第一話 エメラルドの彼女
——その日、オレは運命ともいえる出会いを得た。
七月二十二日、金曜日。
待望の夏休みは今日から始まっているのだが。
オレたち三人はいつもと同じように連れ立って登校していた。まだ朝の八時を少し過ぎたくらいだが気温はもうすでに上昇の気配を見せていて、七月も終わりに近づくにつれて涼味を含んだ朝の空気は徐々に夏の色に染まりつつあった。
通学路に生徒の姿はまばらだ。それもそのはず、日本全国津々浦々、今日から夏休みで、例えば熱心な部活なんかは朝の涼しいうちからとばかりにとっくに朝練を始めているだろうし、夏季補習とやらがなければ大多数の者が今頃クーラーの効いた涼しい部屋で寝返りをうっているに違いないだろうから。いつもと同じ時間帯、いつもと同じように首筋に汗を滲ませながら登校する生徒なんてのは、つまるところオレたち以外にはほとんどいないってワケだ。
夏休み。
シンプルこの上ないこの呼称からまず連想されるものといえば、海に代表される水遊びだ。水着姿で白い肌を惜しげもなく露出させた美少女やお姉さま方がキャイキャイはしゃいでいる姿が容易に目に浮かぶ。無論プールも外せないし、他の候補としては川で水遊びをしてからのバーベキューも捨て難い。仲間とワイワイ楽しくキャンプして、夜は綺麗な星空を黙って見上げたりするんだ。都会と違って高原なんかのキャンプ場は空が近くて、手を伸ばせば星に届きそうで。ロマンチックな非日常体験に二人の距離は急接近。
もちろん定番中の定番、花火大会や盆踊りも欠かせない。この日のために新調した浴衣に身を包んだ彼女の普段とは全く違う姿にドギマギしながら、たこ焼きや焼きそば、ヨーヨー釣りにかき氷、目移りしそうになる屋台がひしめく中を、はぐれないようにっていうことで自然に手と手が触れ合ったりする。手のひらにうっすら汗をかいているのはお祭りの熱気のせいだろうか、それとも。
「ねえ、すばる。さっきからずっと黙りこくってるけど……ね、あたしも一緒に話聞いてあげるからさ」
すぐ左隣を歩いていた玲子だった。こいつは華山玲子、ウチのお向かいさんで同い年。いわゆる保護者ヅラ系幼馴染ってヤツだ。絵に描いたような模範的生徒で、容姿端麗才色兼備学業優秀品行方正、明朗快活益者三友に微量の天衣無縫みを含むなど、コイツを讃える四字熟語がいくつあっても足らないくらいに完全無欠。先生や生徒たちからの信頼も厚く、あらゆる部活動に勧誘された挙句おまけに生徒会からもスカウトがあったが、玲子は全て丁重にお断りをして相も変わらずオレと帰宅部をやっているという正真正銘の変わり者だ。しかしだからといって過去を書き換える使命を帯びて未来からやって来た諜報員だとか世界を守るために恐ろしい異能を奮って毎晩魔物を討伐している選ばれし勇者だとかそんな複雑な事情を抱えているわけでは決してない。
「そうですよ、兄さま。これも何かのチャンスだと前向きに捉えましょう?」
右隣を歩いているのはオレの妹、一十三。二つ下の中二だ。華奢な感じの短身痩躯に白皙の瓜実顔、豊かな黒髪をポニテに結えた姿は深窓の令嬢かもしくは今しがた難病を克服して退院してきた薄幸の美少女然としているが、見ろ、一十三が右肩に担いでいる物騒なしろものを。薄いピンク地に色とりどりの花柄をあしらった細長い布の袋。そう、あの可愛らしい袋の中には黒塗りの木刀が入っている。一十三は大人の有段者も敵わないくらいの剣の腕前で、例えば一学期末テストの前日に立ち会いを所望した剣道部顧問の先生を一撃で失神させたことがある。おかげでその教科のテストは羨ましいことにうやむやになったそうだ。将来を嘱望される美少女剣士の無双エピソードはまだまだこんなものじゃないが、それについては機会があればまた今度話そう。
「いや……」
滲み出てくる額の汗を拭い、カッターシャツの襟元を掴んでパタパタやるとほんの少しだけ暑さが和らぐ気がした。
「どこから何をどう見ても、ひたすら夏だなーって」
クスリ、と示し合わせたような二人の小さな笑い声が夏の空気を微かに震わせた。
