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隣国が一斉に攻めてきた。
その報せが首都に届いたのは、シャルトリューとタビーが婚約をして半年が過ぎたころだった。
たいした国力を持たないと侮っていた隣国からの、これまでの小競り合いではない総力を挙げた攻めに、軍をまとめる国の中枢は困惑し、けれど速やかに撃退せよ、と命をくだした。
「お前らは、新婚前にせいぜいいちゃいちゃしとけ」
そう言って、シャルトリューに来ていた出撃命令をかっさらったのはコラットだった。
ことさら明るく笑う男を見送った数か月後。寒風が太陽のぬくもりを蹴散らす季節になっても事態は収まらず、ふたたび兵が集められ出撃の準備が整えられた。
「やはり、わたしも行かなければならない。コラットが耐えているあいだにたどり着かなければ」
シャルトリューは、タビーの肩を抱きしめて言った。
季節は冬。前線の兵のために国じゅうの食糧をかき集めて送るのにも、限界がある。
備蓄が尽きれば戦に勝ったとて、国が終わる。それは隣国も同じはずなのに、どういうわけかあちらは物資を気にする様子もなく攻めの姿勢を貫いているという。
隣国の供給源をさぐる者たちの報告を待つ暇はなく、早急な終戦のため、シャルトリューはかわいい婚約者を残して起つ決意を固めた。
タビーはその背に声を投げた。
「ならば、わたくしをお連れください。シャルトリューさまのお背中を守ると、誓いました」
姿形やことば遣いこそ令嬢のそれになったが、かつてと変わらぬ凛としたタビーの声に、シャルトリューは足を止めた。
振り向いて、変わらず輝いて見えるタビーの肩を抱いた彼は、けれど首を横に振った。
「ごらん、きみの身体はすっかり細く、令嬢そのものだ。そんな身体で剣を振るうことはできないだろう。お願いだから、わたしの帰る場所を守っていてほしい。わたしはきみを守りたいんだ」
言われて、自身の腕を見下ろしたタビーは、すっかり筋肉の落ちた白い腕を見つめた。淑女教育をはじめた日から、剣はもう必要ないと、触れさせてもらえなかった。
取り繕って微笑むことが、美しく着飾ることがシャルトリューを守る力になると思ったからこそ、タビーは剣を手放したのだ。
「……わかりました。わかりました、シャルトリューさま。お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
タビーはきれいに微笑んだ。シャルトリューが振り向かずに行けるように、見送ることこそ彼の心を守ることになると、彼女はわかっていた。
そうしてシャルトリューが中央を発ってほどなくして、隣国に物資を提供している他国の存在が明らかになった。
それとときを同じくして、タビーはシャルトリューの屋敷から消えた。彼女の部屋の机には求婚のおりに渡された指輪が置かれ、椅子には彼女の着ていたドレスがかけられていた。
彼女に与えられたすべてはそのまま部屋に残されており、ただ便箋が二枚減っていたほかは、なにも無くなったものはなかった。
そのことをシャルトリューが知ったのは、どうにか隣国を退けて首都に帰ったあとだった。冬のいちばん寒さが厳しい時期だった。
「タビーが、いなくなった……?」
急に攻める手を弱めた隣国を打ち負かし、かわいい婚約者のもとへ急ぎ帰ったシャルトリューは、家令にそう聞かされて呆然とした。
次いで、彼女の名を呼びながら屋敷じゅうを駆け巡った。
ふたりで歩いた花に満ちた庭園は、寒さに花を落とし葉を落としして人影はなく、風が通り抜けるばかりだった。
コラットを交えてにぎやかに笑い合った一室は、掃除が行き届いて清潔ではあるものの、あの日に感じた暖かさも明るさも、かけらも残ってはいなかった。
消えた彼女の痕跡を探しまわるシャルトリューは、けれどどこにも見つけられないタビーの気配に焦りを強くする。
