1.疲労と残業の二週間を終えて
ソックスガーターにシャツガーター。ぴしりとシャツは美しく皺のないように伸ばして、その上にスリーピースのオートクチュールのスーツを身に着ける。鏡に映っているのは痩せ型の180センチ程度の男性。
榛色の巻き毛と同色の瞳。象牙色の肌は黒髪黒い目を主とするこの国の容貌とは少し違っている。それも異国の血が入っているからだろう。
完璧に身支度を終えたはずなのに、どことなく疲れた表情がそれを台無しにしていることに、私は気付いていた。
「肌も荒れちゃって……それも、全部アホのせいだわ」
これが『雷帝』と陰で呼ばれ恐れられている男の姿か。
独り言ちながら私は出勤のために鞄を手に取った。
美しいサンルームと薔薇園のある洋館は、亡くなった祖父から受け継いだもの。長男である兄を溺愛して、次男である私を視界にも入れなかった両親から逃げるようにして祖父の元に来たが、私を可愛がってくれる祖父も私に亡き従弟の面影を追っているだけだと知ったのはいつだっただろう。
祖父は亡くなって洋館と広い庭を残してくれたが、私は誰の一番大事な相手にもなれなかった自分を自覚していた。
こうして生涯を過ごして行くのだと、人生を諦めた36歳の私。
仕事に対する意地とプライドで自分を保っていた。
ことの発端は二週間前。
季節は卒業と入学の春だった。
この国にかつて栄えた魔族たちの残した遺跡の一つから緊急警報が発令された。私は市の『魔族遺跡監理課』の課長で、出動命令が出ればすぐに魔法のかけられた洋弓形レールガンを手に車に飛び乗る。課の職員には獣人や妖精族の血を引くものもいて、接近戦や魔法で緊急時には対応できるようになっていた。
「発掘を許されていない遺跡ですよね。どうやって入り込んだのやら」
オーパーツとも言える現代の人類の理解の範疇を超える魔法兵器や魔法生物が眠る遺跡は、慎重に専門家が護衛付きで探索する以外は、私たち『魔族遺跡監理課』が管理して、一般人は入れないようにしている。専門家たちも私たち『魔族遺跡監理課』の許可がないと遺跡に立ち入ることができないように、厳重な封印が施されていて、その場所も隠されているのだ。
それがどこで漏れたのか。
封印が破られれば『魔族遺跡監理課』に即座に緊急警報が入るシステムで、それに従って導かれた遺跡は目くらましの魔法で常人には見えないようになっているはずの郊外の巨大な神殿だった。
神殿から漏れる悲鳴と中から這い出る植物の蔦のようなもの。
『安増隊、突入します!』
「私も行きます!」
部下の通信をイヤホンに受けて私は洋弓形レールガンを握る手に力を込めた。
上下に張り出す鋼鉄の巨大な弓は握りの上のつがえる部分に重厚な機械が付いていて、弦を引けば魔法と機械の両方から補助されるような作りになっている。
幸い市街地からは離れているが、目覚めた魔法生物が市街地に入れば阿鼻叫喚の戦闘は避けられない。
再び封じるか、ここで仕留めてしまわなければいけない。
遺跡の中に入ると入口の天井の高いホール部分に既に本体が来ていた。人間と樹木を掛け合わせたような姿でべきべきと音を立てながら根が足となって蠢いて近付いてくる。
見上げるほど高い頭部分に吊り下げられているのは、この遺跡に入り込んだ不埒ものだろう。
「助けたくないですが、助けますよ」
そいつが原因に違いないのに、助ける以外の選択肢はない。一般人が遺跡に入り込んだとしても、命を落としたら『魔族遺跡監理課』の責任となるのだ。
「始末書が一枚、始末書が二枚……」
先に入り込んでいたスーツ姿に二刀流の刀を構えた部下、安増が死んだ表情で呟いている。
