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ゼロの世界のゼロの物語  作者: 露隠端月
エピソード0-1——"出会い"
2/32

1.[転入生①]……君の名前

 今朝、変な夢を見た。

 そこには華奢で小さな少女がいて、一緒に電車に揺られているのだ。知らない街に着いて、これからのんびり出歩くのかと思いきや、突然巨大な黒い塊が出てきて、そこで夢は終わってしまった。

 意味の解らない、変な夢だ。

 まあそもそも、夢というのは脈絡も無く進んでいくものだから、変なのは当然なのだけれど……。

 ——妙にリアルだったんだよな……。

 最近、そういう夢をよく見る気がする。それにその夢を見た後は、大抵悪い事が起こる事が多い。

 けれども、今日見た夢が悪い事の筈はない。

 名波(ななみ)(あお)はノートに、夢に出てきた少女の横顔を描いてみる。

 勉強はできないけれど、絵だけは昔から得意だった。だから空想の少女の顔もさらりと描く事ができる。よく手入れされた、少し色の明るいさらさらの髪。仔鹿のような長い睫毛。シルクのような、白くきめ細やかな肌。夢の登場人物とは思えぬほどに鮮明に憶えている。

「名波さん」

 教師の呼ぶ声がした。

 蒼は落書きを中断し、顔を上げる。

「はい」

 教師は苛立たしげに教卓を指先でこつこつと叩いている。もしかしたら呼びかけは一度だけではなかったのかもしれない。

「この問い、解いてみて下さい」

 教師は眼鏡を掛け直し、黒板を指差した。

「えっと……」

 蒼は黒板に焦点を合わせる。問いは、〈集櫺(しゅうれい)関数〉の問題だった。

「解りません」

 大して問題文も読まずに蒼がそう応えると、教師は演技じみた溜め息を漏らした。

「簡単な問題です。解ける筈ですよ」

「……解りません」

 教師はまた深く息を吐き出す。

「それならしっかり授業を聞くように」

 そう注意して、教師は蒼の前の席の生徒を指名した。

「はあ……」

 授業は嫌いだ。今やっている数学は特に嫌いだ。

 複雑な計算はコンピュータにやらせれば済むではないか。コンピュータはその為の道具である筈だ。数式を入力すれば答えが出るまで一秒とかからない。

 必要なのは、だから計算力などではなく、どんな時に何の公式を使うかを判断する知識なのだ。なのに、ここでは未だに人間の脳で計算をさせている。

 ——時代遅れだ。

 思わずまた溜め息が漏れる。蒼の意識は、また夢で出会った少女に向いた。

 ——可愛かったな。

 可憐という字をそのまま人にしたような容姿だった。正直、一目惚れだったと思う。

 おいおい、それは女としてどうなんだと自分にツッコミを入れてみるが、好みなんだからしょうがない。それにそんな考えは今の時代ではもう古い。

 男に興味が無いわけではない。けれどもこんな時代錯誤な女子校では出会う機会が無いし、理想の相手(おとこ)はと訊かれてもピンとこない。カッコイイだとかイケメンだとかは判るが、恋愛対象として見ると何か少し違う気がする。

 肌は白い方が好みだし、体躯も華奢な方が良い。性格は大人しくて、優しくて、少し天然なところがあると尚良い。全体的にふんわりとした印象をしていて……想像すればするほど、その相手の特徴は可愛らしい女子になってしまう。

 それこそ、夢で見たあの少女はまさに完璧だった。おそらく蒼の好みのパーツが、夢の中でモンタージュ写真のように組み合わさって、理想の少女ができあがったのだと思う。

 蒼は黒板の上の時計に視軸を移した。授業はあと三十分もある。落書きでも再開しようかと思った時、すぐ横の廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

 丁度この教室の横辺りで足音が止むと、黒板横の扉が乱暴に開かれた。

「し、失礼……しますっ」

「……何ですか」

 教師は突然の出来事にきょとんとしている。

 ——何だ?

