恐怖
おにぎりをぼんやりと口に運ぶ。食欲なんか無かったけど人間は食べないと死んでしまう。何とも難儀な生き物。
何のおにぎりを買ったのか覚えてないし、別に何味でも良かった。ただ、海晴がよく作ってくれた梅のおにぎりだけは選ばなかった。
初めて家でご飯を作ってくれた時、なんにも入ってない冷蔵庫に梅干しが入っているのを見て「好きなの?」と聞いてきた。あの時は特別好きだった訳じゃないが、今となっては恋しくなってわざわざ梅干しを買うためにスーパーに行く。自分でも阿保らしいとは思っている。
今は海晴が居なくなって冷蔵庫の中身が梅干しだけになった。コンビニ弁当の一時保管場所に元通り。
ずっと、なんであの時にあんな事を言ったんだという後悔とこれで良かったんだという諦めが行ったり来たりする。あまりにも考えすぎて胃が痛い。呼吸も浅くなった気がする。食事も別にいらない。睡眠も上手く取れない。
見かねた先輩が「体調悪いなら帰っていいよ?」と言ってくれた。でも、家に帰れば何も無い家が待ってる。海晴のいない家が待ってるだけ。海晴と過ごした家が待っている。そんな家で1人過ごしたら、考えたくなくても海晴のことを考えてしまう。
まるで何もなかったかのように、ひょっこり帰ってくるんじゃないか。あれは私が見ていた悪い夢で、本当は海晴は倒れて無いんじゃないか。
そんなことを思ってしまう。
だったら会社にいて他の人と話したり、仕事をしている方が気がまぎれる。
でも、ふと泣きたくなる。海晴が自分の世界からいなくなったという事実を受け入れたくない瞬間が来る。自分からその手を離したくせに。
それくらい海晴が家にいるのが当たり前の存在になっていた。いて当然。帰ったら「おかえり」と言ってくれる存在。帰ってきたら「おかえり」と言える存在。
いつも私は自ら手放して後悔する。
実家から出た時もそうだった。もう戻ってこない、絶縁してやるそのくらいの心意気で出てきたはずなのに、実際に都会で1人暮らしをしたらどうしたらいいのか分からなくて、寂しくて何度も泣いて後悔した。
あの時も「家に誰かがいる」事のありがたさを実感していた。それなのに1人でいることに慣れてしまって、また同じことを後悔している。
学ばない自分に嫌気が差す。
きっと海晴がいないことにも慣れる。
そう割り切ってしまえと頭は言うのに、慣れたくないと心が言っている。慣れてしまえば本当に海晴の存在を追い出してしまうみたいで嫌だった。自分から手を離したのに。
私が何度目か分からないため息を吐くと後ろから頭を叩かれる。そんなことをする人はこの会社に1人しかいない。振り返るのも少し億劫で、でも振り返らないのも失礼なのでゆっくりと振り返る。
「士気が下がる」
「先輩…」
「毎日隣でため息つかれてみろ。こっちまでテンション下がる」
「すみません…」
「どうせなんかあったんでしょ。今日飲み行くよ」
「え…」
どう頑張ってもそんな気分ではない、と言いたかったのだが指をビシッと刺されながら「強制」と言われてしまったので、行くことにする。
もし海晴とのことが無ければ、デートだ!と手放しに喜べただろう。残念ながら今の私はそこまで能天気にはなれない。
「で、ここ2週間くらい何があったの?」
まあ大体想像着くけど、と言いながら先輩はお通しの枝豆を口に放り込む。
「いや…」
「何?別れたの?」
別れたという言葉は正しいのか正しくないのか分からない。傍から見るとカップルに見えるのはこの間で明らかだと言うことが分かった。それに先輩もそうやって勘違いしている。まぁ、自分が同性愛者であることを伝えて無いのだから、そういった反応になるのは当然。
無言でさっき頼んだサワーをちまちま飲みながら、うじうじと考える。見かねた先輩が
「別れたとかじゃなかったとしても、その人となにかあったんでしょ?」
と助け舟を出してくれる。
「…倒れました」
「え?」
「海晴が過労で倒れて、何でちゃんと見てなかったんだって怒られました。私が海晴の近くにいるのはふさわしくないと判断したので、帰ってこなくていいって言いました」
先輩が片手に持ったビールグラスに口を付けながら固まる。そして、そのまま、勢い良く残りのビールを飲み干し、グラスをテーブルにダンッと置いた。あまりの勢いにビックリした。
「はぁぁぁぁ?怒られたって誰に!?え?部外者!?」
「あ、いや、部外者じゃなくて、海晴の仕事場の、オーナーさんで」
「いや、部外者だろ!!2人の共通の友人とか、出会ったきっかけになった人とか、頻繁に2人から相談に乗ってた人なら分かるよ!?でもそうじゃないんでしょ!?」
「あ、私は初めてお会いしたんですけど、海晴は昔からお世話になってるみたいで…」
「関係無いよ!というか初対面で説教してくんなよ!」
「すみません、生おかわり!」と近くにいた店員さんにグラスを渡す。ちゃんと忙しく無さそうな店員さんを選んで注文しているあたり、怒っていても周りを見るだけの理性が働いている。そういった所が好きだ。
「しかも過労で倒れたって!?自分の事くらい自分で管理しろよ!彼女に管理してもらおうとか、甘ったれんな!!」
お酒も入っているからか、先輩の口から次から次へと怒りが溢れだしてくる。