『三時方向、安増、行きます!』
『九時方向、封印かけます!』
接近しながらもイヤホンで時計の時刻を方向に例えてどの場所から攻撃をするか部下が伝えてくる。
「九時方向、蔦が来ています! 十時方向に避難!」
『詠唱途中、避難できない様子なので、援護行きます!』
六時方向に立つ私の横から狼の獣人の部下が走り出る。その間に私は吊るされている不埒ものを救うべく洋弓形レールガンで狙いを定めていた。ずっしりと重みのある洋弓形レールガンを構えて、魔法のかかった矢をつがえ、弦を引き絞る。
『蔦撤去! 詠唱継続可能!』
『安増、三時方向より気を引き続けます!』
「しっかりやってください」
ぱらぱらと天井から降ってくる砂が嫌な予感を助長させる。これはまずいのではないだろうか。
洋弓形レールガンから放った電撃を伴った矢が不埒ものを吊るす枝を折って、私は素早く駆け寄って不埒ものの襟首を掴んで持ち上げていた。
「封印には後何分かかりますか?」
『二分程度かと思われます!』
「全員、封印魔法が出来次第撤退しますよ! 天井が崩れます!」
『了解!』
永遠のように長い二分間の後で力を失い小さな苗木になった魔法生物を回収して、私たちは遺跡の外に駆け出る。最後まで残って全員が逃げるのを見届けた私が出た瞬間に、背中の方でホールが崩れるのが分かった。
酷い土埃の中で腕にぶら下げた不埒ものの若い男性にどすの利いた声を出す。
「さぁ、どこからこの遺跡の情報を得たのか、全部吐いてもらいましょうかね」
魔法生物に捕らえられていた若い男性は下半身をびっしょりと濡らして失神しかけていた。
あれから二週間。
遺跡の情報が漏れた件について始末書が数枚、まだ未探索の遺跡の破壊についての始末書が数枚、弱まっていた封印をもう一度かけ直すために現場に戻ること数回、遺跡をもう一度入れる状態にするために瓦礫を片付ける作業が数回、不用意に手に入れてしまった魔法生物を研究所に申し送りする書類が数枚と安全に運ぶ作業……。
休みなしに働いて残業時間は過労死レベルを超えたのではないだろうか。
それでもお役所仕事は休めない。しかも市民からは苦情が何件も入って来る。
仕事の正確さと敵に対する容赦のなさから『雷帝』と呼ばれる私は淡々と業務をこなす。
死んだ魚のような目になっている部下たちに今日の仕事が終わったことを告げたのは午後九時近くだった。
行きつけのバーにふらりと立ち寄ると、バーの前で少女が困った様子で立ち尽くしている。ストレートの黒髪に黒い目、白い肌の少女は丸くあどけない顔立ちで、胸も控えめで背も小柄で、とても愛らしい。クラシックな濃紺のワンピースを着ている彼女のことを、私は知っていた。
「つぐちゃん、どうしたの?」
「あ……五百蔵さん」
高く響く澄んだ声で答えた少女は、私の知り合いの娘さんだった。
「今日もお父さん、来てるのかしらぁ?」
仕事のときは完璧な敬語で事務的に喋る私が、プライベートではいわゆるオネェ言葉を使うとは職場で知っているひとはいない。私が声をかけると、つぐちゃんこと、舞園つぐみちゃんは大きな瞳を伏せた。
お父さんが「つぐちゃん」と呼ぶのと、その響きが可愛いので私も「つぐちゃん」と呼ばせてもらっている。
「父が帰って来なくて」
この時間だから心配することはないのだが、何か事情がありそうだ。つぐちゃんのお父さんの旭さんは、このバーのピアニストで、ここで働いているのだから仕事中は帰って来ない。バーが閉まるのは十一時過ぎだからそれまでは帰って来なくてもおかしくはないのに、つぐちゃんの表情は暗い。
「何かあったのぉ? アタシで良ければ聞くわよぉ?」
