雨晴プライマリー
ここ最近は少し前よりも賑やかになっている。もちろんそれは悪いことではなくむしろいいことである。
しかし、自分からすれば昼食を女子と一緒に食べているというのは少し気まずかった。
一方でその女子生徒はそのようなことを気にしている素振りを全く見せず、もう一人の男子生徒と話している。
これだけ見ればただの仲のいい友達同士なのだが、この女子生徒が少し前までは友達が一人もいなかったということを考えると見事な程の成長だった。
話を聞いている限りでは、女子生徒が何か話しているというよりは男子生徒の方が何かに対して熱く語っているのに対して律儀に相槌を打っているという印象が強かったが……。
しかし、それでも楽しんでくれているようで何よりだった。
「……なるほど。そういう事なんですね!」
「ああ、そうなんだ。だから是非写真部に入ってみないか?」
「いいですね。私入ります!」
東雲は何を吹き込まれたんだ。
花山の上手い口車に乗せられたのだろう、と思いながら呆けていると東雲の視線がこちらに移る。
見た瞬間になんとなく察した。
「時枝さん……」
内容を言い始める前に東雲から目を背ける。
「断る。部活には入るつもりはない」
「時枝さんひどいです。せめて最後まで言わせてください」
「言われるまでもなく何がいいたいのかわかったよ」
東雲を横目で見ながら答える。
「そういう時は写真部の良さを言ってあげればいいのさ」
横から花山がアドバイスする。
東雲はなるほどといった感じで再びこちらに向き直る。
「時枝さん、写真はですね、美しいものを永遠の時間に閉じ込め、雄大なものをより壮大に写し、時には人の身では見ることも感じることも出来ない物もこの世に具現化してしまう。
この世のすべてを一つのフィルムに投影させる魔法の道具なんですよ」
本当に何を吹き込まれた。
それが第一の感想だった。あきれる自分を他所に東雲と花山は楽しそうだ。
「さすが東雲さん。写真に対する熱意を見事に語ってくれた。良い演説だったよ」
大げさに拍手をして東雲の話を盛り上げている。
「ありがとうございます、花山さん」
「にしても東雲さんはすごいね。僕の言った言葉一言一句そのまま言うなんて。よく覚えていたね」
「そんなことありませんよ。偶々です」
謙遜する東雲だが、花山の言うことが本当なら、辞書に書かれているような説明文を一回聞いただけで暗記してしまったということだろう。
女優という職業柄、台本を覚えるという行為は必須であり、並みの人よりは鍛えられているのだろうが、それでも東雲のその記憶力は凄まじい。
「それでどうですか? 時枝さん」
こちらをじっと見ている。
「私としても撮られるばかりではなく、撮る側の視点も経験しておくのはいいことだと思って入部を決めたんです」
それなりに考えているんですよと言いたげな顔をしてこちらを見ている。
しかしそれは東雲にとっては意味のある事だろうが、自分にとって何の意味もない。「まぁ、そうだな」と軽くあしらわれた東雲を少し可哀そうに思ったのか花山が口を開く。
「東雲さんも今日持ち掛けた話なのにこんなにも熱弁してくれてありがとう。でも、僕達ってそんなに写真を撮られる機会ってあったっけ?」
花山にとっては何気ない疑問だったのだろうが、それを聞いて二人の心臓が大きく跳ねる。
東雲には気を付けるように言っていたが少し興奮していたのか完全に忘れていたのだろう。
ちらりと東雲の方を見ると東雲も必死で何かを考えているようだが、頭の中が真っ白になって焦っているのか頬を一滴の汗が流れていくのが見えた。
東雲がちらりとこちらを見る。
その視線からは謝罪と救援の意図を感じた。仕方がないと心の中で溜息を付きながら思考する。
「ほら、たぶんあれだろ。生徒証の写真。前、生徒証の写真を撮るときカメラマンの人が来ていたじゃないか。なあ、東雲?」
東雲に目でパスを送る。
「あ、はい。そうです。それに文化祭や体育祭などの学生行事ではこの学校ではプロのカメラマンが来るという話を聞いたことがあります。
そう考えるとこの学校って結構カメラで写真を撮られる機会が多いじゃないですか。その時カメラマンの人は私達のこと、どのように見えたのかなって思いまして」
咄嗟に考えたにしてはなかなか筋が通っているとは思う。
「なるほど。確かにプロのカメラマンが学校行事の度に来てくれているという話は聞いたことがあるよ。
ここの卒業生で、この近くにフォトショップを開いているらしいね。そう言われると確かに気になるよね」
頷きながら少し笑みを浮かべながら言う。
プロカメラマンの話が本当の話だった事に驚きながらも、とりあえず安心する。
前までは人と話すことがほとんどなかったために本人の口から言葉が漏れる心配はなく、自分も東雲のことについて話をしなければバレる心配はなかった。
しかし、今後はこういうこともありうるのかと考えて少し億劫になる。ただ、これも東雲が人として成長している証拠なのだというならばむしろ歓迎すべきなのだろう。
面倒くさいことに関わりたくない気持ちと親切心が葛藤しているのを感じる。
