「いま、契約獣たちに探してもらっている。何羽も鳥に探してもらっているから、もう少し待ってくれ」
風が強く吹いたかと思うと、魔法使いのラヨンとアルバンが現れた。魔法で移動したのだろう。フィルトは二人に状況を報告する。
エードが周囲を見回した。
「……カーシュは?」
アルバンとラヨンが首を横に振り、アルバンが答える。
「いない。探している余裕がないから、ラヨンだけ連れてきた」
フィルトは目を見開いた。豪華な刺繍を着た服。結婚式に出席するような服。
――男はなぜ、ベールで顔を隠していた? それは、見られたくなかったから。この土地で知り合いがいたから。
魔法使いのカーシュなら、ユインを屋台近くでさらい、肉屋の前に連れていくことなど造作もない。
「ユインを連れ去ったのは、カーシュなんじゃないか」
ナナに恋をしていたカーシュ。だが彼は惚れっぽい性格だった。そんなカーシュがナナにつれない態度をとられ続け、優しい笑みを向けるユインに恋をするようになったのではないか。
恋が煮詰まって、強引な手段を取ろうと思ったのではないか。
思いつくことが「ないか」の連続だ。それでも、じわじわと確信に変わっていく。
「カーシュは、ナナから、ユインに恋をしたんじゃないか」
フィルトがそう言い終わると同時に、背筋がぞわりとした。ナナからただならぬ殺気を感じ、ナナを見れば目に感情がない。それが酷く恐ろしい。
不意に、鳥の大きな鳴き声が聞こえ、エードの腕に降りた。大きな白い鳥はまた大きく鳴くと、ふわりと上空に飛んだ。
エードが鋭い目を向けて頷く。
「ユインを見つけたんだ。行こう」
エードが狼に乗って走り出し、全員がそのあとに続いた。
「ユインはここにいる」
エードが言い、狼が低く唸り声をあげた。
たどり着いたのは娼館だった。独特の甘い匂いがたちこめ、頭がくらりとする。
ただならぬ雰囲気で乗り込んだ狼連れの男たちに娼館のやりて婆は嫌そうな顔をしながら、豪華な部屋に案内した。金払いのいい客が黒髪の女の子を連れ込んで、食事だけ要求したらしい。
「あたしら、娼館の人間も誰ひとり入れるなって言われてね。食事は入り口に置かされてさ」
鍵を渡され、アルバンを先頭に入る。
そこには大きなベッドがある、豪華な部屋だった。庶民暮らしには到底縁のない部屋だ。部屋の中央に鎮座する赤いソファに、ユインが座っている。そしてその隣には杯を持った男がいた。
豪華な刺繍が入った服をまとうその男はカーシュだった。
やっぱり、と思うと同時にユインを見る。ユインはぼんやりとしていて、何も言わない。
「ユイン」
アルバンが呼んでも答えない。
――おかしい。
いつもと違う様子に喉がひりつく。
カーシュはとても落ち着いていた。仲間を誘拐しているとは思えないほどの冷静さが不気味だ。
「皆、早かったね。僕たちの結婚式に参列してくれるわけでは……ないよね」
「結婚式?」
あ、と思う。だから刺繍が入った服を着ていたのか。東の民が「結婚式に出席するような」と言っていたのは的を射ていたのだ。
ナナが低い声で言う。
「カーシュは西の民なんだね。それは西の民の民族衣装で、結婚式の衣装でしょう」
カーシュがくすくす笑った。ユインの髪を撫でる。
「うん。ナナはよく知っているね。君は聡明で強かで、そういうところが好きだったんだけど、君は僕よりユインが好きだったし。なにより……」
カーシュがユインを見てうっとりとした顔をする。
「ユインはすごく可愛いんだ。僕が彼女に花束を渡したら、とてもすてきな笑みを見せてくれたんだよ」
「ユインは仲間の機嫌を損ねたくなくて、仕方なしに受け取っただけよ。私の前ではすごく困った顔をしていたわ」
ナナの鋭い言葉にカーシュが怯んだ顔を見せたが、すぐに反論する。