疲れているはずなのにつぐちゃんを前にするとそれが吹き飛ぶ気がするのは、単純につぐちゃんが可愛いからだろう。行きつけのバーで酔っ払いに絡まれているところを助けた旭さんを、家に送って行ったときに、つぐちゃんとは知り合いになった。
あの頃はまだつぐちゃんは中学生で、つぐちゃんのお母さんが病気で入院しているということをそのときに聞いたのだった。三年後につぐちゃんのお母さんは亡くなって、旭さんはつぐちゃんだけを可愛がって生き延びているような状態だ。
「私、お母さんの遺品を見てしまったんです。母子手帳が入っていて……私の苗字が違って、お母さんの名前も違ったんです」
それで話をしてみたら、答えないままに旭さんは家を出てしまって帰って来なくなった。
それが昨日の話で、一晩経っても帰って来ないお父さんを心配してつぐちゃんはバーまで来たのだ。
「未成年だから入っちゃいけないって言われてて」
「こんなところで一人でいる方が危ないわよぉ。アタシが一緒に行ってあげるから、入りましょ?」
手招きするとぱっとつぐちゃんの表情が明るくなる。黒い目はきらきらと光を宿して輝き、白い頬がほんのりと赤くなる。
「よろしくお願いします」
不安を示すようにちょんっと私のスーツの袖を摘まむつぐちゃんの華奢な指先が愛しい。
ん?
愛しいってなんだ?
可愛い。そう、可愛いのだ。
つぐちゃんと共に重厚な木の扉を押し開けてバーの中に入ると、ピアノの音はせずにカウンターに旭さんが突っ伏していた。
「ちょっとぉ? 旭さぁん?」
「真ちゃん……なんで?」
旭さんは私のことを真ちゃんと呼ぶ。
私の名前が、五百蔵真珠・ヴァレンチノだからだ。
「つぐちゃんのことが可愛くて……」
「うん、そうなのよね。つぐちゃんは天使だって、いつもアナタ、言っているものねぇ」
愛妻家だった旭さんは奥さんを亡くす前から娘のつぐちゃんを溺愛しているが、奥さんが亡くなってからは更につぐちゃんを可愛がっている。愛情を一心に受けて育ったつぐちゃんはこんなにも可愛く良い子なのだ。
「可愛くて可愛くて、自分の子だと思い込んでた……」
「へ?」
「生まれてすぐに引き取ったから、もうすっかり自分の子だと」
つぐちゃんが母子手帳を見つけ出して、旭さんはようやくつぐちゃんが養子だったことを思い出したわけだ。特別養子縁組で、つぐちゃんは戸籍から全部旭さんと同じになっているから、気付かれるはずもなかった。そうしているうちに旭さん自身も忘れてしまったのだ。
くたびれたスーツに緩く波打つ黒髪を括った旭さんはプラスチックフレームの眼鏡をかけていて、背丈もそれほど大きくなく中性的な容姿をしている。酔ってはいるがそれを感じさせないのは、表情筋が仕事をしていないからだ。
「お父さん、家に帰ろう? 私、気にしてないよ?」
「つぐちゃん……ダメな父親でごめん」
つぐちゃんを見て顔を上げた旭さんが項垂れる。幸いまだアルコールは口にしていないし、このバーに来ても車なので私はソフトドリンクしか飲まない。
「送って行くわよ。もう帰っても良いわよねぇ?」
バーのマスターに確認すると「連れて帰ってください。昨日からずっとこんな感じで」と呆れ声で答えられた。
「五百蔵さん、ありがとうございます」
黒い瞳が私を見上げて真摯にお礼を言う。
その澄んだ瞳に映る私は、どんな姿なのだろう。
自分を隠してオネエ言葉で明るく振舞う偽りの私。
「つぐちゃん、旭さん、駐車場に来てねぇ」
車のキーを取り出して、私は胸の中に生まれそうになった暗い淀みから目を背けた。
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