拾い猫
されたことは同じことを倍にして返す。それがあたしのやり方。
気に入らなければ、離れればいい。
ヤツにそう言ったのに、颯汰は動こうともしなかった。
颯太がこの部屋に棲み着いて、まだたったの三日。
それなのに、相変わらず狭いベッドのあたしのパーソナルエリアに入り込んで、
平気でタバコを吸っている。
「何それ、同情されたいわけ?」
一通り生きてきた流れをかいつまんで話してみたら、颯太は見事にハナで笑いやがった。
こっちはこっちで、いろいろ地雷を抱えて苦しいんだ。
あんたみたいな無神経な男に、軽く傷跡に触れられて、自爆するのはゴメンだと思ったから。
ただそれだけだったのに。
「特別だと言いたいんだろ?あたしは周りの人間とは違うのよ、って。
前に付き合った女にもよくいたな、おまえみたいなタイプ」
灰皿なんてないから、飲み干したビールのブルトップのすき間に、無理やり長い吸いさしをねじ込む。
「あんたにはないんだ、触れられたくない過去とか傷とか」
言って何か変わるならいくらでも言うさ。あくまでもバカにしたような口調。むかつく男。
こんなヤツ拾うんじゃなかった。
あの日、夜中に雨が降ってるっていうのに、傘も差さずに突っ立ってた。
タバコの火なんか付きもしないのに、何度もライターをかちかち言わせて。
ヤツは寒さで身体が震えていたから、あたしは心が震えていたから、何となく拾った野良猫。
「バカな男にはわかんないのよ」
「わかりたくもねえよ。タバコ、あるならちょうだい?」
そんなときだけ甘えた声。本当にこいつは野良猫かも知れない。
ずぶ濡れのむさ苦しいガリガリに痩せた猫。
でもなぜかあたしは素直に立ち上がると、しまい込んであったマルボロを差し出した。
前の男が残していった唯一の…思い出。早くさっさと吸って、捨ててしまってよ。
「傷ついた女の考えること、やること、おまけにやってきたことなんてみんな一緒だよ。
特別でも何でもない。だけど、この世界でただ一人の存在でいたいんだとよ。
おれが言ってるんじゃねえよ、お偉い学者がそう言ったんだ」
どういうこと?あたしは頭をかしげた。
「普通の存在でいるには辛すぎる。特別な才能を持った何かになりたい。
それがかなわないのならせめて、他の人間にはない、何かの過去や傷を持つ
かわいそうなあたくしでいたいんだと」
「だってそれが事実なんだから、しょうがないじゃない」
思いこみであったらどんなに楽だろう、何度も自分に問いかけた。自分の過去も傷も苦しみも、すべて何もかも自分の妄想であれば、こんなにあたしは傷だらけの身体をさらすこともないのに。
「おれが言いたいのはさ、人間なんて大差ないって話だよ」
「あるよ!!大きな大きな差があるじゃんか!!それさえ否定されたら、あたしは生きていけ…ない」
バカみたいに涙がにじんだ。こんな人間かどうかわからない拾い猫の言うことを、あんたは信じるつもり?
「じゃあ一生、かわいそうなあたくしでいろよ」
颯太の冷静な声に、思わずあたしは吸いかけのタバコをむしり取った。あんたにやるタバコなんてない!
早くこっから出てって!
そう言うとなぜか颯太は哀しげな顔をした。きっとタバコに未練があったに違いない。
「なあ、特別じゃなきゃいけないのか?その他大勢の中の一人でいいじゃん。
客観的って言葉、知ってるか?お客の客に、観光の観に…」
「知ってるわよ!!いちいちむかつく男!!」
客観的がどうだっていうのよ、どうせ女は感情的だ何だとご託を並べるに決まってる。
「わかってねえなあ」
颯太のため息。何でこんなに偉そうなんだろう。ただの野良猫のくせに。
人の分まで感情を持っていこうとするつもりなの?
「世界中にただ一人、おまえの味方はいるだろう?」
「誰もいないの、あたしには。だからあれだけ言ったじゃない」
颯太がじっとあたしを見つめる。思いがけないほど澄んだ瞳。柔らかい表情。
くせっ毛の髪に指を差し込むと、イヤというほど絡まることはさっき実証済み。
細いわりにやけに温かい身体と、大きな胸と、はっきりと聞こえる鼓動も、すぐ近くで感じていたこと。
「バカ、そこにいるじゃねえか」
颯太はまっすぐあたしを指さした。思わず目を大きく見開く。意味わかんない。
「自分だけは自分の味方でいてやれよ。それがどんなにしんどいことでもさ。ほんの些細なことでいい。
見つけてやれよ、たった一つでいいから。例えば…そうだな…」
「たと…えば?」
本当にバカみたいにあたしは颯太の言葉をくり返した。
ヤツの強引な論理に巻き込まれるつもりなんてなかったのに。
「おれにタバコをくれた。濡れネズミのおれを拾ってくれた。あんたは優しい人だよ。
だけどそんな言葉、いくら他人から言われても信じねえだろ?だからおまえが自分で言うんだよ。
あたしは優しい女だ、って」
そんなこと、言えるはずも認められるはずもない。
あたしの心を見透かすように、颯太は言葉を続けた。
「だから傷ついてる女は思考回路がおんなじだっつうんだよ。
いっぺんでダメなら、百回言ってみな?千回でもいいぜ。そのうちアホらしくて、寝ちまうかもな」
笑いながら颯太は立ち上がった。乾いたシャツとGパンを身にまとう。
「どこ行くの?またあたしを一人にするの?」
颯太は半分だけ笑うと、手を差し出した。
「残りのタバコ、全部くれよ。どうせおまえは吸わないんだろ?もらってやる」
なんて図々しい男。違う、あたしの言いたいことはそんなことじゃなくて。
「一人が寂しいなんて言うなよ。哀しくなるから。おまえはおまえ自身の一番の味方でいろ。
それ以上の強力な援軍なんて、どこにもいねえぜ?
それがどんなに苦しくとも、おまえは自分を可愛がってやれ。一人でいることを怖がるな。
一人はいいぜ?誰も反対意見なんか言うヤツがいねえんだから」
「颯太は、そうやって……生きてきたの?」
カラカラの声であたしはヤツにそう言った。
まるで颯太は自分自身に言い聞かせてるみたいに思えたから。
ふっと笑うと颯太は何も言わず、来た時みたいにふらりとこの部屋を出ていった。
マルボロの残り香。
なぜかあたしは颯太を引き留めなかった。一人だけのパーソナルエリア。小さいパイプベッド。
毛布をかぶってそれを握りしめて、あたしはたった一粒だけ涙を流してみた。
優しい女…か。
もうあたしは明日から、きっと野良猫は拾わない。なぜかそんな気がしてならなかった。
<了>
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