「時枝はここまでの話を聞いて心は動いたかい?」
まだ続くのか。ここまでくると流石にしつこい。
「わかったよ」
周りに聞こえるか聞こえないかのギリギリの声でボソッとつぶやく。しかし、花山にはきっちり聞こえたようだ。
「良かった。ずっと声を掛けていたかいがあったよ」
見る限り本心から喜んでいるようだった。ただ、こちらからすればいい迷惑である。
「おめでとうございます。花山さん」
花山の横で東雲も小さく拍手している。
こうなった原因の一人の東雲を一瞬恨めしく思ったが、言ってしまった以上仕方がない。
二人で喜んでいるところ申し訳ないと思いつつも、はっきりと聞こえる声で「ただし」と付け加える。
「ただし、なんだい?」
自分の条件に花山は喜ぶのを一旦止めて話を聞く。
「ただし、姉貴からカメラを借りられたら、だ」
こちらとしても、はいわかりました。といって入るくらいなら初めに誘われた時から入部しているだろう。
部活に時間がとられてしまってはなかなか自分の時間を謳歌できない。今言ったのはそれに対する最後のあがきみたいなものだろう。
「自分自身のカメラなんてものは持ってないし、それを買う余裕が今はない。だから、姉貴が借してくれたら入部するよ」
「そう来たか」
花山は少し悩んだ後、
「良いよ。明日まで返事を待つことにするよ」
はっきりとした物言いで言葉を返した。
そこには、“借りる事が出来るか否か”そういう勝負に乗ってあげるよ、という挑戦的な雰囲気を醸し出している。
勝負というには一見あまりに他人任せな勝負だが、もしこれが勝負になるというならほぼ勝利はもらったのも同然だろう。
というのは、入学式の日の夜、写真を撮り忘れた旨を伝えるとかなり怒られた。「どうして写真を撮ることすらできないの? 貴方に頼んだ私が馬鹿だった」と小一時間ほどずっと説教された。
それ以来、機嫌が悪いらしく何か話をしても「そう」や「だめ」としか返事が返ってきていないのだ。
今日もその流れでカメラを貸してくれと言っても「だめ」と返って来るだろう。
今、姉弟間がそういう事情になっているなど花山は知る由もないだろうが、こちらとしてもいちいち言うつもりはない。
この勝負、もらったな。と思いつつも、
「じゃあ、今日聞いてみるよ」
とだけ言葉を返した。
翌日、学校に着くや否や机に突っ伏す。その様子を見てか、少しにやにやしながら花山が近づいてくる。
「結果はなんとなく察するけど一応聞いていいかい?」
机に突っ伏した状態から目線だけを花山に合わせる。
「もうわかっているだろうに」
突っ伏した状態から鞄に手を伸ばし、カメラケースをちらりと覗かせる。
「これで入部決定だろ」
「まあ、そうだね。でも、本当にいいのかい? ああは言ったけど、どうしても嫌なら強制はしないよ」
「昨日の段階なら喜んで話を無かったことにしたんだがな」
「家で何かあったのかい?」
「まあ……な」
そうつぶやき、また机に突っ伏した。未だ、昨日のことが鮮明に思い出せる。
昨日、自宅に帰ってからの出来事。自分の中の考えでは、
「姉貴、カメラ貸して欲しい」
「だめ」
この二言で終わるはずだった。
出来る限り、言葉数を少なくして、ちょうど道端に転がっている石のように意識させることなく終える予定だった。
しかし、現実はそう上手く事が運ばなかった。
学校から帰ると、姉はいつも通り自室にいるようだった。
姉の部屋の前で少し深呼吸をした後、コンコンっとノックして、姉の姿が少し見える程度に顔を出す。
「誰?」
「自分」
「何?」
「カメラ貸してくれ」
「いいよ」
「ありがとう」
一連の会話の後、全く予定と異なる結果に「えっ?」となる。動揺のあまり姉の部屋の扉を開ける。
「どうしたの?」
「いや、カメラ貸すってどういうことだよ」
「え? あんたが貸してくれって頼んできたんでしょ?」
姉は全く意味の分からない質問に首を傾げている。
「まあ、そうなんだけど……。予定と違う……」
「予定……? 何のことかはわからないけど」
わざわざ立ち上がって部屋の棚に置いているカメラを一つ手渡す。
頭の中はまだ混乱している。
自分を落ち着かせるために少し深呼吸をしてから話す。
「昨日まであんなに不機嫌だったのに、今日は機嫌よさそうだな」
「あ、わかる?」
そう言うなり満面の笑みでこちらを見ている。
やはり何かあったようだ。
「ねえ、何があったか聞きたい?」
どうやらかなりいいことがあったようだ。話す気満々のようでこの調子なら何を言っても話に付き合わされるだろう。
「……まあ」
待っていましたと言わんばかりに嬉々として話し始める。
「今日、友達と隣町で買い物していたらテレビの収録がやっていてね。私、それに出演したの!」
姉はなぜかテレビ番組の視聴者インタビュー的なやつに良く出演する。
そういう場所を狙って歩いているのか、何か運みたいなものを持っているかは知らないが……。
しかし、前に出た時は、こんな風に喜ぶことはなかった。
むしろ、「私が取材を受けた所をカットしないなんて……。あんまりいい人いなかったのね」といった感じである。
