カイセイメモリート(後編)
翌日の最後の授業。
この授業の後、すぐに水掛先生を捕まえて話を聞く算段になっている。そして、この授業をする者こそが水掛先生であった。
化学の教師である水掛先生は教科書とノートを開き、チョークを持つ。
「じゃあ、前回の復習から始める。そうだな。時枝、水はどういった結合をしているか覚えているか」
突然の指名に驚く。よりによって当たりたくないタイミングで当たるというのは何故だろうか。
「共有結合、です」
「そうだ。この様に水素原子と酸素原子が電子を出しあい、このように共有しているから共有結合と覚えるといい」
口頭で説明しながら黒板に模式図を記載していく。模式図を書き終えたようで、チョークの動きを止め、そのまま模式図の一部分を指した。
「じゃあ、花山。この部分を何と言う?」
慌てた様子の花山だがすぐに答える。
「えっと、共有電子対です」
「では、こっちは?」
「そちらは非共有電子対です」
「正解だ。じゃあ、東雲。黒板に水の電子式と構造式を書いてみろ」
「え、あ、はい!」
どこかぎこちない動きで東雲は黒板に向かう。
偶然だろうが、こうも見事に三人を当てられてしまうと、まるで先生はお前達が今日尋ねに来るのをわかっているぞ、と言われている気がしてしまう。
答えを書き上げて自分の席に戻る東雲の顔には、バレていませんよねと書かれている。こちらもそれに返答するように少し首を傾げて、そのはずなんだがと返す。
それ以降は特に当てられる事はなかったが、終始何とも言えない気分だった。
ようやく終業のベルがなり、授業の終わりを告げる。
それを聞いた水掛先生は
「今日の授業はここまでだ。問題集の基本問題の所は次までに終わらせておくように」
と言い、教科書を閉じる。
そして持ち込んだ荷物を持って教室を立ち去ろうとする。
花山の方を見るとこちらを見ていた。頷き返し、作戦を決行する。
水掛先生が部屋を出るタイミングで花山は部屋を出る。一足早く教室を出た花山は先生の下へ駆け寄り声を掛けた。
「水掛先生。一つ質問があるのですがよろしいですか」
「花山が珍しいな。どうした?」
「写真部の過去の部員名簿や活動報告などが見たいのですが」
「そっちの件か。そんなものを見てどうするんだ?」
「過去の活動の記録を見て、僕達の活動の幅を増やそうと思いまして」
「なるほど」
含みのある返事をしながら途中に追いついた自分達を見る。
「写真部の三人がおそろいとは、な。まあいい。ついてこい」
そう言い水掛先生と共に職員室へと向かった。
職員室へ着くと、水掛先生は机の引き出しを開け、薄いファイルを取り出す。
それを花山に手渡した。
「これが過去の二年分の活動報告と名簿だ」
過去二年分……?
「水掛先生、何故過去二年分だけなんでしょうか? もっと昔の分も見たいのですが」
それを聞いた水掛先生は笑い出す。
「昔も何もそれが一番古い写真部の記録さ」
「え? いや、それはどういうことですか?」
花山は状況を理解出来ず混乱しているようだ。
「どうも何も、写真部は創部三年目だよ」
「そんなはずは……」
やはりそうか。それが自分の中の答えが証明された。
花山と東雲の後ろから水掛先生に話しかける。
「やはり、写真部は廃部していたんですね」
「……さあ、知らんな」
水掛先生は自分の目をむしろ睨むようにして言う。そして、席を立ち上がる。
「さて、目的の物は手に入ったんだろう? 活動報告はあそこでコピーして持って帰っていいよ。名簿はコピーするなよ」
自分の方をポンと叩き、給湯室へ向かった。今はその姿を尻目に引き探すしか手がなかった。
やるせない気持ちを持ちながら三人は部室へと向かう。部室に着くまでは黙っていた花山だが、部室に着くなり自分を呼ぶ。
「時枝」
「どうした」
「さっきの写真部は廃部していたって言うのはどういう事だ」
「そのまんまの意味だよ。詳しくは分からないが、姉貴に聞いた噂の一つだ」
「なるほど、ね。その原因って」