上手く感情を口に出したり、表情に出したりすることが出来ない自分からしたら、素直に怒り、悲しみが表に出てくる先輩が羨ましい。
「だけど!!一番腹立つのは早峰さん!」
「え?」
「なんで手離しちゃったの!見るからに好きだったじゃん!ふさわしくない?絶対そんなことない!!そもそも誰かの隣にいるのに別の人からの評価とか関係無いし、話聞く限り絶対向こうも好きだったじゃん!好き同士なんだから好きにしたら良いんだよ!!どういう形じゃないといけないとか無いでしょ。彼女が彼氏を見てないといけないとか、彼氏が稼がないといけないとか。そんなの2人にはマッジで関係ない!!2人には2人の着地点があるの。それに関して他人がとやかく言うことじゃない。それに早峰さんは寄り添おうとしてたし!」
先輩の口からどんどんあふれ出る言葉を軽く受け止めながら、さっき先輩の口から出た「2人には2人の着地点がある」という言葉が引っ掛かった。
「2人には2人の…」
思わず口に出す。頭では分かっていたのかもしれない。自分が気にしすぎる性格だって事が分かっていたのだから。でも、気にしないやり方が分からなくて。恋愛って、カップルってこういう物という世間からのイメージしか私は知らなかった。
大切なのは世間のカップルのイメージじゃなくて、自分たちのなかでのカップルのイメージを共有すること。そして、そこを2人で見つめること。
それを理解するのに随分と時間が掛かったものだ。
「そう、この間も言ったでしょ?そもそも他人なんだから、相手が何を考えているのかとか分かりっこないのよ。育ってきた環境も、何が好きで何が嫌なのか。全部違う。それを話し合って、じゃあ、ここはこうしようとか話し合うわけ。そして、話し合った結果2人が落ち着くところに落ち着けばいいの。そこに他人の意見なんか関係ない」
先輩の言葉全部がストンッと心に落ち着いた。
正直、先輩の励ましの言葉はカップルを大前提にしているがそれでも、私と海晴が他人な事には変わりない。一緒に住んでいる、同棲中のカップルに似たような物なのは変わりない。
「まぁ、言葉でいうのは簡単なんだけどね」
先輩が少し悲しそうにつぶやく。
その様子をみて、なんとなく失恋したと思った。根拠はないけど、今まで散々味わってきたから分かる。普通の人寄りも多く失恋してるから分かる。
「彼氏さんとなにかあったんですよね?」
「え、彼氏いるって言ったっけ?」
「いいえ、聞いてないです。でも、なんとなく、そうかなって」
「エスパーじゃん」
もともとクリクリした目が驚いて更に大きくなる。よく見たらクリクリの目が海晴に似ている気がする。目だけだけど。
「まぁ、ただの喧嘩だよ。一番くだらない、言った言ってないってやつ」
くだらないって分かってるんだけどねぇと言いながらまたビールを煽る。そしてまた近くにいたあまり忙しくなさそうな店員さんを捕まえて、今度はハイボールを頼む。ついでに私のサワーも頼んで、おつまみも追加した。
不思議と、先輩に彼氏がいたことは落ち込まなかった。多分もうとっくに諦めてるからだと思う。好きな気持ちが無いわけでは無い。でも、自分の中で絶対無理だと分かっている相手に向かっていけるほど、私の心臓は強くない。
「頭では分かっちゃいても、心が追いついてくれない事ってあるよねぇ」
「私も、分かってたんです。海晴が居なくなったらめちゃくちゃ落ち込むって。でも、だからこそ一緒に居ちゃいけないって思って」
「一緒に居ちゃいけない人なんかいないよ」
先輩が私の言葉を遮って真面目な顔をして言う。そのあとふわっと顔がほろんで「でも、それも頭と心が一致してくれなかったんでしょ?」と言う。
それもある。でも、私の心を占めていたのは「この人と一緒に居たら幸せになってしまう」これだった。
あの時心にも無いことが口からポロポロと出てきたのは、恐怖心から。和島さんに対してじゃない。海晴を失うことに対してじゃない。「自分が幸せになってしまう事」だった。
今も、きっと海晴はあの病院にいる。話に行けばいいのにそれをしないのは、心の底から幸せになるのが怖いと思ってしまった。また幸せを感じて、また失ってしまったらどうしよう。今度は立ち上がれないかもしれない。
立ち上がれなかったら、その先に待つのは死だ。
自分の性格のことだからよくわかる。私が本気で死のうと思ったらためらいなく死んでしまうだろう。
でもそんなことを言いながら、死ぬのは死ぬほど怖い。だから、立ち上がれなくなった時の事が怖い。
海晴と過ごして、前ほど頻繁に死にたいとは思わなくなった。でも、人生の大半を死にたいと思っていた人間が、たった一人との出会いでその考えがまったく真逆に変わるかと言われたら実際はそんなことなくて、いまだに私は早く死にたくて死ぬのが怖いと思ってる。
でも、死ぬのが怖いと思わなくなったら?思わなくなることはないかもしれないが、もう全部どうでもいい。全部捨ててしまおうと思う事は、きっとこの先あるだろう。
そしてそのきっかけはきっと「幸せ」だ。だから逃げる。「幸せ」を感じたら、次はどう転がるか分からない。よくアニメ等で超人的な能力を持ってその力を制御出来なくておびえている人がいるが、その人の気持ちが痛いほど良く分かる。正気を失うというのはそういった恐怖を増進させてくる。