姉は自身がテレビに出演することに関しては全く興味がないのだろう。
「へー、すごいな。でも、前にも出演してなかったっけ? インタビューに答えるみたいなやつ」
「あれとはわけが違うのよ」
高らかと言う。何が違うんだろう。
「今日はね、超有名俳優の日向瑞樹さんもその場にいたの」
日向瑞樹――。それなら自分でも軽く聞いたことがある程度だが知っている。
確か今流行りの売れっ子俳優だったはずだ。
「それで、握手してもらったんだけど、日向瑞樹さんのご配慮で私が持っていた色紙にサインまでしてもらっちゃった」
証拠にと言わんばかりに棚の上から二段目の所に飾られた色紙を指差す。確かにそこには誰かのサインが書かれた色紙が存在していた。
町中に色紙を持って歩く姉も色々とおかしい気はするが、なぜ機嫌がいいのかがよくわかった。
「凄いな。よかったな」
いつも通りの相槌で返す。
「でしょー」と言いながらそのサイン色紙を眺めている。
それにしてもどうして今日に限って姉にいいことが起こったのか、もし、神様なんてものがいるならば聞いてみたい。
姉は色紙の自慢をして満足したようで今ならスッと部屋を出られそうだ。
借りたカメラを持って姉の部屋を出ようとする。
「ちょっと持って」
「何?」
「今思ったんだけど、どうしてカメラを借りようと思ったの?」
よく考えたら理由を全く説明していなかった。むしろ理由も聞かずによくカメラなんて高価な物を貸そうと思ったな。
「友達に一緒に写真部に入らないかって誘われたんだ。それで、カメラを借りられたら入るって約束したんだ。予定ではカメラを借りられずに部活に入らないって言うオチを用意していたんだけどな」
一瞬の間の後、姉は高らかと笑いだす。
「今日は本当に面白いことがいっぱい起きるよ。明日雪が降るかもよ」
笑われたことに若干ムッとしながら姉を見る。
「あんたが部活ねぇ」
まだ笑い続けている。
「そんなに自分が部活に入るのがおかしいか?」
「おかしくはないよ。でも、高校に入ったら、人に気を遣うことはしたくないって言っていた人のやる行動ではないよね」
意地悪そうな表情を浮かべている。
「悪いか」
「いや、悪くない。むしろいいことだと思うよ」
返事はすぐに返ってきた。
「人間、社会に出たら絶対に他の人と関わらずには生きられないんだ。そして社会に出たら人間関係の失敗は許されない。
人間関係に失敗してもまた関係を作り直せるのは学生の間だけなんだよ」
珍しく姉が真面なことを言っている気がする。
「だから、少年。いっぱい失敗してこい!」
一言余計だ。
しかし、妙に納得させられるだけの説得力があった。
自分は高校生で大人の世界というのはわからないけれど、少なくとも姉が体験してきた中で導き出した答えの一つなのだろう。
「部活で使うならそのカメラあげるよ」
「いいのか?」
「いいよ。まだ別のがあるから」
「わかった」
ありがとう。果たしてその言葉が姉に届いたかどうかはわからないが、呟かずにはいられなかった。
普段はあまり関わりがなかったが、それでも姉なりに自分のことを心配してくれているのだろう。
何とも言えない嬉しさが込み上げる。
自室に戻りカメラを取り出す。
決して新しいわけではない、むしろ古いカメラではあるがなぜだか少しだけ輝いて見えたのは気のせいだろうか。
「昨日、何かいいことがあったのかい?」
昨日のことを回想していると、その様子を見ていたのか花山に話しかけられる。
「どうして?」
「だって、時枝が笑っているからさ」
「笑っていた? 自分が?」
「それはそれは楽しそうにね」
「そうか」
果たしてその思い出が楽しいものだったかどうかと聞かれると何とも言えないが、もしかしたら自分の意識していない所でそういう気持ちがあったのかもしれない。
「さてと、じゃあ今日の放課後に行きますか」
「え、どこに?」
「写真部の所だよ」
「……そうだな」
返事を聞いて満足したらしくそれ以上話をすることなく花山は自分の席へ戻っていった。
――放課後。今日最後の授業が終わり、帰り支度をしていると花山がやって来る。
「行く準備は出来たかい?」
「まあ」
「オッケー。じゃあ、後は東雲さんだけだね」
「東雲も結局入部するんだな」
「東雲さんは時枝とは違って初めから乗り気だったからね」
「洗脳紛いなことをしていたことは黙っといてやるよ」
「あれ、僕そんなことしたかな?」
軽く惚けて返事をする。
「お待たせしました」
話している間に先に東雲の帰り支度が済んだらしくこちらに来る。
「お、東雲さんは早いね。それに比べて時枝ときたら」
「花山と話していたからだ」
「まあまあ。全員が準備できたようですし早速行きましょう」
見るからにやる気満々な東雲は先陣を切って先に歩く。
「待ってくれよ」
東雲を追いかける花山。その後ろを自分が歩く。
おそらくだが今まで学生らしいことが出来なかった東雲にとって部活動というものが人一倍輝いて見えるのだろう。それほど東雲の表情は希望に満ちているように見える。
それだけにその表情が一変するのを見るのは容易かった。
「えっと、ここですか?」