「ご想像の通り、十中八九柳原事件だろうな」
「そうか。それは考えていなかったな」
花山は露骨に手で頭を覆い落胆する。東雲も花山ほど露骨にはしていないが、表情は暗くみえる。
下手に花山と東雲に廃部していた噂を伝えるのは如何なものかと思い、言うのを避けていたがこれでは逆効果だったようだ。
申し訳ない気持ちもあるが、このままここで悩んでいても生産性はない。
「黙っていた事は申し訳ないと思っている。だがこれは今、噂から事実になった。だから今後どうしていくかを考えたいんだが」
しかし、花山の耳には届いていないようだった。それならばと、話の方向性を変える。
「とりあえず、今日はもう帰って、来週の月曜日にもう一度話をしないか」
「そうだね。今はあまり考えられないみたいだから」
そう言って花山はかばんを持ち部室を出る。その姿はまるで二回りほど小さくなったように見えた。
花山が部室を出た後、東雲の方を見る。
「東雲は帰らないのか」
「あ、そうですね。私も帰ります」
何処か名残惜しそうにしているが、東雲も帰ろうとする。部室の扉を閉めようとした所でこちらに向き直る。
「時枝さんは帰らないんですか」
「ああ、自分も帰る。でも、少し別の用事を思い出してな。先に帰っていてくれ」
「そう、ですか」
東雲はまだこちらを気にしながらも部室を出ていった。
花山と東雲がこの部室を出て約十分。
二人とも学校を出て帰路についているだろう。そう考えて椅子から立ち上がる。
大きく背伸びをする。
さて、この話もそろそろ終わりだ。
心の中で呟き職員室へ向かった。
職員室の扉を少し開け、中を確認する。中には目的の人物もいるようだった。
幸運な事に職員室にいる人の数も少ない。
扉をノックし、「失礼します」と言いながら入る。向かう先は一つだ。
パソコンで何かの作業をしていた水掛先生だったが、自分の姿は視界に入っていたようで、傍に着くなり、
「何のようだ、写真部の話はさっき終えただろ」
と言い放つ。
そして作業を止めて、椅子のひじ掛けに肘をつき、頬杖を付いてこちらを向く。
上からの目線は気持ちの良いものではないのは事実だが、この先生の場合、下からの目線でもかなり怖い。
それに臆することのないよう、一度深呼吸を入れる。
「写真部とは別の事をお聞きしたくて」
「ほほう? それはなんだ?」
「先生は何故教師になろうと思ったのか、についてです」
水掛先生も想像していた質問と異なったのか、少し呆気に取られていたが、すぐに答える。
「何を言っているんだ?」
「将来のお悩み相談、ですよ」
明らかに、嘘をついているだろうと言う視線を感じる。勿論これは嘘だが、本質はここでない為、ばれていても構わない。
「……まあいい。人に物事を教えるのが好きだからだ。これで文句ないだろう」
ぶっきらぼうに突き返す水掛先生の言葉をすぐに否定する。
「それは違いますね」
「ほう? じゃあ、時枝はなんだと思うんだ? 本人が、教えるのが好きだからと言ったのに、それが違うというのか」
昨晩考えてきた事を頭の中でもう一度反復させる。そして水掛先生の目をしっかりと見た。
「はい。先生が教師を目指した理由は、いじめを無くすためでしょう?」
水掛先生の大きな目が更に大きくなるのがよく分かった。
そして、今までの余裕に満ちた表情が変化したのも。
水掛先生はこちらの話を遮らないため、このまま話を続ける。
「先生は高校生の時、自身が可愛がっていた後輩が虐められて自殺した事を知った。
面倒見の良い先生の事だ。その時、なぜその子を助けてあげられなかったのかを悔やんだでしょう。
でも、ある日、その罪滅ぼしの方法を思い付く。自身が教師になって自分の力で生徒を守ればいいのだ、と。……違いますか?」
水掛先生は何も話さない。しかし、その時間が続く程こちらの確信が強くなる。
暫くして、
「どうして、どこで、それを知った」
と聞き返す。
怒っているというよりは、どうしてその秘密を知っているのかと不思議がっている印象を受けた。
