ループ後の世界
彼がタイムループの話を初めて口にしたのは、三ヶ月前のことだった。二人でいつものカフェに座り、何気ない日常を過ごしていた時、彼は突然こう言った。
「俺、何度もこの世界をやり直しているんだ」
私は笑った。「また冗談だろ?」
だが、彼の目は真剣そのものだった。いつもの軽口とは違う、どこか遠くを見つめる瞳。何かを追い求め、何度もその何かに敗れた者の目だった。
「最初はどうやっても救えないって思ったんだ。何度やり直しても、同じ結末が待っていた。でも、少しずつ違う選択肢が見えてきて、変えられるものもあった。ただ……」
「ただ?」
「どうしても、誰かが犠牲になるんだ」
彼はそう言って視線を落とした。私は何も言えなかった。タイムループなんてSFじみた話、信じられるわけがない。それでも、彼の言葉はどこか胸に引っかかるものがあった。
彼の「タイムループ」は冗談だと思っていた。それでも、彼の行動は徐々に変わっていった。以前は明るく、誰よりも前向きだった彼が、日に日に疲弊していくのが目に見えて分かった。学校を休みがちになり、連絡も取れなくなっていった。
ある日、久しぶりに彼からメッセージが届いた。
「今回のループも失敗した」
何のことか理解できなかった。ただ、その短い言葉が不安を煽った。彼の話が本当だとは思えなかったが、それでも放っておくことはできない。
「またループして、みんなを救う方法を探すんだ。でも……」
「でも?」
「お前だけは、救えないかもしれない」
彼の言葉が理解できなかった。私は彼にとって何か意味のある存在なのだろうか? その答えを知る前に、彼は姿を消した。タイムループという幻想の中で、彼は一人戦っている――そんな気がした。
彼が自死を選んだのは、それから一ヶ月後のことだった。遺書もなく、ただ静かにこの世を去った。何が彼を追い詰めたのか、その理由を知る者は誰もいなかった。けれど、私は知っていた。彼が何度も口にしていた言葉が、今も耳に残っている。
「このループも失敗した」
彼が何度も時間を遡り、世界を救おうと試みていたというその馬鹿げた話。それが事実だという証拠は何一つない。それでも、彼の目を見たとき、私は理解していた。彼は真剣だったのだ。
そして、彼が言っていた「救えない存在」というのは、私のことだったのだろう。この世界の私は、彼の選択肢の中に含まれていなかった。彼は私を救うことができないと知り、別の世界へと旅立ったのだ。
私は、彼の残したこのバッドエンドが確定した世界で生き続けるしかない。彼がいない世界で。
彼の死後、私は彼の部屋を訪れた。そこには一冊の手記が置かれていた。乱雑に書き込まれた文字は、彼の焦燥と絶望を感じさせた。
「何度もやり直した。だが、誰も救えない。誰かが犠牲になるのを止められない。俺の選択が間違っているのか、それとも世界がそういうものなのか……もうわからない」
彼の手記には、絶望と苛立ちが溢れていた。しかし、その最後のページにだけ、静かな決意が綴られていた。
「次のループでは、すべてを救う。そのためには、俺はこの世界の存在を捨てるしかない」
そして、彼の部屋の片隅には、一枚の写真が置かれていた。私と彼が笑顔で写っている写真。しかし、背景に映る場所は見覚えのない風景だった。
私は写真を手に取り、その不思議な場所をじっと見つめた。ここはどこなのだろう? そして、なぜこの写真が彼の最後のメッセージとして残されているのか。
「次のループでは、すべてを救う」
その言葉が、私の心の中で繰り返される。彼が望んだ「救い」とは何だったのか。そして、彼が捨てたこの世界は、本当にバッドエンドが確定しているのか?
