咲耶と藤の花
ー異世界へ引っ越し。軽く言うけど、それって別次元への転移⁈ー
引っ越しして欲しいというが、無理に決まっている。
今の科学力でも、遠く離れた場所を一瞬にして移動するなど荒唐無稽な話。
それに、自分でなくても良いと思う。魔法やファンタジー好きな人達は世の中に数えきれない程溢れかえっているのだから。
「夢物語をしたかったら、別の人にしてください。私は非現実には興味がないと言ったはずです」
咲耶は自分の手を青年からひきはなし、これ以上の会話は時間の無駄だと、青年を突き離す。
だが、青年も諦めない。他の誰でもなく、咲耶に来てほしいと願っていたからだ。
「貴方じゃないと駄目なんだ。どうしても私の世界に来てほしい!」
青年の黒曜石の様な瞳に見つめられ、咲耶はそれ以上否定の言葉を言い出せなかった。
自分が悪い訳ではないが、意地悪をしている気になってくる。
「だから、何故私なんです?なんの取り柄もない一般人だと思うんですが?」
「理由はもちろんあります」
咲耶の言い分ももっともだ、と分かっていた
青年は理由を語り出す。
「自分では気がついてないでしょうが、貴方の周りからは癒しの光のようなものが、微量に零れています。
何気ない生活の中では出てこないんですが、
条件が重なると周りの者達に影響を及ぼしてしまいます。」
「影響って言うと?」
咲耶が話の続きを問うと、論より証拠を見せましょう。と、咲耶の手を引き公園の奥へと向かう。
「この場所は、確かー」
「はい。貴方も知っている通り、数日前に心無い者達によって切り倒された藤の樹の亡骸です」
この公園のシンボル的な藤の樹が切り倒された話は、街の誰もが知っていた。まだ、犯人は捕まっていない。
「手を藤の樹に触れてあげてください」
「わかりました」
咲耶は青年の言葉に促され、無残な姿の藤の樹に触れた。
藤の花が咲き誇る時期になると、咲耶は花を愛でながら読書をしていた。もうあの藤の花を見れないと知った時は、凄く落胆し早く犯人が捕まる事を願った。
「願ってください。傷が癒える様に…。また、美しい紫の花を咲き誇るその凛々しい姿を思い描いてください」
そっと瞼を閉じ、またあの綺麗な紫の花が観たいと咲耶は願った。
青年の言葉を信じてはいない。でも、周りに与える影響が良い事ならば嬉しいなと、咲耶は心の片隅で思う。
「もういいですよ。眼を開けてみてください」
どれくらい藤の樹に触れていただろう。青年に促され、咲耶はゆっくりと瞼をあけた。
「まさか、この香りは⁈」
咲耶の視界に飛び込んできたのは、嗅ぎ慣れた懐かしい甘い香りを放つ紫の花々だった…