 声の主は教室のぎりぎり外にいて、廊下側の最後列にある蒼の席からではその姿を見る事ができない。

「あなたは」

「あ、えっ、えと……きょっ、今日転入の……」

 緊張のせいか息切れのせいか、声が上ずっているその人物は、どうやら生徒であるらしかった。

「ああ、あなたがそうでしたか。でもここの担任の先生は今は多分職員室に——」

「は、はい。先生には会ってきました。で、今からでも授業には間に合うと聞いたので」

「そういう事でしたか。どうぞ入ってください。時間はあるので、自己紹介も今やってしまいましょう」

 はい——女子生徒はおずおずと教室に入ってきた。

 ——あ。

 何故かその少女の動きが、蒼の目にはスローモーションになって見えた。

 空気を孕むふんわりとした長い髪。

 紅潮した頬。

 小さな身体。

 ——あの子だ。

 夢で見た、あの……。

 転入生は教卓の横に立つと、緊張を沈めるように大きく息を吐いた。

「え、えっと、今日転入の——」

 ガタリと、蒼の背後で何かが倒れる音がした。

日野山(ひのやま)……日野山(はる)

 気が付けば蒼は、立ち上がってそう呟いていた。

「……あ」

 静かだった教室が、更にしんとした気がした。さっきまでは咳き込む音や喉を鳴らす音がしたのに、今では呼吸すらやめてしまったように静まり返っている。なのに、生徒たちの奇異の眼差しだけは、ぴったりと蒼に向けられていた。

 ——ああ穴があったら入りたい、いっそそのまま埋めて欲しいっ……。

 心の中で叫ぶが、もう遅い。

「え、えと……」

 何でも無いです——そう言って蒼は、いつの間にか倒れていた椅子を音も立てずに戻し、身を縮ませるように着席した。そして顔を腕に埋めて伏せる。

 ——ああああぁぁぁぁぁぁああああッ!

 こんなにも死んでしまいたいと思ったのは初めてだ。多分、恥ずかしさで人は死ねる。

 何なんだ一体と、蒼は思う。日野山春は夢で登場した架空の人物だ。それを、あんな大胆に呟くなんてどうかしている。

 もし蒼がクラスのインフルエンサー的存在であったのなら、冗談で通すなり人違いでしたと言い訳するなりができてまだマシだったのだろうが、残念ながら現実はそれとは程遠い性格(ポジション)だ。

 きっと他の生徒の目には、ボッチが奇行を晒したように見えるだろう。

 ——実際にそうなんだけれども。

 蒼は腕の隙間からちらりと転入生の方を見た。

 ——ああ……。

 やはり奇怪なものでも見るような顔をしている。可愛い子だと思っていただけにショックは大きい。

 教師は空気を切り替えるように、わざとらしい咳払いをした。

「では、続きをどうぞ」

「あ、はい。えっと、ひ、日野山春……です」

 ——え……?

 聞き間違いではない。その証拠に教室が騒ついた。マジかよと誰かが笑った。はい本当ですと、転入生は応える。

 なんと正真正銘、彼女は日野山春だったのだ。

「えっと、ちゃんと一限から参加したかったんですけど、ちょっと用事で遅れてしまいました。親の仕事の都合で越して来たので、あまり長く一緒にはいられないかもしれませんが、よろしくお願いします」

 そう言って日野山春は丁寧にお辞儀をした。

「空いている席はありますか」

 教師が尋ねると、生徒の何人かが、廊下側最後列の隣の空席——つまり蒼の左隣を指差した。

 それを見て蒼は、いつもと違った今朝の教室の様子を今更になって思い出す。

 何人かの生徒が机と椅子を運ばされていたのだった。蒼は興味が無かったので特に気にも止めなかったが、あれは転入生を迎え入れるための準備だったのだ。今にして思えば、昨日のホームルームでも、転入生が来る事を担任が伝えていたような気もする。