「姉貴に聞きました。いや、正確には姉貴が姉貴の先輩に聞いたんですが」
それを聞いて小さく驚いた後、ため息をついた。
「……時枝美波、だったか」
「姉貴を知っているんですね」
「ああ、知っているとも。高校三年生の時の教え子だからね」
「なるほど。そういうことでしたか」
机の上にあった水を飲み干し、話を続けた。
「彼女は標準クラスにいたものの優秀な学生でね。生徒会もやりながら部活もこなし勉学でも秀でていた。そんな彼女に私と同じ大学を進めたのは秋頃だったかな」
「立志大学、ですね」
水掛先生は無言で頷く。
「まさか推薦したのがここで帰ってくるとわな。世間っていうのはわからないね」
そう言って薄く笑う。
「時枝の勝ちだ。ったく、時枝姉弟にはいつもいっぱい食わされるね」
「姉貴がご迷惑でもおかけしましたか」
「はは。迷惑しかかけられてないよ」
そんな風に返す水掛先生の表情は何かを懐かしむようにどこか遠くを見ているようだった。
「それで、お前達は一体何を知りたいんだ?」
「柳原事件の真相について教えて頂こうと」
「なるほど。柳原達也について知りたい訳だ」
「そうです。柳原達也の先輩である先生なら何かご存知かと思いますが思いまして」
それを聞くと水掛先生は腕を組み視線を下に落とす。
「時枝は、私がなぜ教師になったかを言ったな? もし私がその時に詳しい話を知っていたら柳原は死んでいたと思うか」
少し考えて、首を横に振る。
「ご名答。私は何も知らなかった。だから柳原が自殺するのを止めることが出来なかった。部長として、先輩として、柳原の様子に気付くチャンスはたくさんあったというのに気付けなかったのさ」
水掛先生は顔を上げる。
「だから私にそれを語る資格はない」
「それはつまり……」
「ああ、私からは何も言わない」
「そう、ですか」
悔しい気持ちはあるが、本人が意志を固く持ち断っているのだからこれ以上は追求しない。それは無駄な労力になる。
「ただ」
「ただ?」
「私から君達にその事件について詳しい人を紹介してあげよう」
「……!」
「もっとも彼女も社会人だ。すぐには会えない。そうだな……」
水掛先生はそう言い携帯電話を取り出す。暫く操作をした後、
「君達の期末試験後なんてどうだ? 試験終わりの楽しみには丁度いいだろう?」
と提案する。
起死回生の一手を講じたのだから、多少時期が遅い分には構わないだろう。
「分かりました。それでお願いします」
「オーケイ。化学基礎の点数が悪かったらなしにするから頑張れよ」
「二人なら先生の納得する結果を残してくれますよ」
「お前はどうなんだ?」
「先生の授業次第ですね」
「なら、満点だな」
「ご冗談を」
水掛先生は笑い声を上げるが、目元は全く笑っていなかった。
そして小さく息を吐く。
「なあ時枝」
「な、何でしょうか?」
「一つ聞きたい事があったんだが、どうして三人でここに来た時に今回の話をしなかった?」
揶揄い過ぎた事を怒られるのだとばかり思っていたが、水掛先生の中でその件については特に気にしないらしい。
「別に大したことじゃないですよ。自分は人の秘密を他人に話す趣味はないだけです」
「そうか。時枝は優しいな」
「いえ、別に。では要件も済みましたしそろそろ出ますね」
「ああ」
水掛先生に一礼した後、出口へと向かう。
職員室を出た後、花山と東雲に水掛先生との交渉が成立した旨を話伝えようと思い携帯電話を取り出す。しかし、三人のメッセージグループを開けた所で考え直す。
よく考えれば写真部の過去について話すことを拒否したその日に、柳原事件について話す交渉に成功したと言うのは少し不自然だ。東雲だったら気にしないだろうが、花山なら何かしら気付いてしまうかもしれない。
そんな事を考えて、携帯をポケットにしまった。
また、詳しい話は次の月曜日にすればいい。真相が明かされる日は決まっているのだから、今を焦っても仕方ないのだ。