「そうだよ」
顔をしかめる東雲と苦笑いしている花山。
彼女らの目の前にあるのが部室らしい。しかし、部室というには残念過ぎる。
希望を抱いていた東雲はもちろんだが、成り行きで入ることになった自分でさえ、そこが部室であることを疑いたくなるほどだった。
ここは、校舎の五階の奥に位置している。五階というと、基本的に三年生の教室とラウンジがあるだけでそれ以外にめぼしい教室はない。
強いて言えば、物置ぐらいだ。
花山から五階部室がある時点で何かおかしいと薄々感じていた。
「ここ物置だよな」
「そう……なんだよね」
バツが悪そうな顔をしている。
「とりあえず、鍵は預かっているから中に入ろうか」
何とかこの場の空気を換えようとしているのはよくわかる。
もしかしたら、中はきれいなのではないかとも一瞬思ったが、変な期待はしない方がいいと思考を遮断する。
部屋の扉を開けると、カーテンが閉め切られており、まだ、昼と言われる時間帯であるのに薄暗い。
どうやら、カーテンが閉め切られているせいだとわかる。
部屋全体が埃っぽくて空気は澱んでおり、長い時間この部屋にいると気分が悪くなりそうだった。
「なあ、花山。今、気になることが出来たんだが……いいか?」
「……いいよ」
「写真部って、部員何人いるんだ?」
「……僕が聞いた話だと僕らを除いて一人……らしい」
それ以上話が続くことなくしばらく沈黙が続いた。
あれだけ楽しみにしていた東雲も今は言葉を一切話さない。花山もこの反応はなんとなく予想していたのだろうがやはり決まりが悪そうだった。
かく言う自分もこういう時どのように対応すればよいかわからず、何もしないでいた。
茫然としている自分達を呼びかける声が聞こえる。
「……君達~」
部室の近くには他の教室も存在するため初めは自分達のことを指していると気付かなかったが、その声はだんだん近づき、肩をポンと叩かれる。
「ごめんね。お待たせ、花山君」
後ろを振り返ると、少し背の高い女性が立っていた。彼女は自分を見てそう言っているようだ。
「すみません、自分は花山じゃないです」
「あっ、ごめんね」
すぐに謝る。
すると、隣の花山が
「僕が花山です」
名乗り出る。
「君が花山君か~。ありがとね、写真部に来てくれて」
ニコニコとしながら花山の手を握る。
「本当にありがとう」
と呟いているのが聞こえた。
たかが入部するだけでそこまで言う意味は分からないが、写真部が廃部寸前であることを考えれば理解できないこともない。
それほど、この女性にとって写真部は大事なものなのだろう。
部室を見る限りそうとは思えないのだが……。
「えっと、貴方は?」
「私は山吹夢子って言うの。よろしくね」
少しおっとりとした話し方で、一度聴いたらなかなか忘れなさそうな声質だ。
その横から花山が説明を追加する。
「こちらの先輩がさっき言っていた写真部唯一の部員の先輩だよ。
特進コースで成績もトップクラスのエリートなんだよ」
「へえ、確かにそれはすごいな」
素直に驚く。
自分の学校全体を見れば決してトップ層の学校とは言えない。
しかし、特進コースは別格であり、特進コースの偏差値だけで言うなら名門校と引けを取らないほどの成績を有している。
それだけに特進コースに居続けるだけでもかなり勉強し続けなければいけない。
そこで成績上位者というのだから、正真正銘のエリートだろう。
山吹は花山に褒められて満更でもない様子だった。
喜んでいる申し訳ないと思いつつも最後の事実確認の意味も込めて単刀直入に聞く。
「先輩……。写真部の部室って本当にここで合っていますか?」
もし数パーセントでも違う可能性があるのならばその可能性に掛けたかったが、山吹の反応を見れば、それが間違いないことを示していた。
「……そうよね。そうなるわよね」
小さく呟きながら、申し訳なさそうに言う。
「君の言う通りここが写真部の部室なのよ」
「そうですか……」
部屋にこれほど埃が積もるにはどれくらい時間がかかるだろう。
一年近くは放置していただろうか。
彼女自身色々と忙しかったのだろうが、部長であるのに全く部室に入らないほどの用事とは何なのか少し気になる所である。
「少しいいですか?」
何か気になることを見つけたのであろう花山が質問する。
「部屋全体がこれほど埃で被るのには結構時間がかかると思うんですがこの部室ってどのくらい部屋を開けていないんですか?」
どうやら花山も自分と同じことを考えていたようだ。
山吹は少し考えるそぶりをした後、少し苦笑いをした。
「一年くらいかな」
花山も予想以上の期間だったのかつられて苦笑いするだけだった。あまりの状態に空気が重くなるのを感じる。
そんな空気を割く一言が飛んでくる。
「とりあえず、掃除しましょう! 掃除!」
今まで静観していた東雲が声をあげる。
「どちらにせよこのままじゃ使えませんし、しっかりと日を決めて掃除しましょう。写真部として活動するために」
東雲の言葉に花山も便乗する。
「確かにそうだね。山吹先輩は大丈夫ですか?」
「そうね。このまま放置はまずいだろうし……。新しい部員も増えることだし部屋をきれいにしましょうか!」
