第7話 再びメスを握る男
どんよりとした曇り空。
寺の山門は、昼だというのに喧騒とは無縁の、厳かな雰囲気に包まれている。感受性が豊かな者であれば、心が洗われると感じるのかもしれないが、そんなものは持ち合わせていない。
倦怠感が身体を包む。
そして後悔。
どうして、ろくに確認もせずに安請け合いしてしまったのか。待ち合わせ場所が、こんなに辺鄙な所だったとは。
「こんな場所まで来てもらって、すまんね」
「いえ……」
少し遅れて到着の剣持。
左手には新聞、右手には花束。
寺で花束とくれば墓参りだろう。口数少なく剣持の後に続く。
「ここだ」
そう言って剣持は立ち止まると、ポケットに忍ばせていた線香を取り出し、ライターで火を点け、手で扇ぎ消す。
「死なせてしまった患者の墓だ。良かったら、お前さんも手を合わせてやってくれ」
線香の半分を受け取ると、墓前に供え、軽く手を合わせる。
面識のない人物の冥福を祈るなど柄ではないが、剣持の表情を見ると無下にもできない。
場所を譲ると、続いて線香を供える剣持。
さらに手に持っていた新聞を広げ、墓前に供えると、両手を合わせて目を閉じた。
(そういえば、今度の水曜日が親父の命日だったな……)
供えられた新聞に躍る【凪ヶ原総合病院、事故に見せかけた殺人】の見出し。
院長は律儀なのか、小心なのか、すぐに警察へ通報したらしい。あの日の翌朝には、副院長、外科部長、看護師長が揃って逮捕されたことを伝えるこの新聞が、街を賑わす結果となった。
「ありがとう……」
そう言って、剣持は手を合わせたまま、穏やかな表情で頭を垂れた。
一般的な感謝の言葉。しかし、感謝の二文字では到底言い表せない重み。そして感じ取れる、心の奥底から湧き上がる剣持の思い。
発した言葉と共に、両頬を伝う涙。
うつむいたまま、沈黙を続ける剣持。
だがやがて、肩が小刻みに震えだす。
「……本当に、ありがとう……」
感謝の言葉が繰り返された時、剣持は泣き崩れた……。
さすがに、剣持が落ち着きを取り戻すには時間を要したが、三度目の感謝の言葉は、曇りのない爽やかさだった。
「実は、今日が彼の命日だったんだ。三回忌に真実が報告できて、本当に良かった。お前さんのお陰だ。ありがとうよ」
墓所から参道へと向かう道すがら、一組の夫婦とすれ違う。
記憶の中で見覚えのあるこの人物は、確か患者の遺族だ。
命日だというなら、墓参で鉢合わせも当たり前か。
「覚えてて下さったんですね……」
「こんなことぐらいしかできなくて、すいません……」
気まずい沈黙。
お互いに、次の言葉を探しているようだ。
先に見つけたのは遺族。
「手術後の先生の顔、今でも忘れていません。自信を持って、やり遂げた顔をしてらっしゃった。やっぱり、手術は成功してたんですね……。新聞、拝見しましたよ。……でも、息子は死んじまった……。帰っちゃこない……」
遺族は拳を握りしめる。
行き場のない怒り。
そんな思いが、ひしひしと伝わってくる。
「心中、お察しいたします」
「剣持先生の手術の失敗だったんだ。運が悪かったんだ。そう言い聞かせて暮らしてた時の方がマシでした。言い方は悪いが……、静かに眠っていた息子を墓から引きずり出されて、また殺された。そんな気分です」
申し開ける立場の剣持でさえも、口を堅く閉じて沈黙。
遺族の、この思いに挟める口など、どこにもない。
それほどまでの威圧感。
「ここには、ちょくちょく親類縁者も墓参りにきます。顔を合わせたら、また思い出しちまう……。だから、気持ちはありがたいですが、もう来ないでやってください」
遺族はそう告げると、軽く一礼し、墓所へと消えていく。
剣持は黙ったまま、それを見送っていた。
「良かったんですか? あれで」
「良かったさ。お前さんのお陰で出入り禁止になる前に、彼に報告することができたんだからよ」
聞きたかった内容とはズレた回答。はぐらかしたのか。
まあ、これ以上は当人同士の問題だ。口出し無用だろう。
「そんなことよりも、だ。美味い店に予約を入れてあるから、お礼にご馳走させてくれよ。そのために、今日は来てもらったんだからな」
「もらった見料分の仕事をしたまでです。礼には及びませんよ」
「及ぶ、及ぶ。お前さんは俺にとっちゃ、命の恩人だってばよ」
命の恩人とは最上級の待遇だ。だが、命を救った覚えはない。
それにそもそも、剣持を救おうと思って行動したわけじゃない。
行動した結果、ついでに剣持も救われただけの話だ。
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃねえよ。俺の手術は失敗じゃなかったって、おまえさんが証明してくれたんだからな。そのお陰で、やっと決心がついたんだ」
「なんの決心です?」
「職務復帰だよ! メスを握るのが生き甲斐の俺様がまたメスを握るんだ、生き返ったも同然だろ? どうだ! 命の恩人じゃねえか」
謎の理論だが、剣持の勢いに負けて思わず苦笑する。
そこには記憶を見た夜の、自棄になっている剣持の姿はなかった。
きっと、亡くなった患者を手術した後の表情は、こんな感じだったに違いない。
「あの病院に戻るんですか?」
「違う違う。元院長が、小さいながらも病院開いててよ。うちに来ないかって誘われてたんだよ。でも俺は実名は出なかったものの、週刊誌に載ったような男だ。だから、妙な噂を持ち込んで迷惑をかけるんじゃねえかって、踏ん切りがつかなかったんだよ」
「そういうことなら、確かにお役に立てたみたいですね」
「やっぱり俺は、外科医だからな。救えなかった命は、より多くの命を救うことでしか償えねえんだよ。だからメスを捨てちまってたら、あの少年に償えねえまま残りの人生を過ごすところだったぜ。ありがとうよ」
「忘れられない出来事になりましたね」
「そうだな。そういやあ、かつてもう一人、忘れられない患者がいたっけなあ……」
そう言いながら、昔を懐かしんでいる風の剣持。
この街の過去ならば、父に繋がる手がかりが得られるかもしれない。
そんな胸騒ぎを覚え、慌ててサングラスを外す。
「どんな人だったんです?」
「あれは……。三、四年前だったかな。目の前に死がチラついてるってえのに、悟りきったっつうか、まるで仏様みてえに穏やかな顔で治療を拒んだ奴がいたんだよ」
残念ながら、剣持が思い浮かべた顔は父ではなかった。
さすがに、そこまでの奇跡は起こらない。
しかしその知った顔は、偶然と呼ぶには足りないほどの巡り合わせを感じる。
「――その話、初めからもっと詳しく聞かせちゃもらえませんか?」