第3話 泣き続ける女
今日もまだ午前中だというのに、隣はどたばたとうるさい。
昨夜も『似非占い』をしてきたので、眠りに就いたのはついさっき。
例の一件であーちゃんには若干の情も湧いたが、こうも安眠を妨げられては怒りも湧くというもの。隣りとを隔てる壁を蹴ることで、こちらの意思を示す。
やれやれ、静かになったか……と、思ったのも束の間。またすぐに始まる運動会。
これはたまらない、睡眠どころではない。
かといって、出掛ける用事もない。
(仕方ない、約束してた大山夫婦でも訪ねてみるか……)
携帯で連絡を入れると、快い返事。
天気予報は下り坂らしいが、空を見上げれば良い天気。
迎えに来てもらうのも申し訳ないので、のんびりと散歩がてら、自力で向かう。
バスを乗り継いで二時間。この辺りの交通事情を甘く見ていた。
もっとも、ほとんどが乗り継ぎの待ち時間だったわけだが……。
「もう、来ないのかと思っちゃったわよ。ちょうど、お昼を食べてたところだから。さぁさぁ、上がって上がって」
妻の麗子に案内され、さっそく居間へと迎えられる。
旦那の幸一とは最近会ったばかりだが、親父さんも変わらず元気そうだ。
だがそんな中に、招かれざる客が一名。
「よお! 兄弟、久しぶりだな。まだ生き延びてやがったんだな」
その金髪、その軽口、ちっとも変っていない。
病院で再会した時に、麗子が話していた通りだ。図々しく我が物顔で、昼食を頬張っているのは啓太。
「それはこっちのセリフだよ。なんでお前がここに? てっきり今頃は、臭い飯でも食わされてるかと思ったぞ」
「麗子さんが作ってくれた飯を臭いとか、失礼にもほどがあんぞ。おめえに食わせる飯はねえから、とっとと帰んな」
麗子に後頭部をはたかれる啓太。
そのはずみで、ご飯を勢い良く吹き出す。
「あんたこそ、一体何人前食べたら気が済むのよ。鳴海沢くんの分がなくなっちゃうでしょ?」
「いやあ、あまりに麗子さんの作る飯が美味いもんで……つい」
「よくもまあ、こんな奴に好き放題させてますね。断りにくいなら、警察呼びましょうか?」
「でもまあ、お義父さんの救出に一役買ってくれたのは確かだから、ね」
一番迷惑を被っているはずの幸一がそう言うのなら、これ以上挟む口はない。
ひょっとしたらの展開も考え、サングラスを外したのだが……。
どうやらそれは、取り越し苦労に終わりそうだ。
「そうだぜ。それに俺様を仲間に引き込んだあの言葉、忘れたとは言わせねえ。『億単位の金が拝めるぞ』だ。それに比べりゃ安いもんだろ、これぐらい」
「実際拝んだだろ? 十二億もの札束。騙されたお前が悪いんだよ」
「そんな屁理屈通るかよ! しかも俺だけ置いて、みんなは逃げやがってよ」
よくもまあ、そんな言葉が言えたものだ。
逃げようと思えば、一緒に非常梯子で逃げ出せたはず。
札束の山に目が眩んで、自ら居残ったという方が正しい。
「でも残ったお陰で、ちゃっかり札束抱えて逃げ出したそうじゃないか。だったら、報酬も手に入ったようなもんだろ」
「あれは報酬じゃねえ、自分で勝ち取った金だ。大体、あんだけ札束が積み上がってたのに、たった一千万しか持って帰れなかったんだぞ」
元々、騒ぎを起こした隙に人質を救出する作戦だったから、金を持ち出す余裕なんてなかった俺たち。
それに比べれば、そんな大金を手にしている啓太が羨ましいぐらいだ。
サングラスを掛け直し忘れていたせいで、啓太が思い浮かべた札束まで見せつけられてしまった。本当にイラつかせてくれる奴だ。