東雲の言葉を皮切りに話がトントン拍子に進んでいく。
そこに自分が意見の言う余地などなかった。
「じゃあ、ゴールデンウイークに入っちゃうけど、その時に掃除をやっちゃおうか。その後、写真部の事も少し説明するね」
「わかりました」
花山と東雲はすぐに返事する。
「時枝は大丈夫かい?」
「……大丈夫だ」
歯切れ悪く返事する。
「折角集まってもらって申し訳ないんだけど、次の休みの日の五月三日の九時に部室前に集合ね」
笑顔で言いながら山吹は帰っていった。
「じゃあ、僕たちも今日は帰ろうか」
花山が指揮を執る。
「はい」
「あぁ」
それに二人が答える。ほとんど使用しなかった部室を施錠する。次に部室を開ける時までが埃達の残された寿命になるだろう。
考えるとこの三人で家に帰るのは初めてな気がする。
花山とは何度か一緒に帰ったことはあったが、東雲に関しては一緒に帰るのは初めてだ。
「私、皆さんと帰るのは初めてです」
「そうだったかな」
花山は色んな人と仲が良い分あまり覚えていないのだろうが、友達の少ない東雲にとって友達と一緒に帰るというのは新鮮なのだろう。東雲は普段よりそわそわしている感じがする。
まるで初めての道を歩く小学生みたいだ。
そんな東雲を他所に花山が傍に来る。
「掃除、あまり乗り気じゃなさそうだったね」
「まさかゴールデンウィーク中に掃除するなんて思いもしなかった」
少し溜息をつく。
少し申し訳なさそうに花山は笑いながら、
「ごめんよ。でも、一番直近の休みがその日だったからさ」
「それはわかっている。これでも一応納得はしているんだ。けど……」
「けど?」
「休み日まで学校に行きたくない」
花山は少し笑いながら、
「掃除が面倒だから嫌とかじゃないんだ」
「ないわけじゃない。だけど成り行きとは言え、入ることになった以上最低限のことはしないといけないだろ」
「そうだね」
「二人で何を話しているんですか?」
前の方を歩いていたはずの東雲が突然話に割って入る。
「ちょっとした話さ」
「なんでしょうか、それは」
少し不安そうな顔で花山と自分を見る。自分まで巻き込むなよと思いつつ特には何も言わない。
「そんな顔しないで。時枝が嫌々ながらも部活を頑張ってくれるっていう話さ」
「それなら安心です」
自分を除け者にさせているのではとでも思ったのだろうか。そうじゃないとわかるといつもの笑顔に戻っていった。
「時枝」
「?」
「慣れないことをするのは最初辛いだろうけど、きっといいことはたくさんあるよ」
小さくそう言った後、
「じゃあ、僕こっちだから」
そう言って駅がある方へ進んでいった。
何が言いたいのかがいまいち理解できなかったが、とりあえず励まされているのだろうと受け取っておく。
「時枝さんはこちらなんですね」
「まあ。……東雲こそこっちなんだな。どの辺なんだ?」
「そうですね……。合田商店ってわかりますか?」
——合田商店。
雑貨や食品、電子機器など幅広い品揃えを謳い文句に店を構えており、小学生からご老人までいろいろな層から人気があると聞いたことがある。
自称『枝垂町のデパート』だったはずだ。
今でこそ久しく行っていないが、自分も小学生の頃はよく足を運んだものだ。そう思うと久しぶりにその名前を聞いた気がする。
「懐かしい。小学生の頃はよく行っていたな」
「そうなんですね。私はあの辺りに住んでいますよ」
「割と近いんだな」
確か自分の家から徒歩十分位だったはずだ。
「どの辺りに住んでいるんですか?」
「言葉にすると難しいんだが……。駅から北西に十分って所だな」
「確かに近いですね」
「というかそんなに近いなら自分達、小学校も中学校もどっちも一緒なんじゃないか?」
ふとそんな疑問が頭に浮かぶ。しかし、東雲という名の人間は聞いたことがなかった。
今まで意識したことがなかっただけなのかもしれないが…。
だが、それだと少しおかしいことが出てくる。
というのも、今は普通の女子高生を“演じている”が、今目の前にいるのは女優の星野志乃でもあるのだ。
もし、この町出身の女優が出ようものなら町中に広まっていてもおかしくない。そんな思考をするが、その思考は東雲によってあっさり崩される。
「すみません。それは違います。この町に来たのは高校生になってからなので」
「そうなのか。その割にはこの町に詳しそうだが……」
この町は山側に行けば行くほど古い家が多く、道も複雑だ。
一方で駅側――つまり、山の麓側に行くほど新しい家が多く、道もわかりやすく整理されている。
合田商店はどちらかというと山側に位置しており、道も結構複雑なのだ。
つまり、そちら側に家がある以上昔からこの町に住んでいた可能性が高いということになる。
「この町には祖父母が住んでいるんです。今は一緒にそこに住んでいます」
それなら確かに納得できる。
「時枝さん。私こっちなので今日はここでお別れですね」
自分の進む道とは異なる道を指差しながら言う。
「ああ、そうだな」
「今日は楽しかったです。ありがとうございました」