夏休みの今日。オレはヤマキヨ——担任からの呼び出しを忠実に守り、人通りの乏しい夏の通学路を学校へ向けて歩を進めている。
おそらく一十三のいう「チャンス」とはヤマキヨと面談することで新しい「何か」に気づくきっかけを得られるとか、自分を向上させる機会になるとか、そんなところだろう。一十三らしいといえば一十三らしい求道者ムーヴだが。
呼び出しの理由については心当たりがない。一学期のことをあれこれ反芻してみたが、問題やトラブルを起こしたことはないし、成績だって中間層をフラフラしている。だからなぜ呼び出されたのかまるで分からないというのが正直なところだった。ただ、理由が思いつかないからといってブッチするのはオレのキャラじゃないし、別にヤマキヨのことを嫌っているわけでもない。何より利害関係に基づいて考えれば、担任との関係を良好に保っておいた方が何かと恩恵があるワケで。
「ねー、すばる。あの件、考えてくれた?」
オレは「いや」とだけ答える。玲子の方を見なくても、コイツが今どんな表情をしているのかは手に取るように分かった。
もー、と不満そうな声。これも予想通りの反応だった。
「折角あたしが推薦してあげたのに」
九月になれば恒例の学校祭がある。で、その文化祭を切り盛りするのが各クラスから選抜された「文化祭委員」というそのままな肩書きの役員なのだが、この頼もしすぎる幼馴染どのは自らが立候補するだけでは飽き足らずわざわざオレをその役員に推薦して下さった。
ハッキリ言って余計なお世話である。
天下無敵の幼馴染どのが仰る「あの件」とは、クラス模擬店の内容についてのレポートをまとめ上げることだ。八月の終わり頃に設定された登校日でそれを元にしながらクラス全員で話し合いを行い、みんなの意見を参考にして具体的な形に仕上げていくというその御大層な役割を、このオレが担うことになっている。玲子のおかげでな。
もう一度ハッキリ言おう。そんなのはオレのキャラじゃない。誰からも信任の厚い玲子こそが果たすべき役割だし、何よりクラスの連中がオレのリードで議論を深める場面など全く想像できなかった。
「急かすなよ。ボチボチ考えてるからさ」
クラスで孤立しているわけじゃない。築いた人間関係もそこそこだ。具体的に言えば男友だちっぽい連中と休み時間に形式的なトークで愛想笑いするくらいのコミュニケーションを普通にとれる程度のソーシャルスキルは身に付けている。
要するに居ても居なくても大して影響のない影の薄いキャラというのが今のオレにはぴったりな形容だ。
そんなオレが今回の大役を拝したとき、ブーイングどころか耳を聾せんばかりの拍手が湧き起こったのは、決して厄介な役割を押し付けることができた安堵から来ただけのものではない。
それはコイツ——玲子にこそあった。
「あたしも早く高等部に入りたいです。模擬店やってみたいですし」
えへへと笑う一十三に「そっか」とだけ答えたオレは、小さな石ころを爪先で軽く蹴っ飛ばした。小石はカツカツと転がって、やがてどこへとも知れず姿を消した。学校行事なんて面倒なだけだと思うがね。
隣の玲子に視線を移す。何がそんなに楽しいのか、玲子は口元に微笑みを湛えたまま、時折髪を撫でる夏風に目を細め、オレの隣をただ歩いている。
校舎が迫った。空を見上げるとでかい入道雲がのほほんとそびえ立っているのが見えた。
※※※
オレたちの通う学校は「学校法人私立方丈学園」といい、ここいらでは割と評価の高い私立の中高一貫校だ。何でも去年ぐらいに情報教育の旗艦校として文科省に認可されたとか何とか、そういった自慢話を教頭か誰かが誇らしげに全校集会で宣っていたような記憶がある。
「では兄さま、玲子お姉さま。あたしはここで」
剣道部員である一十三はこれから道場へ向かうらしい。中等部には週に一度部活の練習を休みにする取り決めがあるが、剣道一直線といおうかクソ真面目で融通がきかないとでもいおうか、一十三は今日が貴重なオフであるにも関わらず、自主練をするからということでオレたち二人について来たのだった。