「そんなことはない。だって、ほら、彼女は僕が渡した花を押し花にしてこうやって持っていてくれたんだ」
カーシュが見せたのはユインが持っていた押し花の栞だった。フィルトも何度か、彼女が大切そうに持っていたところを見たことがある。
「違う」
否定したのはアルバンだった。今にもカーシュに掴みかかりそうな彼の腕をラヨンが掴んでいる。
「ユインがその押し花を持っているのは、三年くらい前からだ。カーシュは二年前に入ったから知らないだろうが、お前に出会う前からずっと持っていた。その押し花は三年前、ユインに助けられた傭兵が、ユインに贈ったものだ」
――そういえば、そんな話をアルバンから聞いたな。
アルバンはナナと仲良くするユインを見て言っていたことがある。
「三年前、あんな感じの背格好の傭兵の男をユインが助けたんだよ。顔が傷だらけで、仲間に捨てられたらしい傭兵をユインは見捨てられず、自分の金で高価な薬を買って、介抱していた。ユインとナナが立ち並んでいると、あの男を思い出すよ」
アルバンは確かに、そう言っていた。
三年前、フィルトたちがパーティーに所属する前の話なので詳しくは知らないが、ユインが大切そうに押し花の栞を見ているので、いい思い出なんだろうと思っていた。
フィルトはすっと息を吸った。冷静さが戻り、喉は苦しくない。
「カーシュ。君、わかっているんじゃないのか。ユインもナナも君に対して恋心を抱いていないってことを。だからこそ、君はユインとここで結婚式を挙げようとしたんだろう。そんな豪華な服を着て」
カーシュのぐ、と奥歯を噛んだ。図星だ。きっとカーシュもわかっている。
自分はユインと結婚などできるわけがないと。それでも、カーシュは止まれないのだ。哀れといえば哀れだった。
「カーシュ、ユインに魔法をかけたね。魔法をといてくれ」
フィルトの言葉にカーシュがユインを抱きしめる。場の温度が下がった気がし、横目でアルバンを見れば噛み殺しそうな顔をしている。
カーシュがだだをこねる子供のように首を振った。
「いやだ、いやだ、僕はユインと結婚するんだ。ユインは僕のことを好きではないのはわかっている。でも、結婚生活を送るうちにきっと僕のことを好きになってくれる……」
「んなわけねえだろボケが。目を覚ませ」
低い威圧的な声は初めて聞く男の声だった。え、と思った時にはナナがカーシュの前に立ち、ユインを抱き上げて奪い取る。
「ユイン、目を覚まして」
ユインがゆっくりとナナの体に手を回した。その手がナナの編まれた長い髪に優しく触れる。
「ユイン!」
カーシュが伸ばした手を掴んだのはアルバンだった。
「カーシュ、その喉を裂かれたくなかったらおとなしくしろ」
骨が軋む音が聞こえ、カーシュが項垂れた。
「……さよなら、ユイン」
ぐわんと頭が揺れる。
――まずい。魔法で逃げられる。
フィルトがカーシュに手を伸ばしたとき、ぐるんと何かが飛んでカーシュの喉を締めあげた。カーシュが呻き声をあげてソファに倒れる。
息を切らしたラヨンがカーシュの腕を掴んだ。よく見れば、カーシュの喉を締めあげたのはエードの手作りの首輪だった。ラヨンが咄嗟に狼がつけていた首輪に魔法をかけ、捕まえたのだろう。
「――俺は、お前より弱いが、お前を逃がしたくはない」
ラヨンは魔力がそう多くない。魔力の使い過ぎでふらつくラヨンをフィルトはとっさに支えた。カーシュの喉はもう締まっていないが、カーシュは逃げる気力を無くしたようだった。
フィルトはカーシュを見つめる。
「カーシュ、君は誘拐罪で国軍に引き渡す。……いいね」
「ああ、好きにしろ」
吐き捨てるカーシュを見、フィルトはラヨンを見た。ラヨンが頷く。