何かしたつもりはないのだが、東雲にとっては友達と一緒に話をしながら帰るというのも新鮮なのだろう。
「もう家は近いと思いますが、気を付けて帰ってくださいね」
「ありがとう。東雲も気をつけてな」
「はい」
うれしそうに返事をし、そのまま上り坂を登っていった。
その姿を横目に今まで押して歩いていた自転車に跨りペダルに力を掛ける。
最初だけ抵抗を感じたがすぐに慣れる。それと同時に自転車の速度は加速していった。
——五月三日。約束はすぐに訪れた。
休みだというのにこれほど憂鬱な朝はなかなかないだろう。
重い体に鞭を打ち、準備を済ませ学校へ向かう。
予定より家を出るのが遅れたがそれでも八時五十分には余裕で着くだろう。
そんな事を思いながら自転車を走らせているとどこか見たことのある後ろ姿が目に入る。
いつもと違うのは全力で走っている所だろうか。その人影を少し追い越し、振り向きながらその人の顔を確認する。
「やっぱり東雲か」
「お、おはよう、ございます」
ずっと走ってきたのか肩で息をしている。言葉も途切れ途切れだ。
「大丈夫か?」
「はい。何とか」
何回か深呼吸をした後にそう答える。
大分呼吸も落ち着いてきたようだ。
「この時間でここだと間に合わない……よな?」
「はい。それで走っているのですが……」
ここからだと走っても九時には間に合わないだろう。
東雲の反応を見る限り、間に合わない事は彼女も自覚している。それでも出来る限り迷惑をかけないために急いでいるのだろう。
「時枝さん。私のことは気にしないで先に行ってください。後で必ず行きますから」
そう言いながらまた東雲は走り出す。
「……わかった」
そう返し、自分も自転車のペダルを漕ぐ。
東雲を追い抜くのは容易かった。
ただ、正直に言ってしまえばこの問題を解決できる方法を思いついている。だからこそ後ろ髪を引かれる思いになっているのだ。
本当はこのままスルーして先に行ってしまいたいが、葛藤の末自転車を止める。
すぐに東雲が追いつく。
「どうされたんですか?」
女子と二人乗りすると考えると緊張するがもう迷っている時間はそれほど残っていない。
「とりあえず時間がないから後ろ乗って」
「え!?」
東雲もかなり戸惑っているように見える。
しかし、本人もこの方法なら間に合うかもしれないと思ったのだろうか、それほど躊躇せずに自転車の後ろに乗る。
東雲の鞄と自分の鞄を前の籠に突っ込み、足に力をグッと込める。
ゆっくりではあるが走り出す。しかし、バランスがなかなか取れずふらふらしている。
二人乗りなんて小学校以来ではないだろうか。あの時の感覚をイメージしながら漕ぎ始める。
「時枝さん、これ私乗って大丈夫ですか?」
「多分、大丈夫……」
最初こそ蛇行運転していたが次第に自転車は安定し、速度を上げていく。
安定したことで少し余裕が出てきた。
「珍しいな。東雲が寝坊するなんて」
「すみません。昨日ちょっと色々ありまして……」
「ふうん。それは余り聞かない方がいいやつか?」
「いえ、そういうのではないですよ」
一拍置いて
「何といいますか。……仕事の話です」
周りの目を気にしているのか最後の方は辛うじて聞こえた程度だった。
視界に見える範囲に人は見えないし、いたとしても自転車で走っているので、そう聞こえるものではないが、伏せて置きたい話なのだろう。
「大変だな」
簡単に一言だけ返し、もう少し急ぐことに専念する。
結局部室前に着いたのは九時過ぎだった。
先についていたであろう花山と山吹は部室前には姿はなかった。その代わり机や椅子などが運び出され部室の外に並んでいる。おそらく部室の掃除を始めているのだろう。
部屋を覗き込むと花山と山吹が掃き掃除をしている所だった。
「遅れてすみません」と時枝。
「遅れてしまい申し訳ありません」と東雲。
それぞれ二人に謝る。
しかし、それほど二人とも気にしている様子ではなくむしろ
「時枝がちゃんと来るなんてね」
なんて花山は揶揄っている。
「そんな、謝らないでください。元はと言えば、部長の私がしっかり管理していなかった事が原因なんですから」
山吹はむしろ自分が悪かったと言わんばかりに自分達に謝る。
山吹には「気にしないでください」と返し、花山に尋ねる。
「今どの辺まで掃除が進んでいるんだ?」
「まだ、机とか運び出しただけだし全然気にしなくていいよ」
「そうか。悪かったな」
「その代わり今日はしっかり働いてもらうよ」
「はいはい」
部屋を見渡すと部屋の隅に掃除ロッカーが設置されているのが見えた。そこから箒を二本取り出し、一本を東雲に手渡す。
「ありがとうございます」
受け取った東雲は部室の埃を掃き始める。
「そう言えば、東雲さんが遅れて来るのってなんか珍しい感じがするね」
「すみません」
「いやいや、責めているわけではないよ。時枝と違ってしっかりしているからさ」
「おい、俺はまだ無遅刻無欠席だぞ」
「知っているよ」
相変わらず意地悪そうな表情でこっちを見る。花山がこの調子なら今日一日中いいように扱われそうだ。
「少し家の方で用事が有りまして……」