道場のある部活棟へ走っていった一十三を見送ったオレたちは、そのまま高等部の生徒昇降口へ。ちょうど高等部と中等部の校舎の間には無駄に広い中庭があり、学校ができる前から生えているという評判の巨木の幹では蝉たちが今日を先途とばかりに大合唱の真っ最中だった。
ふと、中庭を前にしてオレは足を止めた。
いや、止めてしまった、と言った方がよりふさわしい。
およそ学校の中庭としてどうしてもふさわしくない光景を目の当たりにしたからだった。
中庭には年季の入った四阿がある。じっくり書見でもすればこの上なく絵になるだろうと以前から目をつけていたのだが、その四阿のすぐ側にはこれまた古色蒼然とした佇まいの池があった。そこには齢数百年を誇るヌシが生息しており、天に煌めく星々をゆうに越えるほどの生徒たちのアレコレを池の底から密かに見届けてきたという謎の伝説がまことしやかに伝わっているのだが。
オレが目にしたのは眉唾な伝説でその身を飾ったヌシが白昼堂々水面で銀鱗を踊らす姿などでは決してなかった。
それは一人の少女。
四阿と池のちょうど狭間にある庭石にちょこんと腰掛けた少女が、池に向かって釣り竿を垂らしていた。
「ヌシ釣り……なのかな?」
ポツリと溢れた玲子の独り言をオレは黙って聞き流す。気づけば吸い寄せられるようにしてその少女の方へと歩みを進めていた。
特徴的な栗色のツインテをした彼女は一心不乱に水面を見つめている。
水面は静かで、緑色をした小さな浮草が細波にゆっくり揺れていた。
「……釣れますか?」
少しためらったが、オレは四割の好奇心と六割の期待感に押されてそう尋ねた。
水面には波紋が浮かんでいない。
彼女が水面に向けているのは糸のついていない竿だった。
「釣れるわけがなかろう」
やや明るめのハイトーンボイスで水面を凝視したままそう言った彼女が、制服のデザインからオレと同じ高等部だということはすぐに分かった。
「ですよね」
当たり障りのない返事をしながらも、胸の鼓動が少しずつ速くなるのを感じていたオレは意を決して、
「……立派な人物はその志を得るのを楽しみ、つまらない人物は物を手に入れることを楽しむ、ということでしょうか」
そう尋ねてみる。
「餌の大小にもよるであろうな。大魚を得ようと思えばそれに相応しい餌——即ち俸給を用意せねばならぬ」
「それはつまり、役職の高低を設定することでその人物の大小に対応させている、ということでしょうか」
「魚を得るには餌をつける。人を得るのもそれと同じことになろう」
彼女の発する言葉がオレの耳朶を打つそのたびにドキドキが加速していく。
そのとき玲子がひょこりと顔を覗かせた。顔に「二人で何の話?」とばかりに疑問符を貼り付けているが、オレはそんな玲子には構わず彼女との話を続けようとした。
「いや、もうよい。互いの立場を入れ替えてみれば、相手の心もより理解しやすくなるということは十分に分かった故」
栗色ツインテの彼女は遮るようにそう言うと、くるりとオレの方に顔を向けた。
唇の端からわずかに白い八重歯がこぼれている。背格好は一十三よりも少し小さいが、胸元につけたタイの色からオレたちよりも一級上の先輩のようだ。
「寡人は二年の緑川翡翠という。射落統星、それに天帝に選ばれし幼馴染との呼び声高い華山玲子よ。これぞまさに奇縁、本日の邂逅に寡人の心も震えておる」
額を汗が伝った。それは決して夏の暑さのせいだけではない。
「ふうむ。今日は妹御とは一緒ではないのか。珍しいこともあるものよの」
その先輩は釣竿を片付けながらオレたちの左右を確認するようにちらちらと見やっていたが、
「まあよい。寡人の招聘リストには既に記載しておる故。天機とは自ずと熟すもの、人がみだりに手を入れてよいものではない」
ハハハ、と天を仰いで高笑い。さっきから制服の裾をくいくいと引かれているが、オレは目の前の栗色ツインテから目を離すことができなかった。
まるで時の流れが止まり、世界中で動いているのはオレとツインテ——緑川翡翠とかいう先輩だけに思えるような、そんな感覚。
オレを包み込んでいる忙しない蝉の鳴き声だけがただひたすらにリアルだった。