「一千万も手に入れたなら上出来じゃないか。どうせ、がめつく貯め込んでるんだろ? 麗子さん、こんな奴に飯食わせることないですよ」
「アハハハ。あたしは別に構わないわよ、ご飯多めに作るぐらい。農作業も手伝わせてるし、子供のいない我が家には、これぐらいの賑やかさがあった方がちょうどいいわ」
睡眠不足なので少しのんびりしようと思っていたのに、啓太のお陰でぶち壊し。
やれやれ、とんだ同窓会だ……。
日も傾き、家へと帰る道すがら、どこからともなく子供の泣き声。
家が近づくにつれて大きくなる泣き声の主は、予想通りあーちゃんだった。
どうやらベランダに出され、窓を閉められたらしい。あまりに騒ぐから説教でもされたのだろう、いい気味だ。
自室に戻ると、強烈な睡魔が襲う。
ほぼ徹夜のまま、そろそろ起きている時間も二十四時間。
ここまでくると、あーちゃんの泣き声がしようがおかまいなし。気を失うように、快感を伴いながら眠りに落ちていった……。
「――ウェッ、ヒック……。ウウウ……」
外から聞こえてくる、薄気味悪い物音に目を覚ます。
だが耳を澄ましてみれば、泣き方は変わったものの、これはあーちゃんだ。
(熟睡したみたいだったのに、もう起こされたのかよ……)
眠りが深い時には、一瞬でもたっぷり寝たような気になるものだ。
時刻を確認するために、携帯電話を取り出す。
午前零時三十分……。
確か俺が寝たのは日没前だから、午後六時ぐらいか。
まさか、ずっとあのままなんじゃ……。
急いで窓を開けると、外はいつしか、そぼ降る雨。
そんな中、薄暗い街灯に照らされていたのは、隣のベランダで手すりにつかまりながら泣きはらす、あーちゃんの姿。
なんてこった、これじゃいつまで経っても泣き声が止むはずがない。
「こんな雨の中、いつまで子供を外に放り出しておくつもりだ。いい加減にしろ」
隣の家のドアを乱暴に叩く。
姿を見せたのは、寝間着姿の母親。顔を出すなり平謝り。
だがすぐに、父親がしゃしゃり出てくる。
「よその家の教育に口出すんじゃねえ。家には家のやり方ってもんがあるんだ!」
「ずっと泣き声を聞かされ続けてる、こっちの身にもなってみろよ!」
わざわざサングラスなどかけてこなかったので、そのまま父親の目を凝視。
そして映し出された光景に、こぶしを握り締めるほどの怒りが湧く。
頬を平手打ち。頭へのげんこつ。体罰なんて、そんなものだと思っていた。
だがこの男の容赦のなさは、まさに悪魔の所業。
顔面への握りこぶしでのパンチ。
腹、背中問わずの蹴り。
ポットを持って追いかけ回し、浴びせられる熱湯。
吐き気を催すほどの弱い者いじめ。紛れもない、幼児虐待だ。
父親を突き飛ばし、母親をかいくぐってベランダへと向かう。
建付けの悪い窓にイラつきながらもなんとか開き、ベランダにいたあーちゃんを抱きかかえる。
背後から喚き散らす父親。振り返って見ると、右手に握りしめているのは包丁。
(マジかよ……。正気の沙汰じゃないな……)
父親の背後から、母親が懸命にしがみついて制止しているが、それも時間の問題。
そんな腕力差では、いつまでも止められるはずもない。
ベランダから地面を見下ろすと、そこはドロドロのぬかるみ。
再度振り返った眼前には、母親の手を振りほどいた父親が突き出した包丁が。
咄嗟に首を傾け、それをかわす。
頬を掠める包丁の刃。
そのまま父親の腹に蹴りを入れ、なんとか弾き飛ばす。
ここは二階。行けないことはないと、覚悟を決めた。
「――ごめんな、あーちゃん。あの時に気付いてやるべきだったな……」