ラヨンが浅い呼吸を続けながら、国軍に魔法で救援信号を送る。その様を見ながら、なんでこうなっちゃったんだろう、と思った。
カーシュを国軍に引き渡し、ユインは一時的に国軍が管理する病院預かりとなった。カーシュがユインにかけた魔法はそう強くはないが、第三者が無理に解除すればユインの心身に負担がかかる。きちんと意識が戻るまで病院で見守られることとなった。
国軍の魔法医師によれば、ユインはおとなしく見守っていれば数日で意識を取り戻すという話だった。まずはそれを信じるしかない。
フィルトはナナと連れ立って街を歩いていた。隣を見れば、ナナは長い髪を切り落とし、化粧もしていない、見目のいい男になっていた。
フィルトは軽食が売っている屋台に近づいた。ナナもついてくる。
「ナナが男だとは思わなかった」
ナナが肩を揺らして笑う。
「あんたら、騙されすぎだよ。まあエードは俺が男だって気づいてたみたいだな。ビーストテイマーは鼻がいいのが多いから」
「そうだねえ、すっかり騙されちゃったよ」
ナナが屋台のふかし芋を指さした。
「店主。この芋を二つ」
「はいよ」
代金を店主に渡し、芋を受け取ったナナはフィルトに芋を一つ手渡した。
「少し、話をしないか」
「うん」
二人が移動したのは噴水広場の前だった。適当に石段に腰かける。
「ナナ。君は、誰なんだい」
「元傭兵のナイジェル。それだけだ。そのナイジェルは三年前、大けがを負って森に捨てられた。死を覚悟したところを、黒髪がきれいな女の子、ユインに介抱され、彼女を好きになり、あなたと結婚したいと言った。ユインは、あなたが元気になってそれでも私を好きなら迎えにきて、と言ってくれた。元気になって金を稼いで彼女を迎えに行けるようになるまで、三年かかってしまった」
「そうか」
ユインはきっと、ナイジェルをずっと待っていたのだ。だから押し花の栞をずっと持っていた。ナイジェルが自分を迎えに来てくれたと知った時、彼女は嬉しかっただろう。
「ナイジェルはどうして女装し、ナナとなってパーティーにやってきたんだ」
「女のふりをしたナナとなってユインに近づいたほうが、彼女をアルバンの元から連れ出しやすいと思ったんだ。アルバンはユインをぞんざいに扱う割にはユインに執着していたし、男が好意を持って近づいたらすぐに気づいて、アルバンは俺を追い出すだろうと思った。それなら、ナナとなってユインと沢山、会話を重ねて、彼女を連れ出したいと思った」
なるほど、と内心呟く。フィルトが感じていた、ナナの「切実さ」というものは、ユインに近づくために女装していたためだ。ユインに近づくために、ナナは苦労したのだ。
「それで、ユインと君は、パーティーを出ようとしたの?」
「ああ。でもカーシュたちが俺を好きになるなんて思っていなかった。もっと俺が立ち回りをよくすればあんなに拗れることはなかったし、ユインを巻き込むこともなかった。それはすごく、申し訳ないと思っている」
フィルトは芋をかじった。
「君が意図的に拗らせたわけじゃないなら、俺はもう、君を責めたりはしないよ。……ナイジェルとユインは両想いだったんだね」
「うん」
あっさり頷くナナ――ナイジェルに、フィルトは笑った。
「そっかあ。まあ、よかったと思うよ。君と一緒にいるユインは嬉しそうだったから、二人で暮らしていけばいい」
「うん。そうするつもりだ。ユインが元気になったら、君たちとは別れることになる」
ナイジェルが立ち上がったので、フィルトは手を振る。
「ユインに面会に行くんだね」
「ああ。ユインの意識は少しずつ回復してきたのが、嬉しい」
去っていくナイジェルの後ろ姿を見、フィルトは芋を見た。まだ温かい芋を食べると、美味しかった。
ふーっと息を吐く。
エードの足音が聞こえ、フィルトは立ち上がった。
終わり