3滴目、あるいは最後の(完)
そして、翌日。
雲一つなく晴れ渡った空の下で、姫さんは、公爵家当主のアホを呼び出した。噴水の前に。
俺は、存在しないはずの胃がきりきりと痛むのを感じた。あぁ、どうか、アホがこれ以上アホな真似をしませんように。ちゃんとキメるべきところでキメられますように。
姫さんは、いつも以上に気合を入れたのだろうドレス姿で、アホと対峙していた。石畳の上に、二人分の影が落ちる。美しく装った姫さんを前に、アホはそっと目をそらした。
く~このアホ! どうせ姫さんが綺麗すぎて直視できないとか思ってるんだろうが、姫さんの身になってみろ! ただでさえ自信が足りない姫さんだぞ、変な服装だったろうかと不安で涙目になってるだろうが!
「キーリ、その、忙しいところを呼び出してしまってごめんなさい……!」
「姫の望み以上に優先するべきものなどございませんよ。いつでもお呼びください」
「あ、ありがとう。 ─── あのね、キーリ。これから話すことは、もうずいぶん昔のことだから、あなたは覚えていないかもしれないのよ」
「はい」
「覚えていなくても、仕方のないことだわ。責めるつもりはないの。本当よ。わたしはただ、確かめたいだけなの。だから、正直にいってね」
「……はい」
姫さんは、無理をしていると一目でわかるような顔で、それでも精一杯微笑んでいった。
「10年前に、ここで約束したことを、覚えている?」
「 ─── っ、それは……」
キーリが息をのんで、返答に迷った。
姫さんにはそれで十分だったんだろう。諦めるには、十分すぎた。
キーリが何とか言葉を絞り出そうとするのを制して、早口にいった。
「いいの。気にしないで。ごめんなさい。確かめたかっただけなの。昔の話よ。わたしも忘れてしまったわ。あなたもきっと忘れていると思って、それを確かめたかっただけなのよ」
「姫……! 俺は……っ」
「ごめんなさい。昔の話よ。今さら蒸し返すべきじゃなかったわ。どうか忘れてちょうだい。わたしももう忘れてしまったから」
姫さんが、悲しいほどにきれいに笑って、その場を立ち去ろうとする。
キーリが、たまらずといった様子で、姫さんに追いすがった。
「待ってください、姫! 覚えています、俺はずっとあなたのことを……!」
「やめて。あなたに無理を強いたいわけじゃないの。本当よ。あなたとはこれからもいい友人でありたいと思っているもの」
「聞いてください、姫。遅すぎることはわかっています。あなたをこれほど待たせておきながら、今なお俺はふさわしい男になれてはいないことも。ですが」
「聞きたくない。お願い何もいわないで。わたしきっと泣いてしまうわ……っ。そうしたらあなたは困ってしまう。わかっているから嫌なの……!」
「姫……!」
このアホー!!!
アホキーリ、姫! じゃねーよ、お前な、ここは今こそ、腹の底から愛を叫ばんかい!!!
姫さんもイヤイヤしてないでちゃんと聞く!!! すぐ逃げ腰になるんじゃないの!!!
……って待てよ、おい、二人とも、マジでこれで別れる気か!?
おいおい、何やってんだよ!
姫さんは聞きもしないで立ち去ろうとして、アホは追うこともできないで立ち尽くしてるじゃねえか。
嘘だろ、本当に、これで終わりだと……!?
ふっ、ふざけんなー!!!
こんな悲しい結末、俺は認めねえぞ!!!
俺は、全身にありったけの力を込めた。
老朽化して古ぼけた噴水が、がたがたと鳴る。
俺の核である魔石に、ぴしりと亀裂が入って、そのまま砕けていくのがわかった。
それでも俺は、力を振り絞った。
最後にもう一度だけ、もう一度だけ動いてくれ。
きれいなアーチじゃなくていい。
虹を作り出せなくていい。
ただ水を引き寄せろ。
循環させろ。
噴水の名にふさわしい動作で、てっぺんから噴き出してやれ。
勢いよく飛び跳ねろ。
さあ、これが最後の一息だ。
本来の場所になんて落ちなくていい。
そうとも、この愚かで愛しい二人に、頭から水をかぶせてやれ ─── !