彼女がおとずれたこともないような客間や父の私室、母の衣裳部屋まで駆け込んで探したけれど、彼女はどこにもいなかった。
タビー、タビーと血相を変えて探しまわるシャルトリューを止めたのは、コラットだった。
シャルトリューと時を同じくして帰還していたコラットは、軍の施設に顔を出していたはずだった。
「コラット、コラット! タビーがいないんだ! タビーがいなくなってしまった!」
慌てふためき声を荒らげるシャルトリューの眼前に、コラットは一枚の紙を突きつけた。
なんだ、とシャルトリューが怪訝な顔をしたのは一瞬。その紙に見覚えがあったシャルトリューは、ひったくるようにして手に取った紙に釘付けになった。
「……タビーが、おれの昔の部下に預けていったらしい。ちょうど、隣国に物資を送ってる他国のことがわかったあとだったそうだ」
静かなコラットの声に、返事はない。
シャルトリューはただ一枚きりの紙を見つめて、見開いたひとみから透明な雫をこぼす。
「前線で、敵の兵士のうわさを聞いた。ある夜、運び込まれてきたばかりの物資が燃えたんだと。大変な騒ぎになってあわてて火消しをしてるあいだに後続の輸送物資も次々に燃えちまって。そのときに、女の影を見たんだと。火のなかに進んでいく影を見たんだと」
ぽたぽたと落ちていた雫は、いまやぼたりぼたりと大粒の雨となり、遺された紙に降り注いでいた。
「あいつ、おれたちの、お前の守る国を守るために、輸送路を断ちに行ったんだ。隣国のやつらが急に軍を引いたから、何事かと思ったが……」
コラットの押し殺したようなつぶやきに答えることばを、シャルトリューは持たなかった。
床に崩れ落ち、むせび泣くことしか彼にはできなかった。その手のなかで握り締められた紙切れは止まらない涙を受けとめて、遺された「愛しています」という短い手紙の文字を滲ませていた。
泣き崩れたシャルトリューの屋敷を出たコラットは、ひとり静かに来た道を戻っていた。
シャルトリューのもとへ駆けつけるため、借りてきた馬を軍の施設に戻さなければならなかった。けれど馬に乗って駆け戻る気にはなれず、コラットは手綱を引いて歩いていた。
重い足取りで進むコラットの懐で、かさりと紙が音を立てた。
ちら、とそこに視線をやったコラットは、懐にねじ込んだ紙に書かれた文字を思い出して、暗い息を吐いた。
シャルトリューに宛てたものよりよほど長々と綴られた紙には、タビーの胸のうちにあった思いのかけらが記されていた。
「あたしに愛はわからない。恋も知らずに生きてきた」
そんな書き出しではじまる手紙には、屋敷での贅沢な暮らしを感謝することばが続いていた。
けれど。
「たくさんの物を与えられた。それがシャルトリューさまの愛なのだと、まわりのひとたちは言った。けれど、あたしはあのひとを守りたい。守られるだけでなく、あのひとを守って戦いたい」
長々と綴られた手紙のなかに紛れていたけれど、それがタビーの本音だったのだと、コラットにはわかった。
何度となく、コラットの胸によぎっていた不安は、気のせいではなかった。
彼と彼女の思いは同じだった。互いを守りたい。同じ思いを抱いておきながら、彼らの心はすれ違っていたのだ。
コラットは天を仰いで唇を噛み締めた。
小難しい言い回しも書けるようになっていた彼女が、余計なことばをそぎ落として遺した手紙だった。
シャルトリューがその思いを知るべきなのか、否か。
迷い、悩み、考え続けたけれど、コラットには答えが出せなかった。
答えが出せないまま、コラットはその手紙をきれいな箱に収めて土に埋めた。シャルトリューも訪れることができる、コラットの私室から見える家の庭に、タビーの手紙を埋めた。
墓標は彼女の剣だ。
預かっていてほしいと託されて、ついに返す機会をなくしてしまったタビーの剣を突き立てたしたに、彼女の身体はない。ただ、彼女の遺した思いだけが、葬られていた。