写真に映る異世界の風景を見つめながら、私は決意を固めた。彼が残した謎を解くため、そして彼が本当に成し得なかった「救い」を探すために、私もまた次なる旅を始めることを。
彼が残した「次のループでは、すべてを救う」という言葉と、見知らぬ背景の写真が、私の中で何度も反響した。
あの日以来、彼が遺した手記と写真は、私にとって呪いのように思えた。
写真の中で笑う二人の姿は、彼と私に間違いない。けれど背景に映る風景――そこは見覚えのない、異質な場所だった。
廃墟のような建物群。灰色の空と枯れた大地。どこまでも広がる絶望的な風景。だが、写真には確かに希望が写っていた。
彼の「次のループ」とは、この場所で始まるのだろうか。
だとしたら、私はどうしてこの写真を残した彼の言葉を無視することができるだろうか。
それから私は彼の手記を読み返し、彼の行動を追うことにした。
タイムループという不確かなものが現実だと仮定するなら、彼が何を見て、何を感じて、何に敗れたのか――私はその道筋を辿る必要があった。
「記憶だけを過去に送信する技術を駆使する」――彼の手記に記された技術は、私には到底理解できない内容だった。しかし、その手法に彼は「擬似リープ」と名付けていた。
世界が終わるまでの間に、限られた時間で記憶を遡らせ、違う選択肢を試す。そしてダメなら、彼の特殊能力なのか、別の世界線を越えるために擬似リープではなく自殺によるリープを行う。
「世界線を完全に変えることはできないが、記憶を過去に送り、準備をすることは可能だ」
彼は何度もそれを繰り返し、私を含めた多くの人々を救おうとしていた。だが、その道程の中で必ず誰かが犠牲になった。
「どうしても、誰かが犠牲になるんだ」
あの時の彼の言葉が、ようやく理解できた。
そして私は思った。
彼のいない今、次にこの擬似リープを使うべきなのは、私だ。
――世界の終わりは、確実に近づいていた。
彼の言葉を信じるならば、この世界の未来には暴走が待ち受けている。そして、彼はそれを止めることができなかった。
私は決めた。彼が残した手記と技術を使い、私自身の記憶を過去に送ることで、次の「世界」を待つ。彼が戻ってきたとき、私はもう彼を一人にしない。そして、彼が救えなかったものを救う。
だが、問題は多かった。
彼と違い、私は「擬似リープ」の技術を完全に理解していない。
しかも、失敗した世界線にいるこの時間の人々は、そのまま放棄されてしまう。
「非ループ者の苦痛と、どう向き合うべきか」
その問いは、何より重くのしかかった。
彼が悩み、絶望したのも分かる気がする。
誰かの未来を選び、誰かの犠牲を看過する――それは、一つの加害でもあるのだ。
数日後、私は手記を読み進めていく中で、一つの場所の存在を見つけた。
それは、彼が何度も訪れたという「終わりの街」。
そこは、世界が崩壊へ向かう兆しが顕現する最初の場所だという。そして、写真に写っていた背景こそが、その「終わりの街」だった。
「次のループでは、すべてを救う」
彼は、その場所で何を見たのだろうか。そして、なぜその写真だけを残したのか。
私は荷物をまとめ、写真に写る風景を目指すことにした。世界が終わる前に、彼の痕跡を辿り、真実にたどり着かなければならない。
「終わりの街」は、思ったよりも遠くなかった。
彼の手記に書かれていた道順を頼りに、車を走らせると、次第に風景が変わっていく。
荒れ果てた大地。そして、見覚えのある廃墟が視界に飛び込んできた。
「ここだ……」
私は車を止め、外に降り立った。
写真の中と、寸分違わぬ景色が目の前に広がっていた。まるで時間が止まっているかのようなその光景に、私は息をのむ。
廃墟の一角に足を踏み入れると、そこには――彼が遺した、最後の痕跡があった。
一冊のノートと、一台の古い機械。
「擬似リープ装置だ……」
彼が記憶だけを過去に送るために使った装置が、そこにあったのだ。
私は彼の手記を頼りに装置を起動し、自らの記憶を過去へと送る準備を始めた。
しかし、そこには一つの大きな問題があった。
――この装置を起動すれば、今の私は「ここ」から消える。過去の記憶に上書きされ、未来の自分を導く存在としてしか残れない。
それでも、私は迷わなかった。彼がどれほど苦しみ、何を守ろうとしていたのかを知ったから。
「彼を待つ。そして、すべてを救う」
そのために、私は記憶を過去へ送り込む。
装置のスイッチを押した瞬間、視界が一気に暗転した――。
気が付くと、私は「過去」に戻っていた。
時間軸は、彼がタイムループの話を初めて口にした、あの三ヶ月前のカフェだった。
「俺、何度もこの世界をやり直しているんだ」
彼が、あの時と同じ言葉を口にする。
だが、今度は違う。
私には彼の言葉が、誰よりも重く、そして真実に聞こえた。
彼は私を見つめ、真剣な瞳で続ける。
「……どうしても、誰かが犠牲になるんだ」
私は彼の手を取った。
「大丈夫。今度は、私がいるから」
彼が一瞬、驚いたように私を見つめる。そして、少しずつその表情が崩れ、涙が零れた。
「……お前だけは、救えないかもしれない」
「そんなこと、言わせない。必ず救うから」
私は過去に戻り、この瞬間からすべてをやり直す。彼が一人で抱えてきた苦痛も、失敗も、もう終わりにするために――。
彼の戦いが一人で終わることのないように。
私もまた、記憶の中の「次の世界」で彼と共に戦う。
そして、最後には――「すべて」を救うために。