「えっ……」
「姫!」
……かくして、俺の最後の目論見は、半分だけ叶わなかった。
てっぺんから勢いよく噴き出した水は、二人をずぶ濡れにする前に、キーリの風魔法によって防がれたからだ。水はすべて散っていって、一瞬だけほのかに虹を浮かばせた。
あとに残るのは、とっさに姫さんを庇うように抱き寄せたキーリと、頬を赤くしている姫さんだけだ。
キーリは、この最後のチャンスに縋りつくように、必死でいった。
「愛しています、姫。あなたを10年も待たせてしまって、それでも俺は、あなたにふさわしい男になれたとはいえません。それでも俺はあなたを愛している。愛しているんです。愛以外の何も、俺にはないけれど。あなたに釣り合うといえるものを、俺は何も持っていないけれども。許されるならどうか、俺はあなたと一生を共にしたい。俺はこんな性格で、陰気で、面白みもなくて、夫にしたいと思えるような男ではないとわかっています。それでも」
「キーリ」
「はい」
姫さんは、花がほころぶように笑った。
「嬉しい」
「姫……!」
「ずっと待っていたのよ。あなたからの愛の言葉だけを、わたし、ずっと待っていたの」
キーリが、感極まったような顔をして、愛しています、とだけ告げた。
姫さんは、とても幸せそうに笑った。
─── あぁ。
あぁ、よかったなあ。本当によかった。よかったなあ。
俺にもし余力があったなら、涙代わりに大量の水を噴き出させていたところだ。
この王宮の誰も知らないだろうが、俺はとても長く生きてきた。
大昔に俺の核を作った魔法使いは、恐ろしく力が強かったから、俺は普通の噴水よりもずっと長い時間を過ごしてきた。
─── ……その間に、いろんなものを見た。
戦争が起こって、俺の前で、何人もの兵士たちが倒れていくこともあった。
反乱が起こって、俺の前に、亡骸が投げ捨てられたこともあった。
俺自身が、真っ赤に染まってしまったこともあった。
だけど、人間の世界は、少しずつ秩序を作りあげていって、少しずつ平和になっていった。
俺の前にはベンチがこしらえられて、王宮で暮らす人たちが、ときおりここで息抜きをするようになった。
真夜中に、大きなお腹を抱えて、途方に暮れた顔でここにやってきた王女もいた。
俺の長い噴水生の中でも、初めて、俺の姿が見える人間だった。
彼女はいった。
─── 政略結婚で結ばれた夫は、女遊びに励んだ挙句、敵国の間者に引っかかって国家機密を漏らしてしまった。だから病死として処理するしかなかった。だけど自分一人でこの子の親になれるだろうか。自分がまともな人間ではないのはわかっているのに、母親になんてなれるだろうか。……愛せるだろうか。産んだところで、不幸にするだけじゃないだろうか。生まれ落ちたことを呪う日が来るんじゃないか。私のように。
そう、ぽつりぽつりと、虚ろな瞳でいう王女に、俺は噴水の神様のような顔をして、腰に手を当てて、ふんぞり返って告げたものだ。
─── 腹いっぱいにメシを食わせてやれ。温かい寝床を用意してやれ。その子を慈しんでくれる人間や、守ってくれる人間を傍に置いてやれ。ときどきは抱きしめてやれ。そうやって、大事にしてやれ。それができたら、愛せなくても大丈夫だ。なーんにも心配はいらん。お前はただ、大事にしてやればいいんだ。それができたら、愛せなくても大丈夫だからな。
そうして生まれてきた娘は、天使のように可愛くて、少しだけ気が弱くて、自信が足りなくて、好きになった男はとてもアホで、愛情深くて頑張り屋さんで、心優しい姫さんだった。
俺の最後の噴水生は、育っていく姫さんを見守るためにあったのだ。
だけど、その役目も、ついにおしまい。
姫さんには、一緒にこれからを歩いていく相手ができた。
ちょっと寂しい気がしてしまうのは親心ってやつだろうか。いや俺、噴水なんだけどな。
だけどもう、水は一滴も流せない。さっきのは最後の大技だ。魔石も砕け散った。あぁ、悔いはない。俺にしては、なかなか頑張ったものだと思う。
どうか、どうか、姫さんがいつまでも笑顔でいられますように。
それに、 ─── も。
お前もどうか、幸せであってくれ。
最後にそう祈りを捧げて、俺はまどろむように目を閉じた。
そして俺は眼を開けた。
『治すなっていったよなあ、女王!? 俺は修復は望まないっていったよなあ!?』
「噴水生を全うしたい、だろう? 大丈夫だ、私が死ぬときには力ずくでも道連れにしてやる」
『なにも大丈夫じゃねえんだよそれは!!!』