「なるほど……。本当だったら休みだもんね。忙しい中来てくれてありがとうね」
笑顔でそう返す。東雲と自分の扱いが雲泥の差だ。
「皆さん仲良しですね」
山吹先輩はニコニコしている。
「皆さん、同じ中学校出身なんですか?」
「いや、違いますよ。高校からの知り合いです」
「そうなんですね。ちょっと意外……。時枝君となんて幼馴染かなって思うくらい仲がいいのに」
「それは違いますよ。花山が勝手に揶揄っているだけですよ」
「でも、構わないだろ?」
「どっちでもいいよ」
「やっぱり仲がいいね」
山吹はそう言いながらくすくす笑う。こんな感じに話をしながら掃除をしているとそれほど苦なく掃除が進むようだった。
一年間貯めに貯め込まれた埃の量はすさまじく埃だけでゴミ袋がいっぱいになりそうだった。
掃き掃除や窓拭き、拭き掃除など一通り掃除が終わる頃には正午を過ぎていた。
「こんな感じで大丈夫でしょう」
山吹の言葉が部室の掃除の終了の合図となりそれぞれ息をつく。
「結構時間かかりましたね」
東雲はそう言いながらも割と爽やかな笑顔を浮かべている。
「だね。でも、さすがに疲れたかな。時枝は……見たまんまだね」
苦笑いしながら花山はこちらを見る。
「もう疲れた」
綺麗にした机に突っ伏して答える。しかし、言葉と態度で表すほどは疲れていない。むしろ清々しさすら覚えた。
仲間と協力するというのがこういうことなのかどうかはわからないがこういうのも悪くはないかなと感じた。
少し休憩した後、換気のために開けていた窓を閉め、帰り支度を始める。
個人的には、窓から入って来る暖かな優しい風をもう少し感じていたい気分ではあったが、それ以外はここにいる理由はない。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか」
山吹の言葉を皮切りにそれぞれ部室を出る。先輩は全員が出たのを確認した後、部室の施錠をする。
「部室の鍵って今の所それだけなんですか?」
ふと気になった事を質問する。
「もう一つ職員室にちゃんとした鍵はあるよ」
しかし、そう言った後、山吹は何かに気付いた様子で話す。
「そうか、入部するということはこの部室も使うだろうし各々鍵が必要なのよね」
「そうですね。各々鍵を持っていた方が今後使いやすくなると思います」
花山はすぐに返答する。
「私も鍵が欲しいです」
東雲もどうやらこの話に乗り気なようだ。
「時枝さんもそう思いませんか?」
唐突に自分に話を振って来る。
相変わらずの突然の反応に少々驚きながら「まあ」と咄嗟に答える。
自分としてはそこまで部室に入り浸るつもりはないのでどちらでもよいのだが、あるに越したことはないだろう。
「わかりました。では、ゴールデンウィーク明けにでも全員分の鍵を用意しますね」
「ありがとうございます」
「わかりました」
「はい」
各々返答し帰り始めるのだった。
花山については知っていたが、どうやら山吹も電車通学らしい。
というよりは、地元民よりも電車通学している人の方が圧倒的に多い。地元民が多ければ初めからもっと顔見知りも多かっただろう。
その山吹が声を掛ける。
「お昼時だしどこかで食べていかない?」
「いいですね」
すぐに答える花山。
「私も行きます」
それに一歩遅れて答える東雲。
「時枝君はどうする?」
先輩に聞かれて少し悩む。
確かに家に昼ご飯が準備されているかどうかは謎だ。
普段は学校があるために昼ご飯の心配はしなくていい。土曜日や日曜日は大抵昨日の晩御飯の残り物や簡単なものを作る程度だ。もしくは食べないという選択肢も割とある。
長い時間外に出続けるのは疲れるなと思う反面、今日の掃除の時のことも思い浮かべる。
少し悩んだ後、
「……自分も行きます」
そう答える。
それを聞いて嬉しそうな山吹と東雲。そしてその後ろでニヤニヤしている花山が視界に入った。
駅前にあるハンバーガーショップに入り、女子組と男子組に分かれて注文しに行くこととなった。割と席は結構空いていおり、女子組が注文している間、外の景色がよく見える窓側の席に座る。
「今日の掃除の時、割と楽しかったんじゃないか?」
座るや否や花山は話しかけてくる。大凡予想はしていたが……。
「掃除をしていて楽しいなんて思わないだろ」
「そうか? 僕は掃除好きだけどなあ。なんか心が部屋の埃と一緒に現れる気がしないかい」
まあ、言っていることもわからなくはない。
「それは花山みたいな完璧な人間しか思わないだろうよ」
「僕にも出来ないことはたくさんあるんだけどね」
そのタイミングでちょうど女子組が帰ってきた。それと交代するように自分達が注文しに行く。
「話を戻すけど、掃除自体が楽しいってことじゃなくてみんなと何かをするっていうことが楽しかったんじゃないかなって思ってね。
だからこうやってここに来たんだろう?」
花山は相変わらずよく考えている。
確かに自分の性格を知っていればここまで推理するのはそこまで難しくはないとは思う。しかし、自分とは関係のないことを思案するということ自体が自分にとって面倒なことだと思ってしまうのだ。