 ——まあどうせ関係無いけど。

 たとえ席が隣だろうと、彼女がクラスに馴染む頃には、きっと他の生徒と同じ対岸の花のような存在になっているだろう。そうなれば、日野山春と関わる事は二度と無い。多分、消ゴムすら拾ってくれない関係になる。

 そう悲観しながら、蒼は席に移動する日野山春を目で追った。

 ——それにしても。

 見れば見るほど、夢で見たあの子に似ている。

 これが正夢というやつなのだろうか。けれども、名前まで一緒なのだから、偶然とは思えない。

 現実的に考えるなら、多分彼女をどこかで見た事があるのだろう。それが潜在意識の中に残っていて、偶然このタイミングで夢に出てきたに違いない。会った覚えは全く無いが、そうでなくては辻褄が合わない。

 そんな事を悶々と考えているうちに、授業が終わった。勉強以外の事を考えている三十分はあっという間だ。

 蒼はノートや教科書を片付けて、文庫小説を取り出した。普段なら落書きに興じるのだが、今回はそれができない。

「どこから転入してきたの?」

 終業のチャイムが止むとすぐに、まるで甘い果実に集る小バエのように、転入生の周りに人だかりができたのだ。

「えっと……同じ市内です」

「家はどこ辺?」

「あ、駅の近くのアパートで、一人暮らしで——」

「一人? 良いーなー」

清瑞(しみず)駅? じゃあウチと近いじゃん。今度ウチ来る?」

「その、でもバイトが——」

「バイトしてんの? どこどこ?」

「あ、えーと……」

 矢継ぎ早な質問に、転入生は明らかに困惑しているのだが、誰もその事に気づいていない。

 できるものなら今すぐにでもこの人垣を掻き分けて「みんな落ち着いて。春さんが慌ててるから」と、お姫様を救いに行きたいところだが、蒼は生憎そういうポジションにはいない。

 蒼はせめてもの抵抗として、

「はぁ」

 と、露骨に溜め息を吐いてみる。

 しかし当然、その抵抗に気付いてくれる者はいない。依然群衆がお姫様から立ち去る様子も無い。

 ——良いなぁ。

 小説を読みながら、心の中で呟く。

 ああして集まって楽しそうにしているのを見ると、自分もあんな風に会話できたらと、つい羨望してしまう。

 いつもこんな気持ちになるわけではない。

 いつもと違うのは、言うまでもない。日野山春の存在だ。

 彼女は可愛い。いっそこの邪魔者達を押し退けて連れ去りたいくらいだ。

 春の笑い声が聞こえた。蒼は横目で様子を見つめる。

「それ可愛いですよね。私もほら、バッグに付けてるんです」

 そう言って春はスクールバッグを机の横から外し、小さなクマのストラップを見せる。

「あー! その色見た事なーい。どこで買ったのー?」

「ここに越す前にゲームセンターで取りました」

 私好きなんですと言いながら、春はバッグを机に掛け直した。

 蒼は小説に顔を向けつつ、春のバッグにぶら下がるピンクのクマを確認する。

 ——ああいうのが好きなのか。

 プラスチック製で、ハートの迷彩という判りやすい特徴をしている。ゲームセンターで取ったと言っていたから、多分駅前辺りを探せば同じものが見つかるだろう。

 蒼はまた小説に視線を戻しながら、春とそこに集まるその他の会話を聞いていた。

 会話は、次の授業の予鈴が鳴るまで続いた。

 その間の春の反応は、はいが十回、好きが三回だった。好きな物は、小型犬と、数学、それから苦めのチョコレートだ。それと、考える時には前髪を弄るという癖を見つけた。

 人集りが解散すると、春はふうと溜め息をついた。

 それもそうだろう。

 会話中、春は愛想笑いのような応えが殆どだった。まだ転入してきたばかりだ。緊張していたに違いない。

「はい、席に着けー」

 次の授業の教師が入ってきた。疎らだった生徒達が一斉に席に着く。

「えー今日は昨日の続き、〈動植物実験倫理規定法〉についてやるぞ」

 三限目の授業が始まった。

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