そう意味で花山は凄いなと感じている。悪く言えばお節介ということなのだが。
人に構うのが面倒なだけで構ってもらう分には問題ないと思っている自分には有難い存在であるのは間違いない。
「……多分、花山が考えていることで全部合っている」
「やっぱりね」
自身の推理が当たっていたことに喜んでいるようだった。順番が来たので適当に注文して話を再開する。
「いつも思うんだが花山は自分に構っていて面白いのか? 自分が花山の立場なら自分は一番面倒くさいタイプの人間だと思うんだが」
少し考えた後花山は答える。
「そういう質問なら答えはイエスだね。構っていて面白いよ。何より、普段は自分から話しかけたりするタイプじゃない時枝だけど僕が話しかけた時はよく話すんだからね。
話しかけて言葉が返って来ることほど楽しいことはないよ」
話の最後に花山は少し遠くを見る。
昔何かあったのだろうかとも思ったがそれに突っ込むのは自分の趣味には合わない。
「後は、時枝の心情を考えるのも面白いかもね」
「なんだよそれ」
「まあ、時枝が気にしないなら万事オッケーだよ。僕は楽しんでやっているだけだから」
「そうか。それならいいんだが……」
注文していた品が届いたので、その品の乗ったトレイをもって席に持っていく。
「そうそう、もう一つの質問の答えだけど、僕が一番避けたいタイプはね……僕自身だよ」
それを言い終わるタイミングで席に着いた。少し気になる言い回しだったが聞くのはまた今度にしよう。
部活の事や勉強の事など、どちらかと言えば二人+一人が山吹に質問するという感じが多かったがそれなりに楽しめた。
まだまだ始まったばかりで実際の活動は何もしていないとは言え、このように部活をしている感じを自分が味わうことになるとは夢にも思わなかった。
花山の言っていた辛いけどいいこと、と言うのはこういうことだろうか。詳しくはわからないが今はそういうことにしておこう。
色々と話をしているうちに二時を過ぎていた。
「そろそろ帰りましょうか。このままだとおやつタイムに突入してしまいそうですし」
「そうですね。今日はありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。東雲さんも時枝もありがとう」
「お世話になりました」
東雲の返事に合わせてお辞儀をする。
僕達はこっちだからと言って花山と山吹はそのまま駅の方へ向かう。
「自分達も帰ろうか」
「そうですね」
軽く言葉を交わし家の方へ向かう。
「今日は掃除大変でしたけど、なんか部活している感じがあってとっても楽しかったですね」
「……そうだな」
「やっぱり。時枝さんも楽しかったんですね。どおりで表情が明るいなぁって思ってました」
「え、……そんなに表情に出ていたか?」
「私が見ていた感じだと凄く楽しそうでした」
もしかしたら花山があれ程確信を持った言い方をしていたのは自分の表情に出ていたせいかもしれないと感じる。
そう思うとなんだか悔しくなる。
「ああ、そう言えばずっと返そうと思っていたんですが……」
そう言って小さな袋に入ったハンカチを取り出し手渡される。
「えっと、これは?」
「何言っているんですか。入学式の時に貸して頂いたハンカチじゃないですか」
それを言われて初めてピンとくる。
普段はハンカチを持ち歩かないので、ない事すら忘れていた。
「あの時の……。ありがとう」
そう言い受け取る。
洗濯だけでなくアイロンがけまできっちり行ったのだろうか、しわ一つない。
「本当はもっと早くに返すべきだったんでしょうが、なかなか渡すタイミングが無くて……」
「いや、別にいつでもよかったから気にしてない」
「それならよかったです。花山さんがいる所で渡すのはたぶんダメなんだろうなってなんとなく感じていて」
その心遣いはパーフェクトだ。
確かに、花山に見られたら二、三日は揶揄われ続けただろう。東雲の判断に感謝しながら鞄にハンカチをしまう。
「そう言えば、前から気になっていたんだが東雲はどうして自転車通学しないんだ。東雲の家なら距離的に許可は出るだろ?」
「あー、それはマネージャーさんに止められているんです」
「どうして?」
「こけて怪我をする可能性があるからだそうです」
過保護すぎるんじゃないかとも感じたが、納得している自分もいた。
ここの道は記憶にある都会の道よりも凸凹しているし坂も多い。少し抜けている東雲ならこけてしまう可能性は十分に考えられる。
女優という身体を資本にしている職業についている以上、マネージャーが制限したくなる気持ちもわからなくもなかった。
「それなら今朝の二人乗りはアウトだったんじゃ……」
「ばれなければオッケーです」
少し意地悪そうな笑顔で答える。
しかし、自分として本当に危ないことをしていたんだなとつくづく感じた。知らないことほど怖いものはないというのは正しくこのことなんだろう。
「じゃあ、私はここで」
「ああ、東雲も色々と気を付けて」
「はい」
そう言いながら坂道を登っていった。
自分も押して歩いていた自転車に跨り自宅へと向かう。帰りは上り坂のはずだが行きの下り坂よりも軽く感じた。